「黒田官兵衛も直江兼続も、私に言わせれば軍師ではない」東大教授がそう断言する納得の理由
プレジデントオンライン / 2022年3月17日 10時15分
※本稿は、本郷和人『「合戦」の日本史 城攻め、奇襲、兵站、陣形のリアル』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
■大河ドラマにも「軍師」を描いたものはしばしばある
合戦における戦術を考える際に、読者の皆さんの多くは、「軍師」のような人間がいて、戦術・戦法を考え、戦場の後方で全軍を指揮して敵を倒すというようなものを思い浮かべるのではないでしょうか。
たとえばNHK大河ドラマでも軍師を描いたものがしばしばあります。『天地人』では、妻夫木聡さんが演じる直江兼続(なおえかねつぐ)が主人公でしたが、兼続は軍師として描かれていました。岡田准一さんが黒田官兵衛(くろだかんべえ)を演じた『軍師官兵衛』では、「軍師」と、タイトルにまで入っています。そのほか、内野聖陽さんが武田家の軍師・山本勘助(やまもとかんすけ)を演じた『風林火山』などもあります(山本勘助自体、本当に存在したのか否か議論があり、その実在は定かではありません)。
実は、この軍師という存在が厄介なのです。つまり、果たして日本に軍師は本当に存在したのか、という問題があるのです。
■中国の軍師は武官ではなく文官だった
中国では、『三国志演義』に出てくる諸葛孔明(しょかつこうめい)(諸葛亮)などが有名な「軍師」として知られています。中国史にはこのほか、『史記』や『封神演義(ほうしんえんぎ)』に登場する太公望(呂尚)にしろ、漢建国の戦いに登場する張良にしろ、軍師と呼ばれる者が活躍しています。いわば軍師の系譜のようなものが中国の歴史にはあるわけです。
しかし、そもそも諸葛孔明も本当に軍師だったのでしょうか。私たちが諸葛孔明をイメージするとき、その姿は頭に綸巾(かんきん)をかぶり、手に羽扇を持って、基本的には武具は身につけていません。およそ、戦場で戦う武将には見えません。実際に中国史に詳しい方のなかには、諸葛孔明のような軍師が本当にいたのかどうか疑っている人もいます。
まず、押さえておかなければならないのは、おそらく軍師に相当する人物というのは、実際に戦場で戦う武官とは異なる文官だったということです。文官は戦略や戦術を考え、その指揮に携わったと考えられます。
つまり、諸葛孔明のような軍師は、文官でありながら自ら戦場に出ていき、戦争の指揮をしているような人物だったことになります。本当にそういう軍師が存在していたとしても、それは相当に珍しい存在であり、滅多にいなかったのではないかと思われます。孔明のライバルともいうべき司馬仲達(しばちゅうたつ)も軍師ではありません。彼は政治家であり、同時にすぐれた軍人です。プロの軍師という人は少数だったでしょう。
■源頼朝は京都の朝廷から官僚をヘッドハンティングしていた
さて、我が国です。日本においてはそもそも武官と文官の違いというのは明確ではなかったという事情があります。
たとえば、鎌倉幕府を開く際に源頼朝はしきりに文官を集めています。鎌倉幕府は基本的には武士の、武士による、武士のための政権ですから、第一は軍事です。これは佐藤進一先生の「将軍権力の二元論」においても明らかです。そして軍事と同時に、統治的な支配権である政治もまた必須となってきます。
この政治を行うのが文官の役割なのですが、鎌倉武士たちは文字も読めない人間が少なくなかったのです。統治のためにはさまざまな法整備が必要ですから、そのためには文字が読めなくてはならない。つまり文事を担える人材を集めることが急務でした。そのため、頼朝は京都の朝廷に仕えた官僚たちをヘッドハンティングしています。
ところが面白いのは、その文官の子供や孫たちがどうなったかというと、文官職を引き継ぐのではなく、武官になっている人物が少なくないのです。
■諸葛孔明のような「純粋な軍師」は日本には存在しなかった
たとえば、頼朝に請われて、政所の初代別当を務めた大江広元(おおえのひろもと)という人物がいます。彼の息子の一人に、現在の神奈川県の毛利(もうり)台というところにあった毛利荘を有していることで毛利姓を名乗った毛利季光(すえみつ)がいます。安芸の毛利元就(もとなり)の先祖にあたる人です。この季光は、父親が政所初代別当すら務めた文官であったにもかかわらず、武士として生きることを宣言して、戦いの訓練に明け暮れました。のちの承久の乱では木曽川の戦いや宇治川の戦いなどで大きな武功をあげています。
このような例が多いということは、つまり、文官よりも武官のほうが格上だったように思われるのです。
諸葛孔明のような軍師を想定するならば、基本は文官でありながら、戦争にも参加するというような人物が当てはまるでしょう。しかし、日本の場合には、文官の家系は続かず、多くが武官になってしまっている。その結果、武士でありながら法の運用に携わるなど、文官的な役割を担う者になってしまうわけで、これでは純粋な「軍師」とは言い難いわけです。
戦国時代に入ってもそれは変わりません。ですから先ほども挙げた直江兼続なども軍師とは言い難い、むしろ長槍を振り回して戦うような英雄豪傑に近い武将でした。つまり、日本においては、文官と武官の違いがほとんどないと言ってよいわけです。そのため、諸葛孔明のような純粋な軍師は日本には存在しなかったということになります。
■「軍配を上げると即座に陣形が変わる」のはゲームの世界だけ
また、一口に戦術と言いますが、たとえば諸葛孔明のような「軍師」が扇や軍配をパッと上げると、まるで野球の監督が指令を出すブロックサインのように、「鶴翼(かくよく)の陣」だとか「長蛇の陣」など、陣形を即座に変えるというものを想像する人もいるかと思います。
集団戦が主流となった戦国時代においては、このような「戦術」は、合戦のあり方を考えれば、単純に無理だとわかるでしょう。
というのも、前章で述べたように、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、武士たちの戦い方というのは一騎討ちが基本でした。それはいずれも軍事のプロ同士の戦いです。自ずと兵の数も限られてきます。この国にこの人ありと呼ばれるような有力な武士であっても、せいぜい動員できる兵の数は300程度だった時代です。
そのような小規模のものでかつ全員が戦いのプロであれば、訓練次第で即座に陣形を変えることもあり得たかもしれません。
しかし、南北朝時代以降、合戦はたくさんの兵数を準備できたほうが勝利する集団戦へとかたちを変えていきます。その際、プロの武士だけでなく、普段は田畑を耕している農民が徴用されたわけです。つまり、戦いにおいてはアマチュアの人たちです。大人数でかつ、満足な訓練を受けているわけでもない軍隊が、急に陣形をあれこれと変えるような戦術を取れるかというと、普通に考えるならば、まず無理でしょう。
よくある戦略シミュレーションゲームならば、ボタンひとつで軍勢を動かし、すぐに陣形を変えたりもできるのでしょうけれども、やはりリアルな合戦ではまずあり得ないと考えるべきです。
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東京大学史料編纂所教授
1960年、東京都生まれ。文学博士。東京大学、同大学院で、石井進氏、五味文彦氏に師事。専門は、日本中世政治史、古文書学。『大日本史料 第五編』の編纂を担当。著書に『日本史のツボ』『承久の乱』(文春新書)、『軍事の日本史』(朝日新書)、『乱と変の日本史』(祥伝社新書)、『考える日本史』(河出新書)。監修に『東大教授がおしえる やばい日本史』(ダイヤモンド社)など多数。
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(東京大学史料編纂所教授 本郷 和人)
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