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「国民から批難される行動はしない」そんな昭和天皇が皇太子さまの進路として望まれていた大学名

プレジデントオンライン / 2022年3月21日 12時15分

お茶の水女子大附属中の卒業式に臨まれる秋篠宮ご夫妻と長男悠仁さま=2022年3月17日午前、東京都文京区[代表撮影] - 写真=時事通信フォト

今春、秋篠宮家の長男悠仁さまが筑波大附属高校に入学する。コラムニストの矢部万紀子さんは「昭和天皇は国民が皇室に不満を持つことに敏感だったが、上皇さまの進学先については『東大か学習院』とシンプルな考えだった。今回、悠仁さまの進路が話題となった背景には、国民側の大きな変化がある」という――。

■悠仁さまの筑附高進学はなぜ批判されたのか

現在2巻まで出ている『昭和天皇拝謁記1』(岩波書店)は、初代宮内庁長官・田島道治氏が昭和天皇に会うたびにとった克明なメモだ。昭和天皇の肉声が、皇室の過去と今をつないでくれる。

例えば2022年2月、秋篠宮家の長男悠仁さまが筑波大附属高校に合格、批判を招いた。皇族の進学先はどこがよいか。それを考えるテキストになる。

筑附進学への批判は主に二つ。①「提携校進学制度」での合格→公正な競争でないのではないか、②学習院以外の高校に進んだ戦後初の皇族→「帝王教育」はそれでいいのか。加えて最近は、「悠仁さまの東大進学が紀子さまの悲願」といった報道が目立つ。子が東大を目指し、母がそれを願ってはいけないのかと個人的には思うが、そうでない考えの人が大勢いることも承知している。

そこで『昭和天皇拝謁記1』。1950(昭和25)年9月1日の一節を紹介する。

<東宮ちやんは留学は兎に角、私は洋行は必要だと思ふ。私もいつて見聞を広め有益だつたと思ふ故、あゝいふ風に米英等にゆくといふことでいゝと思ふ。大学は南原総長の間は東大はいやだから、学習院の方がよいと思ふ。南原がやめた後なら東大でもよいが……云々仰せあり>

■上皇さまの進学先は「東大でもいいが、今なら学習院」

「東宮ちやん」とは当時の皇太子さまで現在の上皇さま。その進学先について、「東大でもいいが、今なら学習院」と昭和天皇は言っている。ここまでの流れから、昭和天皇は皇太子さまの大学にはあまり興味がなく、洋行を強く望んでいることはわかっている。宮内庁も同様だ。同じ日の記述にこうある。

<東宮様御成年後は御洋行と大体決めて、御教育のことを進め来りましたが、MCの意見がViningに申した通りとしますれば、東大とか学習院大学とか或は御学問所とは申しませぬが、何かそのいふことが、大に今日より調査研究すべきかと存じます>

MCとはマッカーサー連合国軍最高司令官、Viningとは皇太子の英語家庭教師エリザベス・ヴァイニング。この米国人2人はよく会っていて、6月26日には<Viningが過日MC訪問の節、一寸東宮様go abroadの事を申せし処、非常に反対のやうにきいて居ります>という記述がある。

18歳という皇室典範が定めた皇太子さま成年後の進路は洋行と考えていたが、マッカーサーが反対している。それなら皇太子さまが16歳の今のうちに、進学へ舵を切る必要がある。それを天皇に告げたという経緯だったろう。進学先は、「東大とか学習院大学とか」。悠仁さまの筑附進学をめぐる大騒ぎを思うと、拍子抜けのような気分になる。

■皇太子たるにふさわしい学校の第一候補とは

皇太子さまの学力が東大合格に足るか、どう受験させるか。そういう視点がまるでない会話なのだ。「皇太子なら東大でしょ」。そんな気楽さというか、当たり前な空気が漂っている。

昭和天皇も、息子のことより東大の南原繁総長が嫌いという主張をする。貴族院議員でもあり、戦後「天皇退位論」を説いた人だったからだろうが、それにしてもそっち?失礼ながら、そうツッコミたくなる。

偏差値が今のように幅を利かせていたわけではない。そういうこともあったろう。が、シンプルだったのだと思う。皇太子たるにふさわしい学校に行く。第一候補は日本の最高学府の中でも東大。この考えが皇室全体のものだったことは田島氏と秩父宮さま(昭和天皇の一つ下の弟)とのやりとりの記述(同年1月5日)からもわかる。

