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「これ以上高齢者のために子供や若者を犠牲にすべきではない」世界から乖離した日本のコロナ対応の愚

プレジデントオンライン / 2022年3月17日 17時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/recep-bg

日本社会はいつになったら「コロナ禍」を脱することができるのか。ライター・編集者の中川淳一郎さんは「日本のコロナ対応は一貫して高齢者重視。そのせいで子どもや若者が犠牲になってきた。若年層から学びや経験の機会を奪った罪は重い」という──。

■「コロナ騒動」最大の被害者は子どもと若者

2022年3月26日をもって、アメリカのすべての州でマスクの義務化が終了する。また、欧州各国ではすでにコロナ関連規制の緩和や撤廃が進んでいる。だが、同時期に日本がやっていることは、世界的な潮流からの「逆行」という言葉がまさにふさわしい。実に情けなく、恥ずかしい状況である。

欧米各国の被害は日本よりはるかに甚大だったにもかかわらず、彼らは“withコロナ”の方向に舵を切った。対して、日本は欧米よりも被害が比較的少なかったというのに、まだ「コロナ、ヤバい」「絶対に罹患(りかん)してはいけない」とやみくもに恐れ続けている。個人的には「ダメだ、こりゃ」という感想しか出てこない。

私は本稿で、日本のこれまでのコロナ政策および「コロナ感染対策禍」(決して“コロナ禍”ではない)の最大の被害者となった子どもたち、そして若者たちのことを明確に擁護しようと考えている。いまだ終わらない日本の理不尽なコロナ政策のせいで、若い彼らの貴重な時間がどれほど毀損(きそん)されたか、大人たちは真摯(しんし)に向き合う必要がある。

■世界の潮流から乖離していく日本のコロナ対応

まずは、現況を簡単に整理しておこう。欧米諸国と日本の取り組みにどれほど乖離(かいり)があるか、よくわかると思う。

・北欧各国ではモデルナ製ワクチンの若年層への接種禁止を決め、さまざまな国が3回目のブースター接種にも慎重姿勢を取った。実際、各国の接種状況を見ても、2回目より明らかに接種率は低い。

・一方、日本では若年層の接種に関する制限がなく、3回目についても「ファイザーでもモデルナでもどちらでもいいから、とにかくスピード重視で打てるほうを打て」と推奨。さらには4回目接種も夏までに準備完了と宣言し、政府分科会の尾身茂会長はその必要性を力説。モデルナは大相撲3月場所に懸賞旗を出し、自社のPRや3回目接種の促進に余念がない。

・「夏までに4回目接種の準備が整う」という宣言は、今夏に予定されている参議院選挙対策ではないかと考えられる。無能な岸田政権は「ワクチンをたくさん用意して、皆に打ってもらえば支持率が上がる」と考えている節がある。

・新型コロナ感染症をインフル並みの扱いにすると発表したイギリスに対し、日本は「まだ変異する可能性があるから時期尚早」と感染症の2類以上扱いを変えないまま。ただし、福井県の杉本達治知事からは5類変更の意見が出た。

・「入国に際してのPCR検査は受診不要」「ワクチン接種の有無は問わない」と水際対策を撤廃したイギリスに対し、「まだまだ検査数が足りない!」「3回目を早く打て!」「外国人は入れるな!」と絶叫する日本。

・ワクチンパスポートも各国で次々と廃止されているのに対し、「ワクチン・検査パッケージ」の新たな運用方法の検討に入った日本。

・マスクを外す流れにある(あるいはすでに外した)各国に対し、マスクを2歳児にも着けることを「推奨」した日本。

・自由に春を楽しむ各国に対し、日本では卒業式のマスク着用を義務化する流れ。山梨県はPCR検査陰性が卒業式参加の条件に。東京都は「今年も都立公園での花見を規制する」と小池百合子都知事が発表。理由は「まん延防止等重点措置の時期と重なる」から。

