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「バカな視聴者がよろこぶから続けている」テレビ局がワイドショーをやめられない根本原因

プレジデントオンライン / 2022年3月14日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/tiridifilm

放送内容の偏りなどからたびたび批判を受けながらも、テレビ局は「ワイドショー」の放送を続けている。なぜやめられないのか。著述家のKヒロさんは「制作陣が『視聴者は喜怒哀楽を提供するとよろこぶ』という固定観念から抜け出せていない。その結果、若者のテレビ離れが進んでいるのだろう」という――。
 

■視聴率不毛地帯の救世主として60年前に登場

コロナ禍のなかで多大な迷惑を振りまいたものの一つが、視聴者の不安を煽(あお)り立てたテレビのワイドショーだ。コメンテーターが振りまく怪しい医療情報や感情的な意見に惑わされた人々は、コロナ対応の第一線で働く医療関係者や保健所スタッフの頭痛の種になった。

迷惑を被(こうむ)ったのは医療関係者だけではない。筆者の身近にも、あるワイドショーの名前を挙げて「ワクチンで死にたくない」と言い張る老人に正しい情報を伝えるため、大変な労力を要したケースがある。ネットニュースで報じられたワイドショーの報道ぶりにも、非難のコメントが集まった。

とはいえ、ワイドショーが迷惑を振りまくのはいまに始まった話ではない。興味本位のスキャンダリズム、もっともらしいが不正確な見解を垂れ流す「コメンテーター」たちの影響力。「やらせ」という業界用語が一般社会で使われるきっかけとなった事件も、ワイドショーが引き起こしたものだった。

こんな困り者なのに、現在ワイドショーは週20番組以上も放送されている。しかも約60年前からずっとこの調子だ。

ワイドショーはわが国独自のカテゴリーで、1964年に日本教育テレビ(現テレビ朝日)が放送を開始した「木島則夫モーニングショー」が始まりとされている。同局は視聴率低迷とスポンサーの獲得に苦慮し続けていたが、なかでも不毛地帯と呼ばれていた朝8:30から9:30の枠に、芸能の話題やニュースなど雑多な情報を伝える低予算番組を放送することにした。それまで視聴率ほぼ0%だったこの時間枠を使ったショー番組は予想以上に好評で、放送開始直後から視聴率3%、後には15%にまで達し、不毛地帯は金のなる木に変わった。

翌1965年、日本教育テレビは同じく視聴率が壊滅的だった正午枠で「アフタヌーンショー」を放送すると、これもヒット。他局も視聴率が取れない時間帯にワイドショーを続々と放送し、乱立時代に突入する。視聴率獲得のポイントはキャラ立ちした司会者の登用で、司会者の個性や話芸で見る者を飽きさせない工夫をした。

■低予算で確実に視聴率を稼げる

こうしたワイドショーの形態や安定した視聴率は、現在も変わらない。午前の雄「羽鳥慎一モーニングショー」(テレビ朝日系)は視聴率10%をたたき出すことも珍しくなく、早朝の時間帯から始まる他の番組も7~9%台を記録する。午後は「情報ライブ ミヤネ屋」(日本テレビ系)をはじめとするワイドショーが、視聴率5~6%台を確実にキープしている。

では、この視聴率にどのくらいの価値があるのだろうか。例えば莫大(ばくだい)な予算と日程を投じて制作されている大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は視聴率15%前後だ。それとは比較にならないほどの低コストで5~10%の安定した視聴率が得られるのだから、テレビ局にとってはぬれ手で粟(あわ)で、やめられるはずがない。ライブ視聴中心で録画視聴がほとんどないワイドショーは、CMをスキップされないため、スポンサーにとっても効率がよい。

■ワイドショー的演出を開拓した「泣きの小金治」

もうかっているなら伝える情報の質を高められそうなものだが、それでもワイドショーが変わろうとしないのには理由がある。

頭がテレビになっている男性
写真=iStock.com/HomePixel
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/HomePixel

再び時代を遡さかのぼってみよう。「アフタヌーンショー」は放送2年目に司会者をテコ入れし、落語家の桂小金治を番組の顔に据えた。司会者交代の効果は抜群で、桂小金治は顔を真っ赤にして怒鳴ったり、嗚咽(おえつ)で声が聞き取れないほど泣いたりして、「怒りの小金治、泣きの小金治」の異名を轟かせた。いま後期高齢者になった当時の視聴者は、いつ桂小金治が怒鳴るか、涙を流すかと、固唾(かたず)を飲んで見守っていたと証言している。

視聴者が求めていたものは情報の内容や質よりも暇つぶしのための喜怒哀楽や驚きだった。「アフタヌーンショー」は正午の枠としては驚異的な最高視聴率20%を記録したが、これは視聴者の感情の昂(たかぶ)りを表した数字と言っても過言ではない。こうして「アフタヌーンショー」がワイドショーの王座に就くとともに、喜怒哀楽と驚きを過剰に煽る演出もまたワイドショーの王道的手法として確立されたのだった。

■番組打ち切りにつながる大事件も

芸能レポーターは数々のスターのプライバシーを暴いて大騒ぎした。ロス疑惑事件は劇場型の騒動に拡大し、豊田商事の悪徳商法をめぐる報道合戦では群がるテレビカメラの前で同社会長が殺害された。オウム真理教をめぐる一連の出来事も、興味本位で扱われた。ワイドショーの見せ物小屋化はとどまる所を知らなかった。

