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太平洋の無人島に漂着した16人の日本人が腹いっぱい堪能した「牛肉よりうまい動物」の名前【2021下半期BEST5】

プレジデントオンライン / 2022年3月5日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kurakurakurarin

2021年下半期(7月~12月)、プレジデントオンラインで反響の大きかった記事ベスト5をお届けします。教養部門の第2位は――。(初公開日:2021年8月21日)
1899年、漁業調査をしていた日本の帆船が座礁し、16人の乗組員が太平洋の無人島に漂着した。彼らは十分な食糧をもっていなかったが、島にやってくるある生き物のおかげで「贅沢」とも言える食生活をおくったという。作家の椎名誠さんが解説する――。(第2回)

※本稿は、椎名誠『漂流者は何を食べていたか』(新潮選書)の一部を再編集したものです。

■門外不出の『無人島に生きる十六人』

漂流記にはカテゴリーがいくつかある。江戸時代の千石船の漂流などは、当時の日本の鎖国政策が背後に冷酷に関与していて、遭難漂流の原因は類型化している。

もっとも恐ろしく世界にも例のない漂流は意外なことに日本でおきたもので『流れる海 ドキュメント・生還者』(小出康太郎著、佼成出版社)だろう。これは30年ほど前、モリ突きのダイバーがアクシデントで3日間流されてしまう、という残酷きわまりない漂流体験だ。ぼくもダイビングをやるので、その恐ろしさは具体的に想像できる。

そういういろいろな漂流記を捜しもとめていた頃、むかしの資料に垂涎(すいぜん)もののタイトルを見つけることがあった。古文書などは持っているものが多かったが1冊、古い広告チラシで古色蒼然(こしょくそうぜん)とした装丁のボロボロの本の写真が目にとまった。

『無人島に生きる十六人』(須川邦彦著)である。四六判ハードカバー。内容紹介や帯などはないからそれがどういう本なのかそれ以上くわしくはわからなかった。タイトルからして『十五少年漂流記』に似ている。子供向けのボーケンものか。講談社の本だった。古い本とはいえ一流出版社から出たものだ。

仕事がら講談社にはあちこちの部署に知り合いがいる。さっそく問い合わせてみた。3~4日ほど時間がかかったが様子がわかり予想したとおり、もう絶版であるという。

「おたくの図書館にもないのですか」

素直な編集者ですぐに調べてくれた。

「図書館にもなくて資料室にたった1冊ありました」

おお。よくぞそこまで調べてくれた。

「ただしですねえ。この本は当社にも1冊しかないそうで、門外不出扱いになっているんです」

漂流記フリークとしては、こういう門外不出というのは殺し文句に等しい。ぼくはその編集者にネコナデ声で、そんなに急がなくてもいいからそれ全編コピーして貰えないだろうか、と頼んだ。本心は「今すぐコピーしてそのまま送ってくれえ!」だった。

「あっ、それなら簡単ですよ」

いい奴なのだった。こいつとはこれからもっといい仕事をしよう。

手に入ったその日のうちに読んでしまった。最初に疑ったのを詫びるほどに実にまったく面白い。面白すぎて日本の明治時代にジュール・ヴェルヌみたいな人がいてその人が書いたのではないかとさえ思った。

題名のように16人のおじさんや青年の乗った船が太平洋のまっただなかの無人島に漂着し、そこで苦労してサバイバル生活をおくる話だ。

■まるでフィクションのような面白さの漂流記

76トン、2本マストのスクーナー型帆船、というから船としては小型、かわいいスケールだ。この船が座礁して太平洋のちっぽけな無人島に漂着する。そうして厳しくもすばらしい16人のおじさんおよび青年らのタタカイがはじまるのだ。

明治32年5月。ミッドウェイ諸島に近い(といってもだいぶ離れている)パール・エンド・ハーミーズで座礁、という記述がある。かれらが漂着した小さな島から銅板にクギでそう書きこみ流木に釘で打ちつけて流した、とある。

