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子供の願いを完璧に叶えてはいけない…精神科医が「子育ては手を抜いたほうがいい」と助言するワケ

プレジデントオンライン / 2022年2月21日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kohei_hara

親の存在は子どもの成長にどう影響するのか。精神科医の斎藤学さんは「泣いている赤ちゃんを無視するような親のもとで育つと、思春期に大暴れするケースがとても多い。一方で、なんでも子どもの願いを叶える親の子にも、意外なリスクが潜んでいる」という――。

※本稿は、斎藤学『「毒親」って言うな!』(扶桑社)の一部を再編集したものです。

■赤ちゃんに不断の関心を払うのが「よいおっぱい」

イギリスの精神分析医(もともとは小児科医)のドナルド・ウィニコットは、「グッドイナフ・マザー」という言葉を提唱しています。滅多にいないほどの理想的な親ではなく、「まぁまぁ普通の親」という意味です。

子どもが生まれてすぐに親が感じるのは、何ひとつ自分ではできない、言葉にさえできない、赤ちゃんの無力さと脆弱(ぜいじゃく)さでしょう。親は「大変だ。必死で育てないと死んでしまう」と感じます。泣いていないか、布団をかぶって窒息していないか、何か異常なことが起きていないか、お腹がすいていないか、おっぱいは足りているのか、始終見張っていないと心配です。

「よい親」とは「よいおっぱい」ですから、タイミングよく授乳などの世話をしてくれる親。どうしてタイミングよく授乳できるかといえば、赤ちゃんに不断の関心を払っているからです。常に赤ちゃんに関心を持ち、ちょっとグズったら、「おむつ?」「おっぱい?」と世話をします。

現実的には、親の側にも生活がありますから、必ずしもタイミングよく世話ができないこともあるでしょう。しかし、少しくらいタイミングが遅れたとしても、泣いている理由がわからなかったとしても、赤ちゃんのことを気にかけて世話をしていれば、「まぁまぁ普通の親(おっぱい)」です。

■「悪いおっぱい」の子どもは泣かなくなる

一方、生まれたばかりの赤ちゃんに“自分が世話をしなければ死んでしまう”という脆弱さを感じることができず、赤ちゃんが泣いているのを無視する場合は「悪いおっぱい」です。つまり「おっぱい」とは、個別の部分対象を指すというより、「場合」や「状況」を指す言葉なのです。

例えば家業の店を営んでいて、忙しすぎるような場合もあるでしょう。親に時間的な余裕がなく、おっぱいがほしくて泣いてもかまってもらえない。そういう場合に、あきらめてねだらなくなる赤ちゃんが現れます。これが「サイレント・ベビー」です。どんなにほったらかしにしておいても、ちっとも泣かず、おとなしくじっと待っている。母親がそばにいても静か。

■子どもが思春期に突然暴れだすのはなぜか

こんな「まったく手のかからない子でした」というような子が、思春期になると手首切りから首吊りまでやってみせて大暴れする「自己愛性憤怒(ふんぬ)」という大爆発をすることがあります。というかそういう例が異常なほど多い。乳児期に一番大切な自己主張ができていないためです。「お腹すいたー!」とギャーギャー泣いて怒るという自己主張をやっておかなかったツケで、成長して言葉を持ってから爆発的に自己主張をして「毒親(悪いおっぱい)」を攻撃してしまうのです。

いずれにしても、子どもは少し成長すると、親の言うことを聞かなくなるのが普通です。喜ぶだろうと親が注文してくれたお子さまランチを見て癇癪(かんしゃく)を起こしたり、「さわっちゃダメよ」と言っておいたものに限って親の目を盗んでいじって壊したり。

また、自分も大人になりたい、ひとつ上の段階へ進みたいという要求(親をモデルにした理想的な自己に達したいという要求)も出てきます。だから、ひとりで階段を上りたがって、「危ない」と親が手を貸そうとすると、その手を振り払って暴れたりする。

自分の能力を試したい、ちゃんとやれることを示したいのです。こんなとき、「あらあら、つい最近まで赤ちゃんだと思っていたのに」と我が子の成長をほほえましく思うのは、まぁまぁ普通の親でしょう。

