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「ゆるキャラ」「マラソン大会」が乱立…田舎の自治体が本気の活性化策を考えない根本原因

プレジデントオンライン / 2022年2月24日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/carlosalvarez

地方の自治体の活性化策はどこも似たようなものばかりだ。なぜそうなってしまうのか。まちづくりに詳しい花房尚作さんは「過疎地域の人々は、地方特有の複雑な人間関係から来る利権に配慮している。これでは斬新な地域活性化対策など生まれようがない」という――。

※本稿は、花房尚作『田舎はいやらしい』(光文社新書)の一部を再編集したものです。

■「ヨソ者、バカ者、ワカ者」を活用しない田舎の事情

過疎地域の息苦しさを打開する手段として、しがらみに左右されない「ヨソ者、バカ者、ワカ者」の活用がある。

ヨソ者は客観的な見方ができる、バカ者は閉塞感を破る原動力になる、ワカ者は活力に溢れている、というわけである。たしかにその通りだろう。活力に溢れているワカ者は過疎地域を去るので仕方ないとしても、ヨソ者やバカ者はいくらでも呼び込んで活用できる。それを雇える予算は地方自治体にいくらでもある。それにもかかわらず、ほとんどの地方自治体はヨソ者やバカ者を活用していなかった。

なぜなら、為政者にとってヨソ者やバカ者の活用は大きなリスクがあるからだ。過疎地域は有権者との距離がとても近く、地元企業と癒着しなければ選挙に勝てない。しがらみに左右されないヨソ者やバカ者の活用は、過疎地域の既得権益を脅かす可能性があった。

生産性の低い過疎地域では、補助金の配分で勝ち組と負け組が決まる側面があり、お互いにネガティブキャンペーンを繰り広げて、いかにして相手側を叩き潰すかに焦点が置かれる。そのような過疎地域において、ヨソ者やバカ者の行動はネガティブキャンペーンの格好の標的になる。

■「何とかならなくても補助金がある」

また、過疎地域の人たちは住み慣れた地元をよく知っている反面、その他の地域をまったく知らなかった。地元と他の地域を比べることができないため、ヨソ者やバカ者の提案がピンとこないのである。ピンとこないものはやりたくないし、やらなくても補助金でなんとかなる。

そもそも、過疎地域の人びとに何かを変えようとする意識がなかった。そのような過疎地域で、ヨソから来た者がいくら頑張っても空回りに終わる。そうこうしているうちに「ヨソ者なんかに何が分かる」とか、「バカ者は道徳に反している」といった反発が起こる。そして、ヨソ者やバカ者は失望して過疎地域を去るのである。それを知った過疎地域の人びとも同じく失望する、といった具合だった。

そのような事例がたくさんあるため、「ヨソ者、バカ者、ワカ者」の活用は、使う前から使うことを諦めている、というのが現実だった。

■「隣町にもあるから」という理由で作られる箱モノ

かつてイギリス首相だったウィンストン・チャーチルは、こうした衆愚政治を批判し、「民主主義は最悪の政治形態である」と述べている。

衆愚政治は、決められることをいつまでも決められず、いつの間にか何もかもが手遅れになり、あとから何とかしようとしても、どうにもならない状態がぐるぐると空回りした状態になる。それは過疎地域の現実そのものだった。

過疎地域の権威者たちは、生産性のない公園をつくれと言ってみたり、箱モノをつくれと言ってみたりするが、つくったらつくったで、それらは放置されていた。たとえば、日本庭園や自然公園などの行楽施設、野外プールやテニス場などのスポーツ施設、遊具場やミニゴルフ場などの娯楽施設、博物館や美術館などの文化施設である。

色鮮やかな遊具
写真=iStock.com/olga_sweet
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/olga_sweet

それらは有効活用されることなく点在し、廃墟化している施設もたくさんあった。いずれ放置されるのはつくる前から分かっているにもかかわらず、建設行為そのものを目的として同じモノをつくっていた。「隣の○○町がつくったから、私たちの△△町にもつくるべきだ」といった具合である。

ぐるぐると空回りした過疎地域の現実をどこまで受け入れて、どこから受け入れないのかといった線引きはとても難しく、都心から過疎地域に移住した者によくある悩みでもある。

