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黄金に輝く聖堂、祈りをささげる人々…私が見たウクライナの首都キエフは「世で最も美しい街」だった

プレジデントオンライン / 2022年3月19日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/komyvgory

ロシア軍の攻撃にさらされているウクライナの首都・キエフとは、本来どんな街なのか。2006年にキエフとオデッサを訪れた作家の畑中章宏さんは「世界遺産に選ばれた聖堂群を擁するなど、世界で最も美しく、魅力的な街だった」という――。

■キエフとオデッサで見た美しい光景

2月24日に始まったロシアのウクライナへの侵攻は、すでに多くの犠牲者を出しているが、収束する気配が見えない。いま世界中から同情と共感を寄せられているウクライナという国は、日本人にとって、決してなじみ深い国とは言えず、その歴史と文化を知る機会も少なかったのではないだろうか。

ウクライナと聞いて、真っ先に思い浮かぶのは、1986年4月に事故を起こした、チェルノブイリ原子力発電所があるということだと思われるが、若い世代にはこうした現代史すら共有されていないかもしれない。

そんなウクライナを、私は今から15年前、2006年の秋に一週間ほど旅したことがある。訪問先はキエフとオデッサで、仕事ではなく、純粋に観光目的だった。

当時の私は、毎年ヨーロッパ旅行し、さまざまな街を歩いたが、そうしたなかでもキエフは最も美しく、魅力的な街だった。

あの国、あの街、そこに暮らす人々が危機に瀕しているいま、私が見たウクライナの美しい姿を思い出してみることにしたい。

■なぜウクライナを訪ねたのか

当時の私は、東方教会、正教会が生み出した建築や美術(ビザンチン文化)に興味を持ち、ウクライナを訪問する1、2年前には、ビザンチン(東ローマ帝国)第2の都市、ギリシャのテッサロニキを訪ねたりしていた。そうした興味から、ロシア正教の文化を見たいと思い、「黄金の環」と呼ばれる地方に、ロシア・ビザンチン建築を観に行くことを思い立った。

しかし、ロシアを旅行するには、観光ビザのほかに、バウチャー(外国人観光客引受書)も必要で、取得等の煩雑さから断念しかけていた。

そこでロシアの隣国ウクライナに目を向けてみると、2014年に起こった“オレンジ革命”後のユシチェンコ政権下に、ビザがなくても観光客を受け入れるようになっていたのである。

航空券の取得、ホテルの予約などは旅行案内書に記されていた、政府公認の観光代理店(とは言っても、東京のどこかのビルに事務所を置き、少人数で電話対応している雰囲気だったが)に依頼し、成田とキエフ、キエフとオデッサの往復航空券、キエフとオデッサのホテル、また“白タク”にだまされないようにと、空港から中心部までのタクシーも勧められたので手配してもらった。

こうしてキエフで私が泊まったホテルは、街の中心と言ってもよい独立広場を見下ろす「ウクライナホテル」だった。このホテルでは、朝食時間の食堂で何組かの日本人を見かけたが、ビジネスマンらしき雰囲気で、観光目的の一人旅と思われるのは私だけだった。この後、数日間、キエフとオデッサでも、日本人観光客とすれ違うことはほとんどなかった。

夜の独立広場
筆者撮影
キエフの独立広場(マイダン広場)。夜には大勢の人が集まっていた - 筆者撮影

なおロシア侵攻後も、定点観測カメラ(おそらくウクライナホテルからだろう)で映し出されることが多い独立広場(マイダン広場)は、19世紀にはフレシチャーティク広場、その後、ソビエト広場、十月革命広場など何度も名を変え、1991年のソ連から独立以来、現在の名称になっている。キエフの目抜き通りのほか、小さな通りも交差するこの広場は2014年の騒乱の際、政府軍と反権力側が衝突し、焦土と化したことがあった。