■叱り、叱られを繰り返していくのが普通の親子

しかし、子どもは、まだ大人と同じようには行動できません。「こぼすよ、こぼすよ」と心配する親の手を振り払って運ぼうとしたみそ汁をぶちまけてしまい、イライラした親に「だから言ったでしょ!」と怒られる。これも普通の親子の姿。どこの家庭でもよくある光景です。

こんな騒ぎを繰り返しながら、まぁまぁ普通の親は、子どもが自分の手を離れていくことを、ちょっぴり寂しく思ったりしながらも許します。子どもというのは自分の思い通りになるものではないと悟(さと)り、少しずつあきらめていくわけです。同時に、子どもが生まれたばかりの頃は「将来は宇宙飛行士かオリンピック選手に」などと楽しい夢を描きますが、成長するにつれて「そういえば、この子は私の子だった」と思い直すので無謀な夢も消えてゆき、そこそこの願いに落ち着きます。

周囲にかわいがられて健全に育つ子には、半年もすると「自己愛的自己」の中核ができてきます。自分のことをいつも見つめ、一生懸命に世話をしてくれる両親、その瞳(ひとみ)に映る自己が「自己愛的自己」です。この自己はやがて「自己の歴史」を肯定的に語れるようになりますが、この頃の子どもは、「もし私がいなかったら親は生きていけるのだろうか」くらいに思っています。

■6~7歳になると「王様」じゃないことに気づく

反対に親から叱られるときには、その目に映る“ダメな自分”を発見し、「批判的な自己」も生まれてきます。

子どもを注意する
写真=iStock.com/chameleonseye
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/chameleonseye

「ごはんは全部食べなさい」
「遊んだらちゃんとお片づけしなさい」

などと言われて、“ごはんを残さずに食べた自分はいい子”や“片づけない自分は悪い子”というようなセルフイメージも作られていきます。

普通の子どもというものは、最初は誰でも傲慢(ごうまん)、無礼、傍若無人(ぼうじゃくぶじん)の王様状態。その“俺様的セルフイメージ”からだんだんに落ちぶれていくのが普通の発達です。6~7歳頃になると、子どもとして扱われる一人前でない自分を繰り返し認識させられます。

家でお母さんにかわいがられているうちはまだマシで、何しろ小学校にあがったら子どもたちの中でも一番小さいのです。

「1年生並んで」
「はーい」

と先生や先輩の言うことをよく聞いて行動しなければなりません。先生や先輩は、親ほどは自分に注目してくれないことにも気づきますが、それを我慢しなければならないことも学びます。これが、まぁまぁ普通の子でしょう。

■「毒親」は「よいおっぱい」の中からも現れる

子どもの世話を放棄する親(悪いおっぱい)が「毒親」として攻撃されるのは、わかりやすいと思います。しかし、常に子どものことを気にかけて、タイミングよく世話をするよい親(よいおっぱい)の中からも、「毒親」とされる“過保護・過干渉型”の親が現れます。

まぁまぁのところであきらめずに、いつまでも子どもに影響を及ぼしたがり、子どもに高い望みをかけてがんばってしまう。いい加減に自分で判断させたほうがいい時期になっても、まだ子どもの判断をすべて自分の判断に置き換えてしまう。赤ん坊の頃と同じように子どもをしょっちゅう見張っていて、なんでもしてあげるエクセレントな(極上の)親です。

子どものほうもエクセレントだったりすると、早めにダメぶりを発揮して親をあきらめさせてあげられない。ずっと成績のよい子や最後まで脱落せずにがんばる子には、親のほうもいつまでも期待をかけてしまいます。

つまり、大人になってから「毒親」騒ぎを起こしている人たちの中には、世間一般から見ると、いい方向にずれすぎているエクセレントな親子も多いのです。早めにあきらめがつかず、人より長く勘違いが持ちこたえてしまったのでしょう。

■子どもの希望をすぐに満たしてしまうリスク

まぁまぁ普通の親は、忙しくしているうちに夕方になって、子どもに「ごはんまだ~?」と催促(さいそく)されながら夕飯を作ることもあります。あるいは「もう今日は疲れたから、スーパーのお惣菜を買って帰ろう」ということもあるでしょう。

これに対してエクセレントな親は、子どもが「お腹すいた」と言う前に“そろそろお腹がすく頃だ”とタイミングを見計らってサッと食事を出す。子どもが欲求不満を起こす前に、なんでも満たしてあげてしまうのです。王様が「乳をもて」と言う頃合いを見計らっておっぱいをあげるので、王様はいつまでも自分が無力な子どもにすぎないという現実から目をそらして、王様気分を持ち続けることができます。