■中国大陸にあるような大きな格差は日本にも存在する

都心と過疎地域の経済格差はどれくらいあるだろうか。その差はおおむね2倍である。たとえば、私が東京で働いていたときの時給単価は、おおむね1300円から1600円程だった。それとまったく同じ仕事を過疎地域でやろうとしたら、鹿児島県の最低賃金である790円(当時)だった。そのうえ交通費の支給もない。つまり、同じ仕事であるにもかかわらず二倍程の賃金格差があった。

都心で暮らしている者は、中国大陸にあるような大きな格差が日本にはないと考えている節がある。しかし現実は違う。

たとえば、都心ではブラック企業に対して批判的な報道がされている。批判的な報道そのものは大いに結構なのだが、過疎地域で暮らしている者としては違和感があった。なぜなら過疎地域ではブラック企業がごくごく当たり前だったからだ。

生産性が低い中で切り詰められるのは人件費である。正規雇用の社員はサービス残業やサービス出勤を強いられるのが常であり、有給休暇を申請すると嫌な顔をされるため、消化せずに退職する者がほとんどだった。

滅私奉公の精神が素晴らしいとされている地域の中で、人びとはそれを当たり前のこととして受け止めていた。そこでいくら働き方改革を訴えたところで、それは日本とは違うヨーロッパなどの遠い国で起こっていることであり、別の世界の出来事といった感覚だった。

■過疎地域は働く選択肢も少なく、時給は都心の半分以下

マスメディアがブラック企業を批判するのは社会的な意義がある。とはいえ、過疎地域にある企業のほとんどがブラック企業である現実も報道してはどうだろうか。日本が豊かになったといわれている今でも、過疎地域には豊かさとは無縁の貧しい生活があった。

その一つの事例として、私が高校生のときにやった農作業のアルバイトがある。元号が平成に変わる1年前の話である。そのときの時給は350円だった。その当時、都心の高校生の時給は800円程だったので、その頃から2倍以上の賃金格差があった。時給350円というのは都心で暮らしている者には信じられない話だろう。その当時の大人たちの言い分は「子どもに大金を持たせてはいけない」というものだった。地域の大人たちが談合してそのような低賃金になっていた。

これは貧困地域の社会システムによく似ている。たとえば、サハラ以南のアフリカでは5歳から17歳の4人に1人が働いている。子どもは成人と比べて就労条件などのトラブルが少ないため、不当に安い賃金しか支払われず、収奪的な扱いを受けている。それでも他に仕事がないので不当だと知りながら働いていた。

高校生だった私もお金がどうしても欲しくて、不当だと知りながら働いていた。過疎地域には働かせてもらえる所がないので仕方がなかった。

私は多くの貧困地域を訪れているが、そこで感じた社会の雰囲気と、日本の過疎地域の雰囲気はよく似ていた。日本が近代化しているといっても、過疎地域には都心とは違う昔ながらの考え方が根強く残っており、それはこれからも続いていくのである。

■「特産品」を日本全国にアピールする難しさ

「地域活性化事業を始めるので手伝ってほしい」

知人から連絡があったのは過疎地域で暮らし始めて5年目だった。自宅から100キロ程離れた地域だったので住み込みで働くことになった。

その業務内容は、地元特産品を使って加工品をつくり、日本全国にアピールするものだった。そもそも、特産品で地域を活性化させるという目的そのものが厳しかった。地元の特産品を使った地域活性化策は日本全国の地域がやっている。それらの地域と同じ土俵で競争しても勝てる見込みがなかった。

都市であれば店舗によい商品を並べておけば確実に売れていく。しかし過疎地域では店舗販売だと利益が出ないため、商売相手は必然的に日本全国になる。鹿児島県の奥地からだと商品値にプラスして高額の送料がかかる。都市近郊の地域と比べて割高になるため、おのずとターゲットは富裕層に絞られるわけだが、特産品なるものは旅先で食べ、旅先で買うから価値があるのであり、わざわざ取り寄せてまで購入しないものだ。

仮にマスメディアに取り上げられて一時的に売り上げが伸びたとしても、それは一過性のものであり、消費者の興味が薄れれば売り上げも落ちていく。

おだんご
写真=iStock.com/Takosan
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Takosan

■「まずいお菓子」などの奇抜な案はことごとく無視される

食品には「いずれその味に飽きてしまう」といった大きな落とし穴がある。マスメディアに取り上げられて企業規模が大きくなったものの、長続きせず倒産した会社はたくさんある。実際にかつて私が東京で働いていた弁当屋は、山梨県の弁当屋を吸収合併するほど一時的に大きくなったが、その後は事業規模がどんどん縮小して倒産してしまった。