この船が座礁して漂着したのだが、その船の主な目的は漁業調査だったらしい。作業の主軸はサメとウミガメと海鳥の捕獲。その帰途に遭難したのだ。巨大な珊瑚(サンゴ)が連なる海で小型の帆船が座礁すると悲惨である。投錨(とうびょう)した錨(いかり)は分断され固い珊瑚の海に弄ばれて半壊状態で叩きつけられてしまう。半壊した船から比較的大きな岩に太綱をさしわたし、独特の方法で16人はなんとか船から脱出し、ひっぱり出した工作道具や生活道具、わずかに回収した食料などを岸にまで運ぶ。このへんからすでにこの漂流記の過激な展開に心を奪われる。あとはおわりまで一気読みだ。あまりの面白さにこれはフィクションかもしれない、とも思った。島の名前も海域も何も書いていなかったのだ。

読みおわって「おもしろかったあ」とよろこんでいるときに新潮社のグラフィック雑誌で日本海の島に取材にいくことになっていた。編集者、カメラマンなど4人組である。

道々ぼくが面白い本だった! と力をこめていうものだから同行編集者の1人が興味を持った。

サウジ君(あだ名)である。本当はショウジ君というのだが父親の仕事の関係でサウジアラビアで育った。だからということか思考関係がちょっとエキセントリックだ。たとえば、日本海の離島のしけた掘っ建て小屋の観光ラーメン屋のおばあちゃんに、メニューにある「海鮮ラーメン850円と、スペシャルラーメン750円のグレードはどう違うのですか」などと真顔で質問している。

「バカかおめえ」
「島から一度も出たことのないようなおばあちゃんに、グレードとはなんという」

編集部の先輩に呆れられていた。

どっちのグレードが上か忘れたが、ラーメンを食い終るとサウジ君はぼくがしきりに面白がっていたその本のコピーをぼくに読ませて下さい! と力づよく言うのだった。

須川邦彦『無人島に生きる十六人』(新潮文庫)
須川邦彦『無人島に生きる十六人』(新潮文庫)

そのようなやりとりをすっかり忘れていたころ、サウジ君から電話があり、

「あの謎の漂流船の乗組員が16人そろって日本に帰還した、という古い新聞を見つけました。それをもとに著者の遺族とも連絡をとれるかもしれません」

そういう知らせが入ったのだった。でかしたグレード・サウジ君。

それから数カ月後だったろうか、またサウジ君から連絡があって、

「あの本を新潮社で文庫として再生できることになりました。勿論講談社にも連絡しました。したがってその解説を書いてください」

16人のおじさんと青年の暑い島での辛く不安でハラペコで、あるときは太平洋の孤島でしか味わえない歓喜の日々の概略をぼくは喜んで書きはじめた。

■16人の乗る帆船が太平洋で座礁し大破

この小帆船「龍睡丸」は北海道千島列島先端の占守島を母港として内地との連絡が主な業務であった。冬のあいだは東京の大川口に停泊しているわけだが、船長はこの期間にまだ航海したことのない南洋の海にこの船で行ってみたい、という思いがあった。

それが実現しつつあった。

船長はこんなことも考えていた。

日本の南東の端にある新鳥島は火山島であるから噴火にからんで海底が海面に出てきたり再び沈んだりしている。そしてその近くに海賊の基地がある、という話がある。それを発見したら海賊の隠した財宝が見つかるかもしれないし、日本の漁船の安全操業にもたいへん役立つだろう。そのほか南海にはマッコウクジラが吐き出すクラゲに似た龍涎香という、1グラム=金1グラムもする高価なタカラモノが漂っているという。それの100キロぐらいのかたまりもあるというからすばらしい話ではないか。

この船の乗組員で紹介されている人はリーダー格で同書では運転士と書かれているのだがどうも帆船にはなじまない呼称だから航海士などと勝手に解釈してしまった。続いて漁業長の役職の人は漁船の現場では船長以上の権威があるという。その下に実地の体験から鍛えあげ、人並み外れて実力のある水夫長。このほか報効義会(開拓組織)の会員4名。この人たちは占守島に何年か冬ごもりして艱難辛苦(かんなんしんく)をして漁業に立派な実績を持っている。ほかに2名の練習生と小笠原諸島で捕鯨船の手伝いをしていて日本に帰化した人が3人。このほかに水夫と漁夫が3人。あとひとりはこの本の語り手であり後に東京高等商船学校の教官となった船長の中川倉吉氏。