……このように、ザッと挙げただけでも、海外と日本ではコロナ対策に大きな違いが見られるのである。

■「若者や子どもが高齢者にコロナをうつす」は本当なのか

さて、今回私がとくに問題視したいのは、年齢による「時間の価値」の違いである。

コロナ騒動は3年目を迎えたわけだが、日本では小池都知事の「防ごう重症者 守ろう高齢者」のキャッチフレーズに代表されるように、高齢者への徹底した配慮が引き続き求められている。「若者や子どもが外で新型コロナに感染し、それを家庭内に持ち込む」「結果、同居している高齢者が罹患し、重症化したり、亡くなったりする」というストーリーがひねり出され、それが定説のごとく喧伝されてきた。

「コロナを蔓延させ、高齢者を窮地に追い込んでいるのは子どもや若者」と、政治家や専門家はどうしても若い彼らを悪者扱いしたいようだが、そもそも親(高齢者)・子・孫の三世代が同居するような世帯は、日本にどれほど存在しているのだろうか。

「令和2年国勢調査」の結果によれば、令和2年(2020年)10月1日現在の日本の世帯数は5583万世帯で、2015年から238万1000世帯の増加(4.5%)となっている。

すべての世帯から学生寮や病院、社会施設など「施設等の世帯」を除いた「一般世帯」の数は5570万5000世帯。そして一般世帯における1世帯あたりの人数は、2000年の2.67人から2.21人に減少している。また、1人世帯は全体の38.0%となる2115万1000世帯だった。

これらの数字を見れば、どう考えても孫と高齢者が同居する世帯が「多い」とはいえないだろう。

■「孫と同居する高齢者」は明らかに少数派

さらに「若者や子どもが高齢者にうつす」という説の信憑性についても、関連する数字を見ていこう。

前述した国勢調査によると、65歳以上の世帯員がいる世帯は2265万5000世帯で、全体の40.7%。このうち「単独世帯」は29.6%だ。そして「核家族世帯」に括られる夫婦のみ世帯が30.2%のため、2つを合計すると59.8%になる。

「核家族世帯」には夫婦のみ世帯の他に、夫婦と子どもから成る世帯13.6%、ひとり親と子どもから成る世帯11.5%も含まれる。よって、65歳以上の「単独世帯」と、65歳以上の世帯員がいる「核家族世帯(夫婦のみ世帯・夫婦と子どもから成る世帯・ひとり親と子どもから成る世帯)」を足し合わせた世帯の割合は84.9%。

残る「その他の世帯」は15.1%だ。この「その他の世帯」に含まれるのが、三世代世帯ということになる。仮に15.1%のすべてが三世代世帯だと考えた場合、どうなるか。前出の「65歳以上の世帯員がいる世帯は40.7%」のデータを前提にすると、全世帯のうちの6.15%にすぎない。ちなみに河北新報の2021年12月8日電子版によると、山形県の三世代世帯率が13.9%で全国1位だったのだという。これらの数字を見れば、全国的には三世代世帯など圧倒的少数派、と結論付けるのが妥当ではないか。

■里帰り出産、帰省すらもはばかられる社会

「子どもや若者が高齢者にうつす」という設定が政治家や専門家から繰り返し語られたことにより、「帰省禁止」「高齢者施設での面会禁止」「死亡直前の看取り禁止」といった方針が常識のように扱われることになってしまった。彼らが設定したこれらの方針は、2年経ってもおおむね変わらないまま用いられ続けている。

同様に「マスクは感染防止に効果がある」という設定も変わることなく存続中だ。おかげで、マスク生活が延々と続いている。「99%超がマスクを着けていても、陽性者は爆増しました。この事実について、合理的な説明をお願いします」とマスクの有効性について尋ねても、マスク真理教の信者からは「皆がマスクを着けていなければ、もっと被害はひどかった!」とか、「マスクを外したときに感染してしまったのだ!」など、論拠不明、検証不能の反応が返ってくるばかり。「高齢者施設でもクラスターが発生しました。面会者はいないはずですよね?」と問うても「若い看護師が施設内に持ち込んだ!」と、これまた検証不能な反論が返ってくる。

