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本当は芸人を引退させる大会だった…「M-1に希望はない」芸人・ノブコブ徳井がそう語るワケ

プレジデントオンライン / 2022年4月2日 18時15分

写真=「M-1グランプリ2021」Webサイト

漫才師の日本一を決める「M-1グランプリ」。そこで結果を残し、一夜で人気者に変わった芸人は数多い。だが、お笑いコンビ・平成ノブシコブシの徳井健太さんは「M-1を始めた島田紳助さんは『若手漫才師がやめるきっかけになれば』と話していた。M-1に希望はない」という。徳井さんの著書『敗北からの芸人論』(新潮社)より紹介する――。(第2回)

■「M-1は芸人の希望なんかじゃない」と思うワケ

僕は最近『僕のヒーローアカデミア』というアニメにハマっている。最高のヒーローを目指す感動青春活劇。エピソード5が2021年の3月から新たに始まり、8月には3作目の映画も公開された。

その物語のスーパーヒーロー・オールマイトが言っていた。「常にトップを狙う者とそうでない者……そのわずかな気持ちの差は社会に出てから大きく響くぞ」いつものように、笑いながら言っていた。

僕のスーパー先輩、極楽とんぼ・加藤浩次さんも言っていた。「ナンバーワンを目指したからこそ、オンリーワンになれるんだ。最初からオンリーワンなんて目指すんじゃねぇ」いつも通り、顔をしかめて吠えていた。

だから、M-1グランプリで優勝したい! その思いで駆け抜けた青春の日々は、決勝に行こうが優勝しようが万年1回戦で落ちようが、時が過ぎると、それはキラキラとした経験に変わる。

■島田紳助が大会に込めたあるメッセージ

2001年、M-1グランプリが始まった。僕ら平成ノブシコブシはまだ芸人になったばかり、ホヤホヤ2年目くらいだった。結成から15年以内の若手コンビ(当時は10年以内)が漫才で日本一を決める。

一部では「芸人がお笑いを辞めるきっかけのひとつとして」作られた大会とも言われている。「芸歴10年にもなって、M-1の決勝に出られないなら諦めた方がいい」とは、大会の名付け親で大会委員長も務めた、島田紳助さんからの殺生なメッセージだ。厳しいがそれが現実なのかもしれない。

■一度も決勝の舞台に立てなかったが…

僕らも真摯(しんし)に決勝を目指したが、一度も行けなかった。1回戦で落ちたことが3回もある。けれど今、相方の吉村は芸能界の一線で頑張っているし、僕は僕でちょこちょこといろいろなお仕事をさせてもらっている。

だからM-1グランプリの決勝に進めなくたって、優勝しなくたって別にいい。とどのつまり出なくたっていい。いいんだろうけれど、その夢を見て努力して答えのない未来と衝突した過去は確かに存在する。今思えば、それはとても大きい財産になっているという実感がある。

■一夜で芸人がヒーローになれる活劇物語

2001年、中川家さんがM-1の初代王者となった。当時の中川家さんと僕は面識がなかった。東京と大阪で離れていたし、芸歴も8年差があった。今見返しても、あの貫禄でまだ10年目とは驚きだ。

今で言えば、霜降り明星やニューヨークと同じくらいだ。中川家さんは若い頃から円熟味があった。その上、M-1優勝後も熟成を繰り返し続けるモンスターでもある。そんな中川家さんだが、M-1に出場したとき、これで優勝しなければお笑いを辞めようと思っていたらしい。

今から20年前、芸能界はもっと殺伐としていた。2020年のM-1決勝で初めて注目を集めたコンビ「錦鯉」のように、50歳を目前にブレイク――そんなことはあり得なかった。才能のある人は20代から売れ続け、30歳前にはもう冠番組を持っている。そうじゃない人間はとっとと辞めた方がいい。そんな時代だった。

マイク
写真=iStock.com/paseven
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/paseven

中川家さんは、決勝戦で不利と言われるトップバッターで見事優勝を飾る。トップバッターでの優勝はこれまでの17会のうち、中川家さんだけだということからも、そのすごさが伝わるだろう。