本来なら、第三次産業で雇用をつくりだすべきだが、過疎地域の人たちが利益になり難い昔ながらの特産品にこだわっていた。そうした方法でないと地域の人たちの賛同を得られないのである。また、特産品の販売で失敗するぶんには、その損失は補助金で補填(ほてん)されるとのことだった。過疎地域の人びとが特産品を売りたいのだから、雇われている身としては、やるべきことをやるしかなかった。

そこで提案書をたくさんつくった。苦みのある健康食を使った「まずいお菓子」や、そのまずいお菓子を一つだけ入れたロシアンルーレット方式の「毒入り饅頭」などの商品を提案していった。

■紋切り型の「ゆるキャラ」頼みな地域活性化事業

また、これまでの地域活性化の企画を調べてみたところ、それらは都心近郊の地域活性化策を真似ているだけで、「マラソン大会」や「ゆるキャラ」といった聞き覚えのある企画ばかりだった。陸の孤島となっている過疎地域で話題になるような企画ではなかった。

何一つ独自性もなければ、何一つ生産性もなかった。

そこで、無人島や密林を使った自衛隊監修の「本格サバイバル」や、謎解きや宝探しといった仮想世界の冒険を模した「リアルロールプレイング」などのイベントを提案した。それらは不便や不安の中で生まれる喜びをテーマとしており、都心近郊のお気楽なイベントと差別化を図った。

弾は撃ってみなければ当たらないし、バットも振ってみないと当たらない。たくさんのアイデアをラインナップすることで、面白いことをやっている地域として話題になりやすくなる。しかし、それらの企画書は「うん、面白いね」の言葉だけでまったく話が進まなかった。どうして進まなかったのか。過疎地域において独自性や生産性は不要だったからである。

■地域活性化は本当に必要なのか

中央政府の政策はすべてにおいて地域活性化を前提としている。2014年9月、第二次改造内閣を発足した安倍元首相は、記者会見の席でローカル・アベノミクスとして地方創生を発表した。現在の岸田内閣は、デジタル田園都市国家構想を政策の目玉の一つにしている。

中央政府のこうした政策を受けて、巷には「地域活性化をするにはどうするべきか」といった書籍が並ぶ。まずは、地域活性化というお題目があり、その道筋を考えるといったものだ。

私は、それは違うと思う。

中央政府が地域活性化というお題目を掲げることで、「今回は私の地域で、次はあなたの地域ね」といった補助金の持ちまわりができる。「あれはしてもいいけど、これをしてはいけないよ」といった規制がかかる。おのずとしがらみが生まれて「余計なことはするな」といった話になる。地域から多様性が失われて、横並びの画一的な活性化策が並ぶ。そして、やりたいことができなくなる。

私は思う。

地域の活性化を目指すのではなく、個人の活性化を目指すべきではないか。それぞれがやりたいことができる社会の実現。それが結果的に地域活性化につながる、というのが本来の姿ではないか。中央政府は今すぐにでも地域活性化のお題目を掲げるのを辞めて、地域にあるしがらみを取り除くべきではないか。

花房尚作『田舎はいやらしい』(光文社新書)
花房尚作『田舎はいやらしい』(光文社新書)

地域活性化という言葉はかなり前から叫ばれているが、それは地方で暮らしている人たちが心から望んでいるものなのか。誰もが「地域活性化は正しい」と叫ぶから、地域の人びとは仕方なく、やっているふりをしているのではないか。

過疎地域と都心のどちらが魅力的かを競うのは意味がない。

たしかに都心は文化的で上品かもしれない。

一方で過疎地域は窮屈で不自由かもしれない。だが、その窮屈で不自由な生活がそれほど悪いだろうか。悪いなら過疎地域で暮らす者は不幸を嘆いているだろう。しかし現実は違う。

なぜなら、幸せや不幸というのは、地域の行動様式とは違うところに存在しているからだ。それぞれの行動様式を認めて、尊重することでしか、私たちは対応できないのである。

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花房 尚作(はなふさ・しょうさく)
1級ファイナンシャルプランニング技能士
1970年生まれ。SHOSAKU事務所代表。宅地建物取引士、管理業務主任者、マンション管理士。現在は放送大学大学院にて文化人類学を研究中。著書に『価値観の多様性はなぜ認められないのか』(日本橋出版)がある。

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(1級ファイナンシャルプランニング技能士 花房 尚作)

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