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「このままなら羽生結弦はつぶされてしまう」選手のアイドル性を異常に高める金メダルという呪い

プレジデントオンライン / 2022年3月15日 12時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Seng kui Lim

北京冬季五輪が閉幕した。五輪不要論を展開する神戸親和女子大学の平尾剛さんは「五輪の商業主義化は著しく、暗澹たる気持ちになった。メダルを逃した羽生結弦選手の会見はその象徴だ。このままなら羽生選手の未来は、世間が創り上げたイメージによってつぶされてしまうかもしれない」という――。

■北京五輪で再確認したスポーツの魅力

17日間にわたって熱戦が繰り広げられた北京五輪と、10日間にわたった北京パラリンピックが閉幕した。新型コロナウイルスの感染拡大を受けて1年延期された昨年の東京五輪に続く2年連続での開催に、日本国内では熱狂や食傷など温冷さまざまな視線が注がれた。

長らく続く自粛生活で気が滅入りがちで大会を待ちわびた人たちは、日本選手をはじめ全出場選手の掛け値なしに素晴らしいパフォーマンスに魅了されたことだろう。

一方、私のように五輪のあり方に懐疑のまなざしを向ける人たちは、手放しで楽しめなかったに違いない。過熱する五輪報道にいささか辟易とし、それを遠ざけて閉幕を静かに待ち続けた人もなかにはいただろう。

かくいう私は、仕事と子育ての合間にたまたまつけたテレビで競技やニュースを観る程度で、おもにインターネットで五輪関連の記事や動画を追いかけた。批判的に五輪をみるかたわらで、スポーツそのものには熱い視線を送った。

採点への不服を怒りではなくポジティブなエネルギーに変換した平野歩夢選手(男子ハーフパイプ)の静かなる闘志、また高木美帆選手(女子スピードスケート)の短中長距離にまたがるオールマイティーなパフォーマンスには、元アスリートとして震えた。大会直前のけがの影響で、周囲の期待に応えられないことがわかりながらも平静を装った小平奈緒選手(同)の立ち居振る舞いには、アスリートとしてだけでなく人としての成熟をみた。スキージャンプを観て「人が飛んでる!」と驚いた、もうすぐ4歳になる娘のリアクションに、年齢を問わずに伝わるスポーツの魅力を再確認したりもした。

■スポーツが絵画なら五輪はド派手な額縁

五輪はさておき、「スポーツ」はやはりおもしろい。

仕組みとしての五輪は批判するがスポーツは楽しむ。これが私のスタイルである。

スポーツが絵画だとすれば五輪は額縁だ。絵そのものの鑑賞は楽しむが、ド派手に装飾された額縁には異論を唱える。常識外れの過剰な装飾をほどこすためにどれだけの嘘と欺瞞があり、どれほどの犠牲を払ったのか。その代償を払うことになるのは誰なのか。

絵を二の次にして、一部の人たちが金儲けのために飾りつけた額縁など不要である。金ピカに彩られた額縁が放つ禍々しい光が目眩しとなり、素直に絵を鑑賞できなくなっている現状は、決して看過できない。

五輪の醜態に囚われてスポーツの醍醐味が薄れつつある。だから私は目を凝らして絵としてのスポーツに視線を注ぐ。五輪への批判とスポーツを楽しむ態度は決して相反しない。

■羽生結弦の“異例会見”に見るスポーツの人気商売化

さて、今回取り上げるのは男子フィギュアスケートの羽生結弦選手である。

フィギュアスケートのエキシビションで演技する羽生結弦=2022年2月20日、中国・北京
写真=時事通信フォト
フィギュアスケートのエキシビションで演技する羽生結弦=2022年2月20日、中国・北京 - 写真=時事通信フォト

惜しくも五輪三連覇を逃したあとの2月14日に、羽生選手は「異例」の記者会見を行った。世界中にファンがいる羽生選手の絶大なる人気を象徴し、解釈のしようによれば競技成績を度外視した人気先行ともとれるこの記者会見に、私はどうしても首を傾げざるを得なかった。