2021年の今でも第一線で活躍し続け、吉本の聖地・なんばグランド花月(NGK)ではトリを務めるようになった。

M-1グランプリという、一夜で芸人がヒーローになれる活劇物語が2001年に産声を上げたのだ。

その年は、同期のキングコングも決勝に進出していたが、僕にはまだ嫉妬という感情すらわかなかった。

■アンタッチャブルを前に何もできなかった

2004年はアンタッチャブルさん。僕には頭にこびりついて離れない痛烈な記憶がある。

僕らがまだコンビを組んだばかりの頃、テレビ朝日に「虎の門」という深夜バラエティ番組があった。ほかのバラエティではやらないような、“尖った”企画ばかりトライする番組だったのだが、そのなかに若手がネタをするコーナーがあった。

そのMCがアンタッチャブルさんだった。僕らも出演し、もちろんその時が初対面だ。突風が吹き抜けたかと思ったら、僕らの出番は終わっていた。何を喋ったかも覚えていない。だが、スタジオは確かに笑いに包まれていた。僕らは「はい」「そうですね」「分かんないです」と、ただ単純な返答しかしていなかったはずだ。

ザキヤマ(山崎弘也)さんと柴田さんが、一瞬の隙もなく言葉を放ち続け、それがすべて笑いに変わっていった。ひょっとしたら僕らの出番を観た人は、「ノブシコブシがウケた!」そう思ったかもしれない。だがそんなことはなかった。何もできなかった。自分たちは一歩も動くことなく、何の個性も発揮することなく終わった。それは圧巻だったし、絶望だった。それくらいアンタッチャブルはすごかった。

■東京の若手芸人に夢を与えた先輩たちの躍進

だから2003年に、敗者復活からあわや優勝か? となったときも、僕は全然驚かなかった。2004年はタカアンドトシさん、トータルテンボスさん、POISONGIRLBANDさんなど、話したことのある先輩やお世話になっている先輩もM-1グランプリの決勝に進出した。

霞(かす)んでいた幻の夢の島は、くっきりと姿を現し東京の若手芸人たちにも甚大な影響をもたらし始める。

■人はここまで面白くなれるのか

2005年のM-1はルミネtheよしもとの楽屋で観ていた。大勢の先輩後輩同期がそこにはいた。

ブラックマヨネーズさんの決勝の2本目を全員が固唾(かたず)を呑んで見守っていた。何しろ1本目のネタが別格にウケていた。勝負の2本目。始まってから、その場はしばらく静寂が続いた。だがこれは「我慢」していたんだと思う。

本来ならルミネの楽屋で、芸人が集まって観ていい番組なわけがない。別の仕事をしているか、自分も決勝の場にいなければならないはずだ。そんなプライドや焦りからか、遠く離れた新宿ルミネの楽屋は、まるで重馬場だった。

雨でぬかるみ、競走馬が走りにくい。けれどそんなことは関係なかった。泥を蹴り散らかし、馬群を駆け抜け、ルミネの楽屋も大爆笑に包まれた。

清々しいほどの大爆笑。ここまで面白くなれるのか、人は。驚異をさらに超えた次元で、ブラックマヨネーズさんは優勝をもぎ取った。

■M-1の決勝は魂を削ることである

2010年、M-1グランプリの主人公と言っても過言ではない笑い飯さんが優勝した。

この頃になると後輩が決勝に出ていることも珍しくなかった。劇場での笑いの差も激しかった。ネタの面白い人間とそうでない人間――お客さんですらそうやって分けているんじゃないかという猜疑心(さいぎしん)すら生まれた。そんななか、ピースが決勝に残った。

キングオブコント決勝進出に続き、M-1もファイナリスト。同期である僕らの間には、いつの間にか決定的な差ができていた。M-1グランプリの決勝に出ることは、魂を削るっていうことだ。

■国民栄誉賞モノだと思った2010年の優勝者

POISONGIRLBANDの吉田さんは、こう言っていた。「僕らは、決勝が終わった瞬間から、また来年の決勝を見据えている」なんて息苦しいんだろう。

まるでずっと水中で、息をとめてもがいているようなものだ。夏頃から頑張りました! そんなの努力じゃない。364日頑張って相方とギスギスして、答えのない真実を掴もうとする日々。

