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「川中島の戦いは武田信玄の勝利と解釈するべき」日本史の常識を覆す"合戦の勝敗"の見極め方

プレジデントオンライン / 2022年3月13日 17時15分

武田信玄像=山梨県甲府市 - 写真=時事通信フォト

上杉謙信と武田信玄による川中島の戦いは、一般的には「引き分け」と考えられている。だが、東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんは「合戦にはそれぞれ目的がある。どちらが目的を達成できたのかで勝敗を決めるべきではないか」という――。

※本稿は、本郷和人『「合戦」の日本史 城攻め、奇襲、兵站、陣形のリアル』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

■合戦にはさまざまな利害関係が存在する

合戦とはまず一対一の殴り合いのようなものから始まり、やがて武器を使い、相手との命の奪い合いになり、やがて集団対集団になっていったとします。

仮にこれをA対Bの戦いとすると、まだ一対一での戦いの場合には、AはBの命、BはAの命を奪えればいい。しかし、段々と集団対集団となった場合には、互いの集団の総大将であるAとBの命を直接に奪うということは難しくなります。

ですから、その場合、合戦はAやBの持っている財産であったり権利だったりを奪うことを目指すようになります。そうなると、一対一の殴り合いの頃にあったような、相手に対する単純な嫌悪や殺意では、戦いは起こりにくくなります。そこには集団と集団のさまざまな利害関係が存在するだろうことは想像に難くありません。それが、一対一の殴り合い・殺し合いと集団対集団である合戦との大きな違いです。

■「合戦を仕掛けた側の目的」が勝敗の指標になる

合戦には何らかの目的があって、その上で、仕掛ける側がいる。仕掛ける側は目的を達成するために戦を引き起こすわけですから、それなりに用意周到な準備をしなければならない。逆に言えば、手間暇かけて準備をするということは、それだけの目的があるということです。

このとき、合戦を仕掛けた側、攻める側の目的こそが、その合戦の勝敗を決める指標になります。仮に攻める側がA、守る側がBであるなら、Aの目的が達成されれば、その合戦の勝利者はAです。反対にBはAの目的を阻止すればいい。Aの目的が達成されなければBの勝ちです。

これが合戦の勝敗を見極めるポイントなのですが、実は意外と歴史学を専門とする研究者の間でもこのことを押さえていない人が多いのです。

その例が、上杉謙信と武田信玄が約10年(1553~64年)にわたって争った川中島の戦いの勝敗に対する評価です。

そもそもなぜ、川中島の戦いが起きたのかというと、大前提として武田信玄は信濃国の制圧を目論(もくろ)んでいました。信玄は自らの父を追い出して家督を継いだ時点で甲斐国の平定はほぼ終えており、更なる領地を求めて、信濃国へと侵攻したのです。信玄は10年かけて信濃のほぼ全域を自分のものにすることに成功します。

ところが信玄の信濃侵攻に不服だったのが越後の長尾景虎(ながおかげとら)、すなわち上杉謙信でした(謙信は何度も名前を変えています。本書では謙信の呼び名で統一します)。

■上杉謙信には「直江津は絶対に押さえておきたい」事情があった

なぜ、謙信にとって信玄の信濃侵攻が問題だったのか。

地理的な条件を見てみると、上杉謙信の本拠である春日山(かすがやま)城は、日本海に面した港がある直江津(なおえつ)にあります。越後国全体を統治するにも、日本海を使った流通の面でも、直江津は重要な拠点でした。当時は太平洋側の海上交通は波が荒く危険視されており、日本海側の海上交通が交易ルートとして重宝されていたのです。そこに面している直江津を押さえておくことは謙信にとっても非常に重要なことでした。

『「合戦」の日本史』
図表=『「合戦」の日本史』

日本海側で作られている焼物を積み、蝦夷(えぞ)地(北海道)で売買する。今度は蝦夷地で仕入れた海産物などを積み込み、直江津へと戻る。さらに越後では青苧(あおそ)という植物が作られていたため、これを積荷として載せた船が京都へと行く。青苧はのちに木綿が一般になるまでは、衣服の原材料として重宝されていた品です。

直江津を押さえれば、こうした海を通じた交易権を手中に収めることができます。謙信が亡くなったときには上杉の蔵には莫大な金が蓄えられていたとされるくらいですから、この海上交易は上杉に大きな財をもたらすものだったと考えられます。そのため、謙信としては、直江津は必ず押さえておきたいのです。

■北信濃は自分の領地として確保したかった信玄

ところが、地理的にみれば、謙信の越後国(新潟県)と信玄の信濃国(長野県)は隣り合って、国境を接しています。信玄が信濃全体を領有してしまうということは、謙信にとっては目と鼻の先の距離に、信玄の勢力が迫っていることを意味しています。そのため、謙信からすれば、信濃全体はともかく国境に接している善光寺平の付近、つまり北信濃は、何としても自分の領地として確保しておきたいわけです。

戦国時代、信濃全体で大体40万石くらいの米の収穫量があったとされますが、北信濃だけで10万石はありました。つまり信濃全体の4分の1もの収穫高を持っていた豊かな地域です。

謙信が治める越後国、つまり現在の新潟県は米所として知られますが、戦国時代においては実はとても貧しい土地でした。越後国が米所として急速に発展したのは、江戸時代に入ってからの技術革新によってです。江戸初期には35万石しか穫れなかった貧しい地域が、100万石もの収穫高を誇るようになったのでした。戦国時代の当時、貧しい越後の状況を考えれば、北信濃を領地とすることは死活問題でもあったのでしょう。