話の背景を説明しているうちに随分紙数を費やしてしまった。

したがってこの華奢な帆船の運命が怪しくなるところまで一気に話を進めてしまう。

ミッドウェイの近くの海域からの帰途、サメとウミガメをたくさん獲って、油をだいぶ採取したあとに思わぬうねり波に巻き込まれたところまで書いた。

その波はすさまじく、どんどん船は暗礁にひきよせられ、まもなくのりあげてしまった。

絶え間なく打ち寄せる波濤(はとう)によって木造のスクーナーはどんどん破壊されていく。

16人は、もう半ば死にかけている船から熟練した船員ならではのロープワークで比較的安全な岩にとりついた。沢山つんであったコメは2俵がなんとか救いだせ、肉や果物の缶詰やカラの石油缶をいくつか。マッチと井戸掘り用の道具などを岩の上に持ってくるので精一杯だった。

■小さな無人島に漂着し、井戸を掘って飲み水を確保

流出を逃れた小さな伝馬船に16人が乗り、船から取り外した木で作った間に合わせの筏(いかだ)になんとかひっぱりだせたものを乗せ、それをひいて珊瑚礁への激突をさけながら砂浜の海岸がある小さな島に上陸することができた。そこは岩などひとつもなく本当に砂浜だけのところで海抜も1メートルぐらいしかない。龍睡丸は荒れ狂う波濤によって岩に何度も叩きつけられもう完全な残骸になっていた。

必死に島にたどりついた16人はみんな無事だった。全員助かったお祝いに果物の缶詰をひとつだけあけ小さな匙でひとしずくずつその甘さを味わった。

しばらくすると「島が見える」とさけんだ者がいた。指さす方向を見ると、いま立っている島よりも、3、4倍は大きそうな島だ。「それ、あの島だ」。一同は伝馬船に飛びのり、その島をめざした。

まず一番に必要な井戸を掘ることになった。しかし砂地と思われたその下は珊瑚礁がひろがっていて簡単には穴が掘れない。その一方で蒸留水づくりの班が珊瑚のかたまりと砂、それに石油缶と島で見つけた流木を使って海水を沸かしはじめた。

ガツンガツンとした岩だらけの地盤に苦労しながら交代でなんとか4メートルほどの井戸を掘ると白い水が出てきた。しかし塩からくとても飲み水にならない。

一方蒸留水は珊瑚と砂のかまどと石油缶を3つくみあわせた蒸留器で一時間海水を沸騰させ、やっとオワンの底に少々、という程度しか集水できなかった。炎天下の労働に口のなかは水欲しさに膨れ上がったようになっている。

別の班は自分らで運んできた木材と帆を使って大きな天幕で小屋を作った。井戸は別の場所にまた2メートルほどのを掘ったがやはり白い水だった。もうひとつ掘った2メートルの井戸も少しは塩が薄まっていたがまだ人間が飲めはしなかった。彼らはやがて草の根に近い浅い井戸のほうがいい水が出るのかもしれない、とためしてみるとまだ塩辛さは残るが蒸留水をまぜるとなんとかひと口ずつは飲めるような水を得ることができた。

■アオウミガメの肉を焼いて煮ると牛肉よりうまい

やがて炊事班が大急ぎで作った、島で最初の「めし」が用意された。島には正覚坊(アオウミガメ)が沢山いた。甲羅の大きさが直径1メートルもある。それを焼いた肉と海水で煮た潮煮は牛肉よりもうまかった。空腹の極みにきていたのでみんなむさぼり食った。

海で泳ぐアオウミガメ
写真=iStock.com/cinoby
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/cinoby

翌日の食事が終わったあと航海士が「みんなの知っているとおりコメは2俵しかない。これをできるだけ長くもたせるために次のめしから重湯にして1日に3度飲むことにして、あとは魚やカメの肉で腹を作ってほしい」

そう言い、全員がうなずいた。

そしてその日から全員服を脱いでそれはなにかのときのためにちゃんとほして乾燥させ、大切に保管し、ずっとハダカで生活することにきまった。

またもや全員がうなずいた。

さらに翌日から蒸留水を作ることをやめた。考えた以上に沢山の燃料がいることがわかったからだった。そのかわりしばしば降ってくる雨(スコール)を天幕でうけとめ、1カ所にあつめて石油缶に保存し、井戸水にまぜて飲むようにした。

火もマッチに頼っていたのでは直に使い切って悲惨なことになる。そこで晴れている日は双眼鏡の凸レンズを使って太陽光線から火を作るようになった。けれどこれも晴れていないと役にはたたない。そこで空き缶の中に砂をいれ、そこにアオウミガメから採った油をつぎこんで、油のしみこんだ砂の上に灯心を差し込み、火をつけると立派な行灯になった。風に消されないように缶詰をいれてあった木箱でまわりに枠をつくり帆布の幕を垂らすと自由に持ち運べる万年灯になった。