笑い飯さんはそれを9年繰り返した。僕からしたら、もはや変態としか思えない。笑い飯さんのことを尊敬しない人なんて一人もいない。

なぜなら自分には絶対にできないことをやってのけたからだ。

優勝するなら審査員にも視聴者にも新鮮な初登場が有利に決まっている。それを9年連続で決勝へ駒を進め続けて、結果、最後の最後で優勝を掴み取る。国民栄誉賞では足りないくらいの偉業だと僕は思っている。

■袖から芸人がよく観ていたマヂラブ

記憶に新しい2020年は、マヂカルラブリーが優勝。

いよいよ漫才のレベルが、僕らがネタをやっていた頃とは桁違いのものになってきた。

お世辞でも何でもなく、決勝に進んだ全組が面白かった。審査員はどんなに大変だったろう。マヂカルラブリーもトレンディエンジェル同様、劇場では人気のなかった部類に入る。でも袖から芸人が観る率は高かった。

舞台裏
写真=iStock.com/RoterPanther
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/RoterPanther

逆にお客さんからの人気だけがあるコンビは、袖まで芸人が観に来てくれない。

■漫才か漫才じゃないか論争に腹が立つ

マヂカルラブリーがまだM-1グランプリを攻めあぐねていた頃、2018年の単独ライブのタイトルはこれだ。「もうこれで終わってもいい」。これ以上ないくらいの“純文学”なタイトル。

彼らもまた、当たり前のように死ぬ気で努力をし続けていた。

だから「マヂカルラブリーが漫才か漫才じゃないか論争」みたいなものが起きている時、純粋に腹が立った。そんな不毛な論争を煽るメディアも嫌だったし、その問いに対する答えがどんなに冗談まじりのものであっても論理的であっても、誰にも答えて欲しくなんかなかった。

あの時マヂカルラブリーのことを否定した人は、一生ちゃんと否定し続けて欲しいし、何かをきっかけに掌なんて返して欲しくもない。報われない努力をし続けて掴んだ栄光に、誰がケチをつけられるというのだろうか。誰にもつけられないだろうよ……!

■M-1は決して、芸人の希望なんかじゃない

お笑いというのは正解がないうえ、日々、その瞬間、状態によっても「何がウケるか」は変わる。その掴み所のないものを、M-1グランプリでは競う。

勝つために、みな、努力とかいう抽象的な行動で自分たちの「お笑い」を研ぎ澄ます。15年という時間制限もある。

僕たちには到底越えられなかった分厚くて高い壁を、爪を剥(は)がしながら血だらけで乗り越える後輩や先輩、同期たち。M-1に挑戦し、挫(くじ)け、解散したコンビも数多くいる。

M-1は決して、芸人の希望なんかじゃない。

徳井健太『敗北からの芸人論』(新潮社)
徳井健太『敗北からの芸人論』(新潮社)

夢は叶うさ、なんて戯言をいつまでも信じさせることは愛じゃない。

次のM-1もまた、感動と笑いをきっと生む。そして、新たなチャンピオンも生まれる。そんなニューヒーローの足元には、夢を諦めた人間の死体が転がっている。

新鮮な死体、腐った死体、まだ死んでもいないのに死んでしまったと決めつけられている死体……。日本一残酷なショーが、僕は今から楽しみで仕方がない。

『僕のヒーローアカデミア』のスーパーヒーロー・オールマイトは、どんなに辛い時でも笑う。僕の見てきた偉大な先輩たちは、いつでもみんなを笑わせていた。

僕は誰かの足元に死体として転がったとしても、笑っていたい。その無様な顔を見て、笑われたい。

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徳井 健太(とくい・けんた)
お笑い芸人
1980年北海道出身。2000年、東京NSCの同期・吉村崇とお笑いコンビ「平成ノブシコブシ」を結成。テレビ番組「ピカルの定理」などを中心に活躍し、最近では芸人やお笑い番組を愛情たっぷりに「考察」することでも注目を集めている。趣味は麻雀、競艇など。「もっと世間で評価や称賛を受けるべき人や物」を紹介すべく、YouTubeチャンネル「徳井の考察」も開設している。

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(お笑い芸人 徳井 健太)

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