地方で暮らす人々が、都会に住む家族に対して「お前は葬式に来るな」「法事には出なくていい」などと忌避する事態も頻発した。また、コロナ騒動の初期にあたる2020年4月の出来事ではあるが、首都圏から岩手県へ出産のため里帰りしていた妊婦がコロナ陽性を恐れられ、産婦人科をたらいまわしにされる事案も発生。受診を断った2つの病院の方針は「2週間県内に過ごしたうえで、発熱などの症状がないこと」が受け入れ条件だったという。件の妊婦は里帰りしてから4日目だったため、病院は断ったそうだ。

現在では多少意識が変わってきたかもしれないが、いまだ高齢者を中心にして、大都市圏から地方にやってくる人を好ましく思わない向きはあると聞く。先の妊婦の一件にしても、いくら2年前の出来事とはいえ、里帰り出産を躊躇するには十分すぎる理由となるだろう。それどころか、帰省という習慣すらはばかられるようになってしまうかもしれない。

■巨大な票田である高齢者を優遇し続ける政治家

さらにいうと、他人を感染源扱いして恐怖し、接触を極力回避する人も以前より増えたに違いない。男女が出会う機会も減ったことだろう。

また、性行為を通じてコロナ感染することへの恐怖であるとか、コロナ対応で不自由が付きまとう出産の煩わしさなどから、性行為の機会が減少したり、「子どもをつくろう」と考えるカップルが少なくなったりする可能性も否定できない。これでは、日本の人口減少も加速するばかりだ。まさに国家衰退への道を着々と進んでいるのである。なんというアホ政治であろうか(皮肉やホメ殺しでも述べようと思ったが、もはやそのレベルではないので「アホ」とストレートに書いた)。

基本的に、政治家は巨大な票田である高齢者を優遇する政策を掲げる。コロナ対応も同様で、「人命優先」「高齢者を守れ」を錦の御旗に政策を推し進めてきた。そこで割を食ったのが子どもや若者である。

マスクをして窓の外を見ている女の子
写真=iStock.com/Hakase_
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Hakase_

老い先短い高齢者と比べて、子どもや若者は時間あたりの価値が高い存在だ。同じ1年間でも、高齢者と若者では、そこで得られる経験や学びに大きな差がある。考えてみてほしい。小学4年の子どもや高校3年の若者がまともに学校にも通えず、行動を制限され、友人とロクに触れあうこともできない状況を。

その一方、すでに青春を謳歌して社会人としての務めも終えた老人たちは、日がな一日テレビを見たり、店でカラオケに興じたりしている。コロナ騒動の期間、高齢者を優遇したばかりに子どもや若者が被った不利益は計り知れない。私はたとえ「差別主義者!」と罵られようと、老人より優先されるべきは子どもや若者だと主張し続ける。なお「リモート授業(リモートワーク)、ぜんぜんラクだったっすよ。オレはずっとこの生活が続いてほしいっす」なんていう若い連中のことは、ここでは無視する。貴殿らは社会が元に戻っても、その勉強のやり方/働き方が続けられるよう教師や上司に要求すればいい。

■不自然な常識を押し付けられる子どもたち

人間はおおよそ4歳から記憶があるとされているが、現在の6歳児はその記憶のほぼすべてにおいて、他人の相貌が顔の下半分を隠した不自然な姿で残っていることだろう。身内以外の人間については、マスクを着けた姿しか見ていないのだから。子ども向け番組を見ても、芸能人の出演者は素顔ながら、一般人の出演者はマスクをしている。食レポを見ても、食べ物をクチに運ぶときだけマスクを外し、入れた途端にマスクを再び着用している。そんな映像を子どもたちは見続けているのだ。

日本医科大学特任教授の北村義浩氏は「マスクはパンツ」とテレビ番組で言い放った。正直、噴飯モノの表現だが、6歳~8歳の子どもたちにとっては記憶している期間の大半がマスクを着けた人々に囲まれる生活だったため、北村氏のこの指摘は、彼らにとっては常識になっているかもしれない。大人が「マスクを取っても構わない」と言っても、「外では恥ずかしいよ~」などと返す子どももいる、との報告もある。