周知の通り、男子フィギュアスケートでは鍵山優真選手が2位、宇野昌磨選手が3位という成績を収めた。にもかかわらずメダルを手にした両選手の報道は限定的で、各メディアは4位に終わった羽生選手を大々的に取り上げた。結果的に鍵山、宇野両選手の活躍は、繰り返し報道される羽生選手の影に隠れてしまった。

競技成績を残した選手ではなく、負けても人気を博す選手の方を重んじる。この態度は勝敗の競い合いを原則とするスポーツでは御法度である。競争主義は、勝者がしかるべき利得を得る限りにおいて機能するわけで、賞賛するかしないかはあくまでも競技成績によらなければならない。

勝者をそっちのけにして敗者に大きくスポットライトを当てる報道に、私はプロスポーツの「人気商売」への偏向を感じたのである。

むろん人気商売そのものを否定するつもりはない。スポーツを生業とするプロである以上、人気という評価軸に添っても値踏みされるのは当然だからだ。選手としての人気が高まれば世間の注目が集まり、スポンサードを受けることもできる。この意味で人々の目を惹きつける人間的な魅力もまたプロ選手としての「実力」である。

競技成績と人気は必ずしも比例しない。なかなか勝てないながらもその人柄や競技内容からどうしても応援したくなる選手もいる。だからスポーツはおもしろい。

だが、あくまでもそれは誤差の範囲に留めておくべきである。競技成績を重視する、つまり勝者への礼讃という大前提を無視してはいけない。競技成績を等閑にした人気先行はやがてスポーツを歪め、とりわけアスリート自身に取り返しのつかないかたちで傷を負わせることになるからだ。

■ファンもメディアも得をする会見の問題点

この記者会見の意味を、それぞれの立場から考えてみよう。

まず、ファンにとっては羽生選手の声を直接聞けるまたとない機会であり、歓迎される。スポンサーを含む羽生選手サイドにしても、実直でクレバーなその人柄をアピールできる絶好の場だ。国際オリンピック委員会(IOC)をはじめとする主催者側にとっても、スター選手の露出は大会や競技への注目を高めることにつながるし、メディアは購買数や視聴回数に直結する優良コンテンツをみすみす逃しはしない。

つまりこのたびの羽生選手の記者会見は、羽生選手の知名度が高まることから利を得る全方位からの後押しを受けて成立した。

ほとんど誰もが利を得る行為なのだからいいじゃないかと思われるかもしれない。だが私はここに、アスリートのアイデンティティを揺るがしかねない重大な問題が横たわっていると思う。

羽生選手本人がこの状況をどこまで自覚しているのか。それが問題である。

羽生選手の絶大なる人気は、リンク上での抜群のパフォーマンスはもちろんのこと、その容姿や人柄によるところも大きい。

おぼこさを残す甘い顔立ちと、顔が小さく手足が長いバランスの取れた体型は、まるでアイドルを彷彿とさせる。優勝のよろこびや惜敗への悔しさなど、喜怒哀楽や心の葛藤を包み隠さず素直に表現するあの態度は、トップアスリートに特徴的な近寄り難さとはほど遠い親しみやすさを醸し出している。「くまのプーさん」を愛でる様からみて取れる庶民感覚と、「少女漫画の主人公」のようだとも形容される卓越性とのギャップは、老若男女の目を惹きつけてやまない。

試合後のインタビューでは、質問をはぐらかすことなく誰ひとり不快にさせないであろうほぼ完璧なコメントを残す。言い訳を口にせず、いまの自分がいるのは周囲からサポートを受けたお陰だと感謝の気持ちを忘れない。メディアやファンが期待する言葉を的確に紡ぐその言語能力もまた優れており、その言動を好意的に解釈し、分析する書き手も後を絶たない。

ジャーナリストのインタビュー
写真=iStock.com/SeventyFour
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/SeventyFour

世界屈指の実力がありながら、その容姿やリンク外での振る舞いまでも卓越している羽生選手は、まさに非の打ちどころがない。

だが少々ひねくれた私には、この非の打ちどころのなさが気にかかる。

■画面上のアスリートは架空の選手像にすぎない

画面に映るトップアスリートは、ファンをはじめとする大半の人にとっては想像上のイメージである。試合での様子やメディアから伝わる断片的な情報を組み合わせて、観る者それぞれが創り上げる架空の選手像にすぎない。