■アザラシの群れには手を出さないルール

初日に捕まえたアオウミガメがなくなると魚釣りに集中した。16人のなかには釣り名人がたくさんいた。ヒラガツオ、シイラ、カメアジなどがいくらでも釣れた。魚は刺し身にするのが手間も燃料もいらないからいちばんありがたく、焼き魚、潮煮やシャベルの上でカメの油で炒めたものなどを食べた。

島の北側から砂浜続きに小さな出島のようになっているところがあった。その出島をねじろにしているのは大小のアザラシだった。アザラシは魚とりの名人だ。魚をとるときはみんなで潜って沢山食べ、満腹すると半島のあちらこちらに上がってきて日にあたってのんびりしている。全部で30匹ほどいたがやがて仲よくなっていった。

その群れを見て船長は、

「あのアザラシには当面なにもしないようにしよう」

と言った。人間たちが食べるつもりでかれらを襲えば最初のうちは何頭か捕獲することはできる。でもそれによってアザラシが用心、および敵対してみんなどこかに行ってしまうのではまずい。彼らは人間に何もしないのだし、我々も何もしない。でももし我々がまったく何も食べるものがなくなって飢え死にしそうになったとき、彼らを食べてしばらく生き延びることができるかもしれない。

だから、たとえ捕まえるわけではないにしてもあのアザラシ半島に無闇に入り込んでいくのはやめよう。

船長はそういうことを決まりごとのひとつにした。

■魚が釣れなくなると船の残骸で網を作った

島は平均標高2メートルだった。島で一番高い西の草地でそれより少し高い4メートル、というところだった。その上に見張り台をつくり、常時見張りをおいてまわりを航行する船に注意していよう、という意見がまとまり、みんなで見張り台づくりをはじめた。といっても材木は流木ひとつないから砂浜からみんなで砂を運び、砂山を作ろうという根気のいる作戦がはじまった。石油缶などに砂をいれてみんなでひっきりなしに砂を運んだが、やがてアオウミガメの直径1メートルもある甲羅に砂をいれてロープをつけ、みんなで運ぶ、ということを思いついた。

間もなく4メートルほどの文字通りの砂山ができた。もともとの高さと合わせると8メートルになりそのてっぺんに交代で見張りがつく。

見張り役は当番制になったが、2番目に見張りに立ったものから素晴らしい発見があった。

その山の上から見える浜に沢山の流木が流れ着いているのを見つけた、というのだ。大急ぎで行ってみると大小の流木が本当に沢山打ち寄せられている。みるとそれは波によって分解された自分たちの「龍睡丸」のものだった。でも帆桁である長く太い丸太などもあり、すべて役にたつものばかりだ。

早速その帆桁をつかって見張り台を囲むようにヤグラをつくり、海面から12メートル半もある立派な見張り台を作った。視野はぐんと広くなった。しかしヤグラから遠くをいく船を見つけても、先方にこの場所が発見されなければ意味がない、ということになり、そのまわりに魚の骨、カメの甲羅、枯れ草、板切れなどを積み重ね、ウミガメの油を入れた石油缶を常備していつでも火と煙を焚けるようにした。雨に濡れるのをふせぐため、普段はその焚き火の材料の山に帆布をかけておいた。

季節や水温、水流の変化があるのだろう、ある炊事担当から急に魚が釣れなくなった、という報告があった。

「それでは網をつくろう」

魚のことならなんでもくわしい漁業長が言った。みんなで帆布をほぐしてとった糸によりをかけ、板をけずって網すき針をつくり、オモリは流木についていた大きなクギや金物など。たりないところは大きなタカセ貝などを使い、14日間で長さ36メートル、幅2メートルの立派な網ができた。

これを伝馬船に積んで総がかりで網をしかけた。すると網いっぱいに魚がとれ、てんてこまいになった。これからも毎日魚を捕る必要があるから、と当座食べる分量だけ持ち帰りあとは海に逃がした。

■海鳥の肉はまずいが卵はオムレツやゆでタマゴに

その頃から島には日ごといろんな種類の海鳥がやってくるようになった。アヒルくらいの大きさのオサ鳥、軍艦鳥、アジサシ、頭の白いウミガラス、大きなアホウドリなどなど。

カモメの群れ
写真=iStock.com/sanyanwuji
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/sanyanwuji