■11世紀初頭に創建された世界遺産「聖ソフィア大聖堂」

この数日間、ロシアによるキエフ侵攻が目前という状況下にあるが、キエフが世界遺産を擁する街であることは報道されているだろうか。私の場合、キエフをめざしたいちばん目的は、「聖ソフィア大聖堂と関連する修道院群及びキエフ・ペチェールシク大修道院」をはじめとする宗教遺産を訪ねることだった。

事前に、ウクライナの歴史に関する本を何冊か手に取ったが、そのなかで最も印象的だったのは、「キエフ公国」が10世紀に正教を選んだ理由である。キエフ公国の大公ウラジーミル1世は、国教を定めるため、家臣たちに周辺国の信仰の実状を探らせたという。

ソフィア聖堂
筆者撮影
ソフィア大聖堂。 - 筆者撮影

そのなかで、正教を奉じる東ローマ帝国の様子を見てきたものは、「私たちは天上にいたのか地上にいたのかわかりませんでした。地上にはこのような光景も美しさもなく、また物語ることもできないからです……」と、正教の儀式の素晴らしさを讃えた。そこでウラジーミルは、正教を国教として導入することに決めたというのである。

独立広場の北西に建つ「聖ソフィア大聖堂」は、11世紀初頭に創建された「キエフ・ルーシ」(ウクライナ地域の古名)最大の聖堂だ。

ソフィア聖堂
筆者撮影
ソフィア聖堂 - 筆者撮影

ビザンチン様式のギリシア十字式聖堂で、17世紀末~18世紀初頭にかけて改修が行われ、ウクライナ・バロック様式の鐘楼が建てられた。1932年ソ連によって閉鎖され、無神論博物館となり、1941年ドイツ政権下で教会に戻された。

その20年後に再びソ連によって閉鎖されて博物館になっていたが、ウクライナの独立後、ウクライナ独立正教会の奉神礼に使用されるようになった。大聖堂には、モンゴル軍の侵攻の際にも破壊されずに残った「不滅の壁のマリア」の異名を持つ生神女のモザイク画をはじめ、美しい宗教画が残されている。

ソフィア聖堂内部
筆者撮影
ソフィア聖堂内部。美しい宗教画が残されていた - 筆者撮影

■中世を感じる黄金のドーム

ペチェルーシク大修道院(ペチェルスカヤ)大修道院は独立広場の南東、ドニエプル川の近くに位置する。

11世紀の半ば、正教会の聖地アトスからきた修道士がドニエプル川沿いの洞窟で修行したのが起源で、『過ぎし歳月の物語』をはじめとする年代記の編纂や聖書の翻訳などが行われた。当初の建物はモンゴルの侵攻によって大きく損壊し、現在残るウクライナ・バロック様式の建築群は、ピョートル1世の時代に再建されたものである。18世紀初頭に大改修が行われ、ウクライナ・バロック様式に塗り替えられている。

ペチェールシク大修道院
筆者撮影
ペチェールシク大修道院 - 筆者撮影

修道院の敷地は広大で、ウスペンスキー聖堂、トロイツカヤ聖堂などの建築群や博物館などからなる「上の修道院」、修道院の起源となった地下墓地などからなる「下の修道院」をじっくり見ると一日がかりになる。

ペチェールシク大修道院
筆者撮影
ペチェールシク大修道院の内部 - 筆者撮影

世界遺産に含まれてはいないが、聖ミハイル黄金ドーム修道院は、夜間のライトアップも美しく、観光スポットのひとつになっている。

12世紀に建立されたこの修道院の大聖堂は、青と白を基調とした壁面に黄金のドームという、ウクライナ・バロック様式が美しい。中世キエフにおける最も大きな教会のひとつだったが、モンゴル軍やタタール軍による侵略で、大きな被害を受けた。

その後ウクライナ正教会の修道院として修復されたが、ロシア革命後に修道院は廃止され、1934年から36年にかけては旧ソ連の手で大聖堂や鐘楼が破壊される。1991年のウクライナ独立以降に復元工事が行われ、修道院としての機能も回復、一般公開されている。