現在の大人が子どもの頃に培った「常識」はもはや、感染症対策とやらが記憶のなかで当たり前となった小さな子どもたちにとっては「非常識」となっているのかもしれない。専門家、政治家、メディア、そしてそれらを盲信するor他人の目が気になる親と教師が「いまは我慢」「コロナが明けてから」「他の人にうつしたら大変なことになるからね」などと教育しまくった結果、子どもが享受できる当たり前の経験すら阻害されてしまっている。

マスクをした男の子
写真=iStock.com/Kayoko Hayashi
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Kayoko Hayashi

■「コロナが終わったら何がしたい?」に対する小学生の回答

神戸市議の上畠寛弘氏は2022年3月8日のツイートで、小学校1年生~6年生に「コロナが終わったら何がしたい」と尋ねたアンケート結果を公表した。1位は全学年が「旅行」。2位は1・2・4年生が「マスクを外す」、3年生が「祖父母の家に行く」、5・6年が「友達と遊ぶ」。3位は1・2年生が「祖父母の家に行く」で、3・6年生が「マスクを外す」。4年生が「友達と遊ぶ」、5年生が「運動会」だった。

この結果を見て、私はいまの小学生たちが不憫でたまらなくなった。これらの行為は大人たちが小学生の時分、普通の行為としてやっていたことばかりである。「高齢者を守る」という大義名分のため、新型コロナに罹患してもほぼ重症化せず、死者はこれまで2人(うち1人は基礎疾患あり)しかいない10歳以下の子どもから「当たり前」や「普通」を奪ったのだ。

学校での感染対策も、並べてみるとバカみたいなものばかりである。「組まない組体操」「運動会のリレーは2メートルのバトン使用」「運動会はマスク着用」「学校の各テーブルには覆いをつける」「吹かないで音符どおりに指だけを動かす縦笛」「ビニールカーテンのなかに入って合唱」「プールでもマスク着用」「皆で映像を見るだけの『リモート修学旅行』」「入学式・卒業式は中止」「卒業式の参列は生徒1名につき保護者1名まで、在校生の参加は不可」「授業参観は廊下に台を置き、保護者はそれに乗って天井近くの窓から教室のなかを見る」「卒業式参加の条件はPCR検査陰性」「給食は『黙食』」「マスクを外している時間が15分以上になると濃厚接触者認定をされるので、給食の時間は14分」……。もはや、どこからツッコめばいいのかわからない。

■子どものころの学びや経験がいかに貴重か

現在、私は48歳。4歳あたりから44年間分の記憶がある。そのうちコロナ騒動は2年間のため、人生の4.5%にすぎない。ならば12歳ならどうか。25%である。7歳ならば67%。83歳ならばほんの2.5%だ。

人間の知能や知識、経験は若ければ若いほど高められ、深く吸収されるものである。また、私のような中高年よりも子どものほうが、未知の経験に触れた際には「うわー、楽しい!」や「こんな世界があったんだ!」と純粋に感動し、想像を広げられるといった感受性の高さも備えている。

最近、私は釣りを愛好しているが、初めてハゼを釣った小学3年生のとき、竿先から伝わる「ブルブル」というアタリに痛く感動したことが忘れられない。その記憶を原動力にして、再び釣りをするようになったともいえる。

遊園地、映画館、観劇、各種学校行事、帰省、墓参り、友達の家でゲーム、公民館での子ども会、虫捕り……ありとあらゆることが制限なく楽しめた。親から言われていたのは、せいぜい「6時までに帰って来なさいよ」や「私有地で遊んではダメよ」、「クルマに気をつけてね」といった程度のことだ。

■「日本の明るい未来」が想像できない

大人たちからあらゆることを制限され、我慢することが当たり前の時代に幼少期を過ごした子どもたちは、大人になったとき、どんな社会をつくっていくのだろうか。2019年以前よりもさらに同調圧力が強化され、出る杭は打たれまくる、つまらない社会になるかもしれない。おかしいと思っていることさえ「おかしい」と言えないような、抑圧感の強い社会になっても、あなたは構わないのだろうか?

