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「NHK大河ドラマでは描きづらい」激怒した源頼朝が家臣たちに送りつけた手紙の"すごい内容"

プレジデントオンライン / 2022年2月13日 19時15分

源頼朝公銅像 源氏山公園(神奈川県鎌倉市) - 写真=時事通信フォト

鎌倉幕府の初代将軍である源頼朝とは、どんな人物だったのか。歴史学者の濱田浩一郎さんは「戦場に出向くことは少なかったが、手紙を使って武将たちを叱咤激励することで、組織を固めていった。NHK大河ドラマで描かれているような頼りない人物ではない」という――。

■大河には描かれていない源頼朝の姿

2022年度のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公は、鎌倉時代前期の武将・北条義時である。その義時と密接な関係を持ち、大きな影響を与えたのが、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝だ。

ドラマにおいては、頼朝を俳優の大泉洋さんが演じている。どちらかというと威厳がなく、どこか頼りなさ気な頼朝を演じている。だが、鎌倉時代に編纂された歴史書『吾妻鏡』や、当時の貴族の日記には全く別の姿が描かれている。

■「西国は平家、関東は源氏が治める」

頼朝というと、平清盛との戦い(平治の乱=1159年)に敗れた父・源義朝を思い、平家打倒を常に願い行動してきたと思われている。

その当時の頼朝の思いがうかがえる史料が、平安時代末の貴族・九条兼実の日記『玉葉』だ。この日記の治承六年(一一八一)八月一日の項目に次のようなことが書かれている。

「頼朝は後白河法皇に次のように申し上げてきた。もし、平家を滅亡に追い込んではいけないというであれば、昔のように、源氏と平氏を共に召し仕われてはどうでしょう。関東は源氏に支配させ、西国は平氏に任せる。その上で朝廷が国司を任命する。そうすれば内乱を鎮めることができるでしょう」

■ライバルの存在が和平提案につながった

どうであろうか。これは、頼朝からの和平提案というべきものだ。是が非でも平家を滅亡に追い込むぞという執念は感じることはできない。

なぜ頼朝は、このような提案を行ったのか。それは、当時、信濃国から打って出た木曽(源)義仲が北陸地方にまで進出し、勢力を拡大させていたからである。

義仲も「自分こそ源氏の棟梁」であると考えて、勢力を伸ばしてきていた。一方の頼朝も同様だった。義仲を何とか出し抜きたいという思いが頼朝に募り、平家との和平提案につながったのである。

もし後白河法皇が頼朝の提案をのんだら、頼朝は源氏の棟梁として、朝廷に公認されることになる。それは、木曽義仲はじめ諸国の源氏よりも、頼朝が上位に立つことを意味した。頼朝にとっては、平家を滅亡させることよりも、源氏のなかで主導権を握ることの方がまさっていたのだ。

しかし、和平の実現は幻に終わる。平清盛亡き後に後継者となった平宗盛が拒否したからだ。

書道マスター
写真=iStock.com/vladko13
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/vladko13

■書状を使って武将たちを叱咤激励する

頼朝というと征夷大将軍とのイメージからか、常に戦場にあった武将と思われるかもしれない。『吾妻鏡』には、石橋山の戦い(1180年)の時に、頼朝が「百発百中」の弓の腕をもって、敵兵を次々と殺したと記されている。もちろん、美化・誇張されている面もあるだろうが、頼朝もそれなりに武芸に秀でていたと推測される。

しかし、実戦の経験というとその戦いぐらいで、その後は出陣しても最前線で自ら戦うことはなかったと考えられる。ほとんどは、鎌倉にどっしり構えて、家臣に実戦を担当させていた。

木曽義仲との戦も、親族の源範頼・義経らに担当させているし、平氏討伐戦(一ノ谷・屋島・壇ノ浦合戦)も彼らや御家人に任せている。とはいえ、何もしないのではなく、平氏討伐のために出陣した武将らに対し書状を送ることで、家臣を指導していた。