対する信玄の側としても、北信濃は上杉の越後国と接しているわけですから、自分の支配下に置いておきたい。また、そもそも信玄が信濃の制圧に動いたのには、そのまま越後へと出、日本海交易のルートを確保したいという野望があったからではないかという説もあります。信玄の元々の所領である甲斐国は海がなく、満足な交易をすることができませんでしたので、それもあっただろうと私も思います。

■上杉は北信濃の奪取、武田は北信濃を守ることが「目的」

ともかく、こうして川中島の戦いはこの北信濃をめぐって争われることとなったのです。

さて、ここで押さえなければならないのは、この川中島の戦いという合戦は、上杉と武田のどちらが仕掛けた戦いだったのかという点です。

すでに武田は北信濃を含む信濃のほぼ全域を制圧していました。ですからその北信濃を奪いたいと攻めにきたのは上杉謙信のほうなのです。つまり、攻める側は上杉謙信、守る側は武田信玄となります。

(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

その意味では合戦の目的も明確です。上杉謙信は国境と接している紛争地域である北信濃を手に入れたい。武田信玄は逆に北信濃を奪われないようにすればいいのです。

こうして、約10年にわたって争われた川中島の戦いは、特に永禄4(1561)年の第4回の戦いが最も激しい戦いだったとして、よく知られています。

このとき、上杉軍は謙信自ら兵を率いて善光寺平にまで出向いています。対する武田軍は、信濃と越後を流れる千曲川河畔に海津(かいづ)城を築き、防衛拠点としました。この海津城はのちに松代(まつしろ)城という名で知られ、真田(さなだ)10万石の城下町になります。武田勢は海津城を防衛ラインとしてまず上杉軍の進攻を食い止め、狼煙などで直ちに甲府に知らせる状態にしておきました。海津城から上杉の情報を受け取ると、信玄は全軍を率いて、海津城防衛のために北信濃へと向かいます。大枠で言えば、このようなかたちで両軍は川中島で激突したわけです。

■引き分けか、上杉に分があったのか…

戦いの状況を見ると、午前は上杉軍が押しており、武田軍が劣勢だったとされます。このとき、信玄の弟で全軍の副将ともされた武田信繁(のぶしげ)をはじめ、重臣の両角虎定(もろずみとらさだ)などが戦死を遂げています。他方、午後になると武田軍が盛り返し、上杉軍は春日山城への退却を余儀なくされました。

武田家の歴史を記した『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』では、午前は上杉の勝ち、午後は武田の勝ちとしています。このことから現在の歴史学では、「引き分け」と考えるのが一般的です。

あるいは、武田軍は有力武将が戦死しています。これに比べて上杉軍はめぼしい人物の戦死はありませんでした。このことを鑑(かんが)みると、上杉の勝ちとは言えないまでも、上杉に分があったのではとする考えもあります。

■撤退したのは上杉軍、武田信玄の勝ちではないか

しかし、果たして、本当にそれでよいのでしょうか。

本郷和人『「合戦」の日本史 城攻め、奇襲、兵站、陣形のリアル』(中公新書ラクレ)
本郷和人『「合戦」の日本史 城攻め、奇襲、兵站、陣形のリアル』(中公新書ラクレ)

改めて、この合戦の目的を考えてみましょう。攻める側は上杉謙信、守る側は武田信玄です。攻める側の謙信の目的は北信濃の領有権を得ることでした。そのために謙信は春日山城から南下してきたのです。反対に、守る側の武田信玄は、北信濃を奪われなければいい。侵攻する謙信を迎え撃つべく、信玄は甲州からやってきました。

武田軍は副将や重臣を失いながらも、最後まで戦場となった北信濃に残っていました。この地を諦め、撤退したのは上杉軍なのです。実際にこの戦いの後も、北信濃10万石は、武田信玄の支配下にあり続けました。謙信はその領有に失敗し、春日山城に逃げ帰った。結果的に北信濃の領有に失敗したということになります。

となれば、引き分け、あるいは上杉に有利どころか、武田信玄の勝ちだと言わざるを得ないでしょう。

■目的を達成したかが、勝敗を判断する根拠になる

後述しますが、戦国時代というのは一回の合戦に勝利すればそれでおしまいというわけではありません。群雄割拠する乱世の時代ですから、周囲は敵ばかりです。いつ、弱ったところを襲われるかわからない。ですからひとつの合戦であまりにも消耗しすぎてしまったら、次の戦いでは満足な準備ができず、敗戦しそのまま滅亡ということもあります。ですから、川中島の戦いというひとつの合戦だけではなく、より大きな文脈で見たときには、有力武将の死というのは武田軍にとって大きな痛手だったことは確かです。

しかし、あくまでも川中島の戦いにおける上杉謙信と武田信玄の争いにおいては、前述の理由から、武田信玄の勝利と解釈するべきでしょう。

合戦において、攻める側には理由があり、目的がある。その目的が達成されたか、達成されなかったのかが、合戦の勝敗を判断する根拠になります。そのときの合戦だけに限定すれば勝ちであっても、大きな流れで見たときには実は負けだったということもあります。しかし、繰り返しになりますが、重要なのはその合戦の目的とは何か、そしてその目的が達成されたのか、達成されていないのかという点に尽きます。シンプルな考えですが、これが最も合理的な判断でしょう。

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本郷 和人(ほんごう・かずと)
東京大学史料編纂所教授
1960年、東京都生まれ。文学博士。東京大学、同大学院で、石井進氏、五味文彦氏に師事。専門は、日本中世政治史、古文書学。『大日本史料 第五編』の編纂を担当。著書に『日本史のツボ』『承久の乱』(文春新書)、『軍事の日本史』(朝日新書)、『乱と変の日本史』(祥伝社新書)、『考える日本史』(河出新書)。監修に『東大教授がおしえる やばい日本史』(ダイヤモンド社)など多数。

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(東京大学史料編纂所教授 本郷 和人)

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