小さなキング
写真=iStock.com/L-house
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/L-house

この場合、子どもは相当な努力をしないと親(多くは母親)との一体感を切り離し、「自己」というものを確立できなくなります。そもそも自己というものは、挫折(ざせつ)体験から生まれてくるものです。周囲からの逆風(つまり他者)がなければ、そもそも「自己」などという意識はいらないわけです。その逆風の極初期の一撃が「空腹」です。自分が周囲に受け入れてもらえないときに自己主張が強くなり、どうしてこんなに苦しいのだろうと思うときに自己意識が高まる。

■子どもは挫折、屈辱を乗り越えて成長していく

万能感を持っていた幼児は、自分が万能でないことを知ったときに恐怖を感じて傷つきます。しかし、自分を説明する言葉を持ち、もう一度自己を定義していきます。何もできない小学校1年生に落ちぶれた子どもも、その屈辱を乗り越えて、また新たな自己を獲得していく。これを「成長」と呼ぶのです。ナルシシズムそのものは健康なもので、傷ついた自己像を修復して新たな自己像を求める心の働きも健康なものです。

自分の行動が適切でないとき、親に叱られるという経験も大切です。例えば、「熱いからさわっちゃダメ」と言われたガス台にさわろうとして強く叱られる。こういう親の怒声、叱声(しっせい)を“自分のためにやってくれている”と受け入れられるような人格ができると、社会化の段階になって外界との関係が楽に結べます。

■自己が発達しないまま大人になるとどうなるか

ところが、エクセレント親子のように順風満帆で、羊水の中に漂っているような子どもは親と一体化していますから、自己はなくていい。いつも欲求不満をたちどころに解消できて、親に叱られることもなく生きていると自己は発達しません。幼児的な自己愛にとどまってしまいます。そのまま大人になると、自己愛が傷つくのを非常に恐れるようになります。

しかも、いつも先回りして自分の気持ちを汲(く)みとり満たしてくれる人のそばで生きていると、自己主張の技術も発達しません。自分の微妙な欲求を、周囲と折り合いをつけながら伝えていくことができなくなってしまいます。

自分を表現できないというモヤモヤを抱え、モヤモヤ部分の中心には表現したがっている自己がありますので、主張しようとすると「自分、自分」になってしまい、やや幼児的になります。これでは周囲に受け入れられませんから摩擦(まさつ)が起きます。

■親は子どもに「適切な量の不満」を残しておこう

斎藤学『「毒親」って言うな!』(扶桑社)
斎藤学『「毒親」って言うな!』(扶桑社)

そう考えてみると、子どもの欲求を完全に充足しようという親の野心は逆効果。いつもグズったり不満があったり、たまには与えられるけど何か欲求不満が残る、そんな適切な量の不満を自分で解決していくことで自己が育ち、人格が育っていくのです。

トラウマとなるような危険な体験は、健全な自己の発達を阻害(そがい)します。けれども不満や逆風がなさすぎても自己が発達しない。では、“適切な量の不満”とか“まぁまぁの不満”とは、どんなものかという問いは無意味です。

胎児(たいじ)の状態から脱して以来、人間は常に欲求不満の中にあり、それを緩和(かんわ)しようとするさまざまな試みを強いられているのですから。で、そうしたアヒルの水かきのような水面下での努力と忍耐の中から、「自分らしさ」ないし「パーソナリティ(人格)」が生じてくるのです。

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斎藤 学(さいとう・さとる)
精神科医
1941年東京都生まれ。1967年慶應義塾大学医学部卒。同大助手、WHOサイエンティフィック・アドバイザー(1995年まで)、フランス政府給費留学生、国立療養所久里浜病院精神科医長、東京都精神医学総合研究所副参事研究員(社会病理研究部門主任)などを経て、医療法人社団學風会さいとうクリニック理事長、家族機能研究所代表。温かさや安心感などが提供できない機能不全家族で育った「アダルト・チルドレン」という概念を日本に広めた。著書に『すべての罪悪感は無用です』『「愛」という名のやさしい暴力』(ともに小社刊)など多数。

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(精神科医 斎藤 学)

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