かれらは群れごとに集まって卵を産んでいた。その接近度合いも2メートル四方ぐらいに60、70も産卵するので海岸は国別に色をわけた地図のようになった。

16人は卵をひろって歩いた。それはゆでタマゴにしたり洗ったシャベルにカメの油をひいて魚肉入りのオムレツにしたりした。その本には書いていないがいろんな鳥のタマゴを食べられるので鳥によって味わいがずいぶんちがっていただろう。軍艦鳥やアホウドリはとても大食いで口から胃まで沢山の魚を呑み込みくわえて海から戻ってくる。

海鳥そのものの肉はあまり食べなかったようだ。

「贅沢を言うようだがアオウミガメの肉を食べているとだいぶ差がついてまずかった」という記述がある。

■タマゴの食べ過ぎによる便秘は雑草で解決

鳥の大群の産卵がすむとアオウミガメが陸にあがってきて産卵するようになった。ウミガメは陸にあがってくるとしかるべきところに後ろ足で丁寧に穴を掘って、大きなアオウミガメは1頭で90個から170個ほどもまんまるいタマゴを産む。タイマイは130個から250個ぐらい産む。産みおわると丁寧に砂をかけてまた海に戻っていく。

それらを捕まえて食べるのは容易だが、ウミガメの上陸も日ごと数をましてくるのでもてあましてくる。そこでやがてくる冬に備えてウミガメを飼育するようにしたらどうか、という意見が出てきた。

アオウミガメの卵はまん丸でいくらゆでても白身がかたまらないことを知った。しかしとてもおいしい。タイマイのタマゴもうまいが親の肉は臭みがあってまずかった。アカウミガメの肉も、においがあって、食用にならない。いずれにしろその2種類ともタマゴはうまいのでそればかり食べていたからなのか全員完全な便秘になってしまった。

野菜をちっとも食べないからだ、と考えて島にはえている草をよく調べたら4種類あることがわかった。そのうちワサビに似た草があるのを発見し、それをさしみにそえて食べるとなかなかうまい。同時に海水をおわんに半分ぐらい飲むようにしたら全員の便秘がなおった。

■たくさんのウミガメを結んで飼う

ウミガメを飼うにはどうしたらいいか。以前掘ってつかいものにならなかった井戸のなかにいれておいたら、まもなくみんな死んでしまった。

そこで海岸の波打ち際に杭をたくさん打ってその杭とカメの後ろのヒレにしっかりと索を結んでおいたらカメは空腹になると勝手に海に入って魚を食べ、あとはおとなしく砂浜に戻ってきて甲羅干しをしている。そういう牧場を2カ所につくり沢山のカメを飼うことになった。もちろん全体の面倒を見るためのカメ係も交代の役割になった。

椎名誠『漂流者は何を食べていたか』(新潮選書)
椎名誠『漂流者は何を食べていたか』(新潮選書)

船長は前に海図を見て、西の方に別の島があることを覚えていた。島といっても高さは殆どなく、自分たちのいる平均標高2メートルぐらいの平らで心細い規模だ。

アザラシ半島にいくといつでも沢山のアザラシに会えた。船長の最初の命令と約束を守り、誰もアザラシに危害をくわえようとはしないので、人間をはじめてみたアザラシたちはたちまち人間と仲良くなった。とくに親しくするためには釣った魚を手土産に持っていくと友達になるのも早かったが、人間から見ると個体の見わけがつかないだろう。しかし親しくなったアザラシはその人をむこうから見つけてくれるようになった。そしてそばにくると甘えて寄りそってくるようになったというから可愛い。

乗組員のひとりととりわけ親しくなった大型アザラシの友情など読んでいると思わずのめりこんでしまう。

船長が岩の上に立って棒切れを海に放り投げる、アザラシはいっせいにその棒切れを追っていき、一番早く噛みついたのがほうりなげた人間のところに持ってきて、さらに投げてくれ、とみんなで待っている、というエピソードもある。

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椎名 誠(しいな・まこと)
作家
映画監督。1944年、東京都生まれ。辺境の旅人としてルポの執筆、ドキュメンタリー番組などに出演。90年『アド・バード』で日本SF大賞受賞。『ぼくは眠れない』(新潮新書)など著書多数。

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(作家 椎名 誠)

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