田島氏は秩父宮さまに、皇太子さまの外遊方針を説明した。「日本の大学入学前に3カ月くらい渡米」と話したところ、秩父宮さまがこう反応したという。

<東大といふことになれば随分共産党員の学生なども居るしどうかと思ふと仰せにて、さもなければ学習院大学でございますがと申し>

東大・安田講堂(2014年11月27日)
写真=iStock.com/YMZK-photo
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/YMZK-photo

■「日本の将来は、あなたがどう大人になるかで決まる」

さらりと書かれた「東大→学習院」。その理由は、当時の皇太子さまの立場に大いに関係している。『昭和天皇拝謁記1』の冒頭近く、田島氏が皇太子さまと会った1949年2月28日のメモにこうある。

<日本の将来は、皇太子様の如何に御成人にかゝるかの重大事なること、田島職責中の最大の一たること(略)国民との接触上友人は最良の師にて、切磋琢磨御必要のこと等言上す>

日本の将来は、あなたがどう大人になるかで決まる。15歳の皇太子さまにそう言っている。占領下、天皇の退位も現実味があった。だから皇太子さまには、「天皇としての自覚」を早く身につけてもらいたい。洋行がダメなら国内、国内ならまず東大。戦後という環境が、その道をシンプルにしていた。秩父宮さまも東大が前提で、「共産党員の学生がいる」と懸念を示している。

田島氏は、<東宮様は上、中、下とわけて上の部に御入りになり、馬、テニス何でもなさいます>(1950年7月5日)と昭和天皇に語ってもいる。1885(明治18)年に生まれ、府立一中、一高を経て東京帝大卒の田島氏。「上の部」という表現は学力十分ということだろうから、東大進学の議論に無理もなかったのだろう。で、どうなったか。

■昭和天皇も上皇様も「洋行=帝王教育」を経験

1950年10月からは『昭和天皇拝謁記2』に移る。皇太子成年が近づき、新憲法下で初の立太子礼、成年式が話題の中心になる。1951年5月に貞明皇后が急逝し、儀式は延期され、進学については10月22日にこう記される。

<実は東宮様高等科来年御卒業に付、其後参与等と相談の結果、学習院大学部へ御進学願ふ事に決定、御許しを願ふ為、小泉及野村大夫奏上の筈でありまする>

最終的に東大でなく学習院になった経緯などは拝謁記には書かれていない。南原氏が1951年12月まで東大総長を務めたので、それが大きかったのかもしれない。だが、この日の記述には天皇の反応は何もない。

昭和天皇にはこんな大学観もあった。1949年12月9日、内親王の結婚相手に関連して田島氏が「学歴」を語ったところ、学歴と人物は関係ないという考えを、生物という自身の研究分野の具体的人物を念頭に語っている。

<大学を出てもいゝといへぬ人物もあるし大学を出ぬもいゝ人物もある。(略)名和昆虫所の名和も小学校だけかと思ふ。要は学校ではないとの仰せ故、陛下の御言葉は御尤も故、拝承す>

昭和天皇は1921年から6カ月、ヨーロッパ各地を訪問している。その体験から「洋行=帝王教育」と思っていた。皇太子さまは1952年4月、学習院大学政経学部に進み、11月に立太子礼と成年式、洋行は1953年3月から10月まで。ヨーロッパ各国とアメリカ、カナダを訪問した。

■「国民に批難される余地のある事は控えてほしい」

ところで『昭和天皇拝謁記』で「洋行」と同じくらい話題になっているのが、「軽井沢」だ。皇太子さまは毎夏を軽井沢で過ごし、そこがすごく好きだった。

<東宮ちやんの軽井沢は矢張り余程気に入つたらしく、昨日も珍しい事だが軽井沢の話をあとからあとから話してた。義宮さんはそういふ事をするが、東宮ちやんとしては珍しい。馬とテニスと丈けなら那須でもと私がいつたが、どうも軽井沢の空気全体が余程気に入つたらしい>

1950年9月4日の記述だ。義宮さん(現在の常陸宮さま)に比べ、東宮ちやんはあまり話してくれない。そういう悩みを何度か田島氏に語っているから、皇太子さまの軽井沢話がとてもうれしかったに違いない。が、同時にこんな心配もしている。

<東宮ちやんの軽井沢、乗鞍等、宿屋など独占して皆が困るといふ事はないか。私の杞憂にすぎないならばよいが、若しそうでないならば、私は、教育上の見地からよろしい事でも、今のやうな点に批難の余地ある事は少し控へて貰いたいと思ふとの仰せ>(1950年8月10日)