聖ミハイル黄金ドーム修道院
筆者撮影
聖ミハイル黄金ドーム修道院 - 筆者撮影

■アールヌーボー風の絢爛たるフレスコ画

キエフの中心部を見下ろす丘の上に、青緑色のタマネギ型の屋根が目立つ聖アンドレイ教会がある。18世紀の半ばに、ロシアの女帝・エリザヴェータがキエフの街を訪れたことを記念して建立された。設計はサンクトペテルブルクの冬の宮殿(現エルミタージュ美術館)の設計でも知られる、イタリアの建築家ラストレッリ。外装はロシア・バロック様式だが、内装は優美なロココ様式で飾られ、ウクライナのなかにヨーロッパ文化を見る趣がする。

アンドレイ教会にいたるアンドレイ坂には土産物店が何軒も立ち、オープンテラスのあるレストランが並ぶなど、観光スポットらしいたたずまいがある。

聖アンドレイ教会
筆者撮影
聖アンドレイ教会 - 筆者撮影

アンドレイ教会が位置する高台の麓には、キエフの下町、ボディール地区がある。この地区には観光スポットがないため、かえって昔ながらのキエフの街の雰囲気を色濃くとどめている。世界遺産の建築群とは違った、地味な外観の教会をいくつか見て歩いたが、どこでも荘厳な堂内で、熱心に祈る人々の姿がいた。

ボディール地区
筆者撮影
ボディール地区。昔ながらのキエフの街の雰囲気を色濃くとどめている - 筆者撮影

19世紀後半に国民の寄付によって建立されたウラジーミル聖堂は、ウクライナ語では「聖ヴォロディームィル大聖堂」と呼ばれ、ルーシにキリスト教をもたらしたウラジーミルの名にちなんでいる。第2次世界大戦後、ロシア正教会に渡されたが、ウクライナ独立後にウクライナ正教会のキエフ総主教庁に譲渡された。

ビザンチン様式の外観だが、内部はアールヌーボー風の絢爛(けんらん)たるフレスコ画で埋め尽くされている。私が訪ねたときは、ちょうど奉神礼のさなかで、多くの参列者が祈りを捧げているところだった。

■ウクライナ人の精神的支柱として敬愛される国民詩人

旅先にキエフを選んだとき、現代のウクライナ人で、世界的に最も有名なサッカー選手のことも思い浮かべた。

現在進行形のウクライナ危機のさなかにも、ナショナルアイデンティティーに裏打ちされた反戦とロシア批判を繰り返し発信しているアンドレイ・シェフチェンコその人だ。シェフチェンコは、ディナモ・キエフやACミラン、ウクライナ代表として活躍し、ウクライナをヨーロッパのサッカー強豪国のひとつに押し上げた国民的ヒーローである。

ウクライナ旅行の前年、2005年に文芸春秋のスポーツ誌『Number』の別冊『Number PLUS 欧州蹴球記』で、ノンフィクション作家の高山文彦氏がシェフチェンコから、彼の祖国に対する思い、原発事故による体験などを取材していた。シェフチェンコは9歳のとき、チェルノブイリ原子力発電所事故で罹災(りさい)し、一家で避難、幼年時代を育った土地を離れて移住を余儀なくされたというのである。

ドニエプル川畔の教会
ドニエプル川畔の教会(筆者撮影)

この記事ではシェフチェンコと同じ姓で、ウクライナの人々から“国民詩人”として敬愛されているタラス・シェフチェンコについても言及されていた。

農奴の子として生まれたタラス・シェフチェンコは、絵の才能を認められて農奴から解放される。その後、シェフチェンコは、優れた詩作品も発表するようにもなるが、ウクライナ独立運動に加わり、皇帝を批判したという理由から流刑に処される。恩赦で釈放されてからもウクライナ語で詩を書き、絵も描き続けて、現在のウクライナ人から精神的支柱として敬愛されているという。高山氏によるインタビューでは、アンドレイはタラスの詩を口ずさんでいたはずだ。