幼いころからスケートに取り組み、長らく周囲の期待に応え続けてきた羽生選手は、このイメージを保つべく努力を続けてきた。求められる答えを察して理路整然と語るインタビューでの質疑応答は見事というほかなく、そうして好青年を演じ続けるなかで、この非の打ちどころのない「羽生結弦像」は創られていった。

そして、ほとんど誰もが好意的に受け取るこの「羽生結弦像」に商品価値を見出した人たちが、それにあやかろうと躍起になっている。勝とうが負けようが、世間の耳目を集めるためにその一挙手一投足にスポットライトを浴びせたこのたびの記者会見は、この構図を鮮やかに表象した。

揺るがぬ人気を確立した「羽生結弦像」は、すでにひとり歩きしているように私には思える。自らを取り巻くこの状況を羽生選手自身はどのように感じているのか。もしかすると得体の知れない不安を感じているのではないか。「羽生結弦像」を演じるなかで、本来の自分を見失いつつあるのではないか。

いつも礼儀正しく謙虚な「羽生結弦像」を維持するために、羽生選手は「背伸び」をしている。そう思えてならない。

羽生選手が健気に応えようとしている「周囲からの期待」は、ファンなど好意的な人たちからの直接的なそれだけではない。「羽生結弦像」から利を得る人たちの打算的な「無言の圧力」もまたのしかかっている。周囲からの期待に長きにわたって添い続ければ、たいていの人は茫然自失する。あの非の打ちどころのなさが、打算的な圧力を含むすべての人が納得する解を示し続けていることでもたらされているのだとすれば、それは自らを押し殺した「背伸び」でしかない。

■周囲からの過度な期待がアスリートを押しつぶす

いずれこのフィーバーは終わる。現役を引退すれば潮が引くように落ち着いてゆく。世界中から注目を浴びる舞台から下りたそのとき、羽生選手自身はなにを思うのだろう。幼いころから背負ってきた重荷をようやく下ろせると、解放感を覚えるのか。それとも得体の知れない虚無感に襲われるのだろうか。

羽生選手本人が自らを客観視できているのならそれでいい。私の単なる邪推であったと無視してくれればいい。だが、スポーツの過度な商業主義化がアスリートのアイデンティティを崩壊させかねない危険性は、もっと知られていい。

アスリートもまた、ひとりの人間である。引退後には、現役時代よりもはるかに長い人生が待っている。人生の前半に絶頂期を迎えたことが生む心の葛藤は想像以上に苦しいものだ。若かりしころに浴びた脚光はもう二度と味わえない。この現実は、引退したあとにゆっくりと、でも確実に心を削ってゆく。選手時代の功績や知名度が高いほど、世間が創り上げたイメージと本来の自分との乖離は大きくなり、抱える苦悩は深くなる。

実績を残したアスリートの引退後の足跡を、どれだけの人が知っているだろう。

スポーツの商業主義化、つまりアスリートの商品化は著しく進行している。金を生み出す存在としてアスリートが使い捨てられないよう、商品価値を高めるイメージ戦略に躍起になる人たちに節度が求められるとともに、ひとり歩きするイメージにアスリート自身が飲み込まれないためのサポート体制が急務だと、私は思う。

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平尾 剛(ひらお・つよし)
神戸親和女子大教授
1975年、大阪府生まれ。専門はスポーツ教育学、身体論。元ラグビー日本代表。現在は、京都新聞、みんなのミシマガジンにてコラムを連載し、WOWOWで欧州6カ国対抗(シックス・ネーションズ)の解説者を務める。著書・監修に『合気道とラグビーを貫くもの』(朝日新書)、『ぼくらの身体修行論』(朝日文庫)、『近くて遠いこの身体』(ミシマ社)、『たのしいうんどう』(朝日新聞出版)、『脱・筋トレ思考』(ミシマ社)がある。

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(神戸親和女子大教授 平尾 剛)

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