私はこの1年半以上、「お前は殺人鬼だ」などとさんざん誹られながら、過剰なコロナ対策への違和感であるとか、それを唯々諾々と受け入れる世間の不気味さに対して異議を呈すべく、この手の文章を書いてきた。まぁ、常に劣勢だった。

ただ、少数派ながらも私のような考えを持つ人々は存在し、ツイッターで負け犬の遠吠えを続けてきた。が、いまの子どもたちはそうしたことさえできなくなるかもしれない。ひとたび「これはヤバい!」と社会的なコンセンサスが形成されてしまったら、何もできなくなる──そんな殺伐とした現実を、コロナ騒動を通じて私たちは目の当たりにしてきたのだから。

となれば「倒産したり、株主に迷惑をかけたりするのが怖いし、責められたくない」と、今後は起業などもおちおちできなくなるだろう。企業においても、リスクがある一方で大きな利益をもたらすかもしれない新規事業に挑戦したり、従来の常識を覆す意欲的な企画を提案したりする人材がいなくなってしまうのではなかろうか。

こうしたマインドが定着すれば、今後の日本は海外の金持ちに対して、安くて従順でそこそこレベルの高い人材を供給するだけの国になっていくのかもしれない。とはいえ、日本は先進国のなかでも有数の「英語ができない国」のため、海外に出るとしても第一次産業の担い手や、現在は東南アジアの人々などが数多く担っている外国籍タンカーの乗組員の仕事あたりが現実的なところだろう。「そんな未来図は悲観的すぎる」と思われるかもしれないが、決して絵空事ではない。空前の円安が起きて日本の不動産が海外資本に買われまくり、そこにリゾート地ができて、関連施設のベルボーイや掃除人に日本人が就く。そんな将来すら私は想定している。

■人間関係を通じて得られる学び

続いて、現代の大学生についても考えてみたい。私の甥2人は都内の私大に在籍しており、この4月で3年生と2年生になる。どちらもかなりの巨大校だが、大学の友人は少ないと語り、サークルはやめてリモートワークとバイトの日々だそうだ。「なぜ、バイトは対面でできるのに、大学の授業はリモートなのか?」という矛盾や、「小中高校は対面式授業が徐々に再開しているのに、どうして大学はいまだにリモート中心なのか?」という違和感もさることながら、それ以上に「なんてもったいない」と感じる点がある。それは「人間関係を通じて得られる学び」の損失だ。

結局、大学という場は「将来につながる人間関係をいかにつくることができるか」が重要なのだ。それは気の置けない親友であり、頼れる先輩や後輩であり、未来の配偶者である。将来、ひょんなことから同窓生と一緒に仕事をすることだってある。マンモス大学はさておき、小規模の大学出身者どうしであれば、年代は違ったとしても、それだけで社会人になってから仲良くなったりもする。

学校の施設などを利用して実験や研究を積み重ねる必要がある理系学部を除き、文系学部に通うことの最大のメリットは、学業よりも人間関係の幅を広げられることにあると、私は考えている。でも、政権が仮に「このままあと2年、現状のコロナ対策を継続する」といった判断を下した場合、2020年入学組は4年間の大学生活が「リモート」で終始することになり、単にその大学の卒業資格を得るだけの結果になるだろう。

ソーシャルディスタンスを守って図書館で勉強する学生
写真=iStock.com/Edwin Tan
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Edwin Tan

■大学は自分の特徴や好き嫌いを肌で感じ取るための場

私は別に「学生時代の友人は社会人になってからの友人よりも尊い」と言いたいわけではない。正直、本当に気が合う割合でいえば、大学時代の友人・知人よりも、仕事を通じて出会った人々のほうが圧倒的に多い。もっとも、それは私の通った一橋大学が非常に生真面目な校風だったことも影響しているかもしれないが。卒業後の進路は金融・商社・公務員・メーカー・会計士・弁護士・インフラ系・コンサルといった学生が大半であり、「学校でバカなことをする」といった雰囲気ではなかったのだ。