この夏、皇太子さまは乗鞍岳に登り、山小屋に1泊している。そのために国民が「泊まれない」といった事態を招くならば、それが皇太子教育のためになっても控えたほうがいい。そういう考えを昭和天皇が伝えた。田島氏は、軽井沢には皇太子さまが宿泊したプリンスホテル以外にも宿が多いので心配はない、山小屋は少ないので調べると答えた。そして同日、こうも記す。

■戦後は皇室の衣食住に注意が払われていた

<今後は教育上の点より望ましき事も、それらの点で不満を世に与へる事は差控える事も考えますと申上ぐ>

不満を世に与へる――これこそが、今と『昭和天皇拝謁記』をつなぐキーワードだろう。象徴天皇制にあって、「世=国民」の不満は絶対に避けねばならないものだ。

満足に食べられない国民がいた『拝謁記』の頃、第一に注意すべきは衣食住に関するものだという理解だったろう。だから昭和天皇は、自分自身の御用邸利用にもセンシティブだった。<葉山に居ればどうしても採集に出るがそれはどうだとの仰せ故、(略)安心感を国民にむしろ与へるので御よろしいと存じます、と申上ぐ>(1950年7月27日)。昭和天皇は特に相模湾の生物を専門にしていた。衣食住足りてこその趣味だとわかっているから、こういう発言になる。

2014年の一般参賀
写真=iStock.com/brize99
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/brize99

一方で、皇太子さまが受ける教育は「不満を世に与へる事」にはならなかった。というよりは、国民の興味の対象でなかったのではないだろうか。だから国民の反応を気にすることなく、将来の天皇への教育がどうあるべきかだけを考えられた。

昭和から平成を経て、令和になり、悠仁さまの筑附進学は「世」に不満を与えた。「世」が変わり、そこに生きる「国民」が変わった。国民の質が均一でなくなったことが大きいと思う。国民がみんな貧しかった頃の皇室と、国民が格差社会を生きる時代の皇室。

■悠仁さまには受けたい大学を受けてほしいが…

悠仁さまの筑附進学は、公正な競争でないと批判された。となると、3年後、大学受験でも同様に「公正な競争」の議論が起こるだろうか。個人的には、受けたい大学を受ければよいと思う。それに「将来の天皇」が「国民」と公正に競争すべきと考えるなら、皇室とは何か、天皇とは何かを考えなくてはならないと思う。国民と全く対等な皇室、とは何か形容矛盾のようにも思えるのだ。

だが、今の空気はそういう議論より、「究極の親ガチャ」という言葉が力を持つ。皇室の歩む道が、格段に狭くなっている。

最後に『昭和天皇拝謁記』に戻る。皇太子さまの洋行についての記述をたどっていって驚くのは、「洋行は皇太子妃を決めてから」という前提があることだ。昭和天皇も田島氏も、皇太子さまが15歳の時からそういう話をしている。皇太子さま17歳の1951年7月29日、新聞2紙が「皇太子の結婚準備」について報道したのが皇太子妃報道の始まりで、田島氏は天皇に「単なる漠たる想像のやうな記事」と説明している(8月3日)。

皇太子さまは東大に行ってもいいし、結婚もしようと思えばすぐできる。天皇も宮内庁長官もそういう認識に立ち、そこに国民との齟齬(そご)もない。『昭和天皇拝謁記』はそういう世界を描いている。遠い遠い、夢のような時代だったと思う。

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矢部 万紀子(やべ・まきこ)
コラムニスト
1961年生まれ。83年、朝日新聞社に入社。宇都宮支局、学芸部を経て、週刊誌「アエラ」の創刊メンバーに。その後、経済部、「週刊朝日」などで記者をし、「週刊朝日」副編集長、「アエラ」編集長代理、書籍編集部長などをつとめる。「週刊朝日」時代に担当したコラムが松本人志著『遺書』『松本』となり、ミリオンセラーになる。2011年4月、いきいき株式会社(現「株式会社ハルメク」)に入社、同年6月から2017年7月まで、50代からの女性のための月刊生活情報誌「いきいき」(現「ハルメク」)編集長。著書に『笑顔の雅子さま 生きづらさを超えて』『美智子さまという奇跡』『朝ドラには働く女子の本音が詰まってる』がある。

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(コラムニスト 矢部 万紀子)

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