例えば、源範頼には「九州の者どもは従わないわけではないと思う。だから、もっと自信を持って、思うように行動せよ。騒がず、落ち着いて対応すれば良い。現地の人々に憎まれないようにせよ」(『吾妻鏡』)とアドバイスしている。

また、別の際には「関東から出陣している御家人たちを全て大切にせよ。中でも、千葉常胤(つねたね)は老骨に鞭打ち、戦の旅に耐えていることは、とても素晴らしいことだ。誰よりも大事にするように。今までの常胤の手柄には、生涯かけても返しつくせない程の恩がある」と源範頼に書き送っている。

思いやりある言葉である。頼朝の言葉を聞いたら、常胤は泣き出したのではないか。

もちろん北条義時、小山朝政ら御家人にも丁寧な手紙を送ったという。常胤に対する言葉とニュアンスとしては同じことを書いたように思う。義時らは感激し、粉骨砕身、頼朝に尽くそうと感じたはずだ。

■部下に送った罵詈雑言の手紙

その一方で、頼朝の面白いところは、関東の御家人たちが、頼朝の推薦を受けずに朝廷の官職をもらったことに怒り、彼らの名前とともに、その悪いところを紙に書いて送っていることだ(『吾妻鏡』一一八五年)。

例えば、後藤基清には「目はネズミに似ている。ただおとなしく仕えていれば良いものを。勝手に任官などして。とんでもないことだ」と責め、波多野有経には「小物のくせに。五位の馬允(うまのじょう)の任命を受けるなんて、あり得ない」と憤る。梶原朝景には「声は嗄れ声で、髪は薄く、やっと髷を結ってる」、さらに「人相が悪くて、おかしな奴だと思っていた。任官など見苦しい」と怒る。

他にも、頼朝は任官した家臣たちの悪口を列挙し、「関東に帰って来るな」と怒りをぶつけている。これだけ聞いたなら、単なる嫌な上司にも思える。

しかし、私が感心するのは、頼朝という男は、家臣をよく観察しているなということである。人間というものに大いなる関心があったのではないか。若い頃からの約20年に及ぶ伊豆での配所生活において、誰が信用できて、誰が信用できないかといった人間観察力を養っていったのだろう。

頼朝は、褒める時には褒め、怒る時には怒り、メリハリをきかせているように感じる。組織を活性化させ、時に引き締めるには、そうした手法が有効であろう。

前出の『玉葉』には、頼朝のことを「威勢厳粛、その性強烈、成敗文明、理非断決」と記している。頼朝が威厳・個性・公明公正さ・決断力などを兼ね備えていたことが窺えよう。頼朝は、武家の棟梁にふさわしい資質を持っていたのである。

■大泉洋の心配は無用といえるワケ

ただ、頼朝の人気が高いかというとそうでもない。それは弟・義経を追い詰め、最終的に死においやったことが大きな要因だろう。ただ、それほど非難されることなのだろうか。

義経は頼朝の弟と紹介されることが多いが、実の弟ではなく、異母弟だ。

義経の母は、常盤御前で、頼朝の母は熱田神宮の大宮司・藤原季範(すえのり)の娘である。しかも、頼朝と義経は小さい時から面識があったわけではない。

2人の初対面は、治承4年(1180)10月。この時、頼朝33歳、義経21歳。父(源義朝)は同じといっても、母は違い、それまで一度も会ったことがない「兄弟」だったのだ。これで、親近感が湧くかといったら、現代人でも疑問符が付く人も多いのではないか。

また、時は乱世。頼朝も義経も激しい権力闘争のなかに身を置いていた。たとえ親族であったとしても敵対した勢力を滅ぼすことが、自分の家の安泰につながったのである。

そうしたことを考えた時、義経を追い詰めたことが理由で頼朝を非難するのは、少し間違っているように思うのだ。

頼朝演じる大泉さんは、昨年NHKの番組に出演した際、義経を排除するシーンがあることについて「ちょっと私……人気なくなると思います」と話されていたが、その心配はご無用と私はお伝えしたい。

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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。

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(作家 濱田 浩一郎)

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