1985年には「アフタヌーンショー」が逮捕者を複数出す大事件を起こした。いわゆる、やらせリンチ事件だ。「激写!・中学女番長‼・セックス・リンチ全告白」と題した独自スクープを放送したところ、警察が捜査を始め、リンチ行為が番組によって仕組まれたものであることがわかったのだ。

この事件では暴行の実行犯に加え、番組担当のディレクターが暴力行為教唆容疑で逮捕された(ディレクターは略式命令で罰金刑を受けたが、後に著書の中で暴行の指示を否定)。深刻な影響を多方面に与えたこの一件で、アフタヌーンショーは20年の歴史に幕を閉じたが、同番組が確立したワイドショーの王道的手法はその後も他の番組によって継承され続けた。

■止められない需要と供給のサイクル

視聴者は内容や質よりも喜怒哀楽や驚きを求める。こうした傾向を熟知した番組制作者が、視聴率獲得のため、刺激的で単純でわかりやすいネタと演出を放送する。視聴者は感情の昂りを求めてワイドショーにかじりつく。正義や嫉妬が暴走し、不安や恐怖が高められ、覗き見行為が正当化される。話題の本質は忘れ去られ、社会に騒動の跡と感情の残骸だけが残される。視聴者はもっと強い刺激と単純さを期待する。

視聴者を番組に縛り付けておくために、ワイドショーはこのサイクルを60年間止められないままなのだ。

■視聴者が求める「期待どおりの感情」

「視聴者は期待どおりの感情になれなければ満足しない」――。あるベテラン放送作家から、筆者はそう聞いたことがある。テレビの黎明(れいめい)期から黄金時代にかけての雰囲気を知る彼は、さらにこう付け加えた。

「わからない言葉や表現が一瞬でもはさまったら、視聴者はそこで興味を失ってチャンネルを変えてしまう。わからないことを見つけて喜ぶのは頭がよい人だけだ」

こうしてワイドショーの需要と供給が成り立っている。制作側と視聴者のどちらもが、「もっともっと」とわかりやすさと親しみやすさと喜怒哀楽を求める。論理よりも感情で動いてしまいがちなのは人間の愛(いと)おしさであると同時に弱点でもあるが、ワイドショーはこの弱点をカネに変えるビジネスなのだ。

■テレビ離れの一因であっても

ワイドショーが新型コロナウイルス感染症について怪しい医療情報や感情的な意見を放送するのは、パンデミックを国や医療従事者のせいにしたい視聴者の期待に応えるためだ。国や医療従事者を批判している専門家をスタジオに呼んで意見を語らせ、司会者はさらに視聴者の感情を煽る。視聴者は込み入った説明を嫌い、期待どおりでわかりやすい極端な情報を求める。

スタジオに呼ばれた専門家や、素人の「コメンテーター」は、どうすれば視聴者の耳目を集められるかを次第に学習し、極端な発言を増やしていく。しかも求められている役割を自覚して個性を際立たせようとする。視聴者はますます、喜怒哀楽を刺激されて満足する。

桂小金治の怒りや涙を固唾を飲んで見守っていた、1960年代の視聴者のリテラシーを、ワイドショーの制作者はいまだに基準にしているのではないかとさえ感じる。そうした制作態度は若年層を中心とした現在進行中のテレビ離れに間違いなく加担しているが、それでもまだ5~10%の視聴率を獲得できている。視聴率が確保されスポンサーが付くかぎり、ワイドショーはなくならず、基本的な制作方針も変化しない。

■今やあらゆる番組が「ワイドショー化」

むしろ、低コストで高視聴率を実現するワイドショーの手法は、他のカテゴリーの番組制作者にとってもますます不可欠なものになっている。

テレビスタジオ
写真=iStock.com/Nastco
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Nastco

1970年代半ば以降、報道番組はアナウンサーが原稿を読む時代からキャスターが視聴者に語りかける時代へ、わかりやすさと親しみやすさを追求していった。わかりやすさと親しみやすさを高めるには、感情的で深く考えることを嫌う視聴者層に擦り寄らなければならない。その結果、元の数字と比べて不自然な強調を用いたグラフ、論理の流れがおかしいフリップ、印象操作が甚だしいVTR映像が、ワイドショーだけでなく報道番組にも見られるようになった。「こうしないとわかりにくいし伝わらない」というのが、制作側の決まり文句だ。

音響効果や音楽の多用、保育園のようなカラフルなスタジオセット、やたらと挟み込まれるクイズ形式の演出も、いまやあらゆる番組に浸潤したワイドショー的演出だ。硬派の討論番組を名乗る「朝まで生テレビ!」もまた、出演者の文化人がそれぞれの役割を演じながら、挑発や嘲笑をぶつけ合って視聴者の感情を煽る見せ物小屋と言ってよい(かつて大島渚が「バカヤロウ」と怒鳴る瞬間が番組の名物だったことからも、この構造ははっきりしている)。

「感情でものを考える人をバカって言うんだ。最近は番組そのものがそうなっている。テレビの先はもう長くない」と、前述のベテラン放送作家は筆者に語っていた。総ワイドショー化に突き進む地上波テレビは、彼が予言した通りの滅びの道をたどるのだろうか。

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K ヒロ(けい・ひろ)
著述家、写真家
1964年北海道北見市生まれ。大学在学中から写真家として活動。広告代理店勤務の後、コピーライティングおよび著作活動に従事。東日本大震災後10年を契機に、日本と日本人を見つめなおすプロジェクトに改めて着手。noteにてハラオカヒサ氏と共同で、コロナ禍を記録する「コロナ禍カレンダー」ほか、反ワクチンや陰謀論、さまざまな社会運動などについての論考を展開している。

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(著述家、写真家 K ヒロ)

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