そうした空気感のなかで「つまらんヤツが多いな」と思いながら、「オレって実は面白いんじゃないか」という根拠のない相対評価に基づいて自信を抱き、「面白い人がいそうだ」という偏見をベースに広告・メディア業界を目指して、いまに至っている。そう、大学は人間関係を通じて他の学生と自己を比較し、自分の強みや特徴を知ることができる場所なのだ。高校までは教師の教えに従って、卒業後の進路を考えたり、進学校であれば受験勉強に集中したりする姿勢がまず求められる。一方、大学は自由に使える時間を自分なりにやり繰りしながら、おのれの特徴や強み、好き嫌いを肌で感じ取っていく場所なのである。とくに文系の場合、大学院に行かないのであれば、勉強はそれほど重要ではない。

■「自由」を享受できない若者たちの不幸

一般的な大学生は入学を機に、それまでの自分史上、最大の自由を手に入れることになる。その時間が貴重なのだ。それなのに、いまの大学生は自由を政治家や文科省、大学当局から取り上げられ、メディアからは「アーッ! 学生風の若い男性が路上飲みをしています! マスクもしていません!」と揚げ足取りをするように報じられてしまった。ささやかな自由を求めても、SNSに跋扈(ばっこ)する「自粛警察」「マスク警察」の連中から極悪人扱いされ、取り締まり対象のように吊し上げられる。なんと息苦しい大学生活だろうか。

「それでも自分は快適に過ごしていますよ」「他人と関わるのが嫌いなコミュ障なので、リモート万歳ですわ」という学生もいるのかもしれないが、自分がいま大学生だったら、きっと退学するだろう。「大学に在籍しても意味はない」と悟り、とりあえず資格も不要で、一発当てたらデカいライターや編集者をさっさと目指す。あるいは、小さなベンチャー企業に入って下働きをし、若いうちから人生のつらさを味わう。

■潮目は変わりつつある。声を上げるなら、いまだ

コロナ騒動が始まってから、いわゆる「反自粛派」と呼ばれる人々はずーーーーっと、過度な自粛に関して異議を唱えてきた。このまま無用な自粛を継続すると、子どもや若者に甚大な損害を与えてしまうとツイッターなどで訴え続けてきた。でも、なかなか人々に理解してもらえなかった。

しかしながら、最近は潮目が変わってきたように感じている。Yahoo!ニュースのコメント欄などを見ても、世論は次第にこちら側に傾いてきたと思う。

まさに「時はいま」である。これまでの2年間、子どもや若者に対して、社会も政治もメディアもあまりに酷な要求を突き付けてきたのだ。その異常性に気づき、「コロナ脳」から脱することができた大人は「おかしい」「もうやめよう」と声を上げなければならない。もちろん、当事者である子どもや若者もぜひ声を上げてほしい。自分の率直な思いをツイッターなどのSNSにつづり、反自粛界隈の人物にメンションをつけて送るだけで、少しは流れが変わるかもしれない。

結局、世間の空気を読みつつ、票田に媚びることしか考えない現政権は、不利益を被っている側が怒りを見せない限り、このままの高齢者重視・若者軽視の政治をやり続けることだろう。もうウンザリだ。

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【まとめ】今回の「俺がもっとも言いたいこと」
・コロナ対応で高齢者ばかりを優遇してきた日本において、最大の不利益を被ったのは子ども、そして若者である。
・子どもや若者から貴重な時間を奪った大人たちは、その責任にきちんと向き合わなければならない。
・世間の空気に変化が起き始めている。日本のコロナ対応に感じる不信感や違和感、怒りを表明する好機が訪れたのではないか。

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中川 淳一郎(なかがわ・じゅんいちろう)
ライター
1973年東京都生まれ。1997年一橋大学商学部卒業後、博報堂入社。博報堂ではCC局(現PR戦略局)に配属され、企業のPR業務に携わる。2001年に退社後、雑誌ライターや『TVブロス』編集者などを経て、2006年よりさまざまなネットニュース媒体で編集業務に従事。並行してPRプランナーとしても活躍。2020年8月31日に「セミリタイア」を宣言し、ネットニュース編集およびPRプランニングの第一線から退く。以来、著述を中心にマイペースで活動中。著書に『ウェブはバカと暇人のもの』『ネットは基本、クソメディア』『電通と博報堂は何をしているのか』『恥ずかしい人たち』など多数。

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(ライター 中川 淳一郎)

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