ドニエプル川
筆者撮影
ドニエプル川 - 筆者撮影

■「ロシアンパブにいるのはウクライナ人なのか」

独立広場からそれほど遠くない街角に、タラス・シェフチェンコ記念博物館がある。小さな博物館だが、彼の絵を熱心に見つめる人々でいっぱいだった。

そういえばウクライナをめぐって、こんなことがあった。

キエフとオデッサを訪問する3、4年前、ドイツのどこかへフランクフルトかアムステルダム経由でドイツに向かったときのことである。成田からの機内で、私は通路側に座り、窓側には2人連れの外国人女性がいた。

長いフライトの途中から言葉を交わすようになり、彼女たちはキエフに里帰りするところだというのだった。そして二人は日本では、沼津のロシアンパブに勤めているのだという。私は「ロシアンパブにいるのはウクライナ人なのか」と感心したりもしたが、一人は金髪、もう一人は黒髪の女性たちの素朴な雰囲気に好い印象を受けていた。金髪で小柄な女性にパブの話を聞いていると、店ではこんな歌を歌うのだと、テレサ・テンの「時の流れに身をまかせ」を口ずさんでくれた。

ボルシチ
筆者撮影
ウクライナの伝統料理・ボルシチ - 筆者撮影

二人の名前を聞き、写真も撮ったはずだが、いまとなっては名前を忘れてしまい。写真も見つからない。あれから15年以上経ったいま、彼女たちは40歳前後だろうか。彼女たちがもしいまキエフにいるのだとしたら、どんな様子で暮らしているのか気が気でならない。

■港湾都市オデッサへ――20世紀最高のヴァイオリニストの故郷

「黒海のお真珠」と呼ばれる美しい港湾都市オデッサは、ウクライナ有数の保養地であり、また多くの商船や貨物船が寄港する海運の拠点でもある。

この街の観光名所は、なにをおいてもセルゲイ・エイゼンシュタインの映画『戦艦ポチョムキン』で知られる、「ポチョムキンの階段」だろう。1905年に起きた戦艦ポチョムキンの反乱を20年後に映画化し、市民を虐殺する場面は映画史上有名なシーンの一つ。高台にある市街地と港を結ぶために建設されたもので、階段の上から眺めると黒海が間近に見える。

ポチョムキンの階段
筆者撮影
ポチョムキンの階段。階段の上から眺めると黒海が間近に見える - 筆者撮影

私がオデッサを訪ねたのは、20世紀最高のヴァイオリニストの一人ナタン・ミルシテインの演奏が大好きだったからである。彼が演奏したバッハの無伴奏や、ブラームスの協奏曲の優美さの源が、どんなところだったのかを見てみたかったのだ。

1904年、オデッサ生まれ。ペテルブルク音楽院でレオポルト・アウアーに学び、1923年にデビュー。ピアニストのホロヴィッツと出会い、共演旅行をするなど、生涯の友人となった。生涯の友人となる。1925年からたびたび国外に演奏旅行したが、スターリンの独裁が始まり、故国に帰ることができなくなった。1929年、アメリカ・デビューを果たし、大成功を収める。第2次大戦中、アメリカ合衆国の市民権を得た。

ミルシテインの回想録『ロシアから西欧へ』によると、ミルシテインは一時期「パッサージュ・ホテル」の近く、ティラポルスカヤ通りに住んでいたらしい。オデッサは1泊だけでポチョムキンの階段のほかは、ミルシテイン回想録を手掛かりに、ゆかりの場所を散策したり、カフェでお茶をしたりしたぐらいだったが、西欧文化を受け容れた瀟洒な街並み、黒海に面した温暖な気候など、ウクライナのもう一つの顔を見ることができたと思う。

パッサージュホテル
筆者撮影
パッサージュホテル - 筆者撮影

■美しい街と人々の暮らしを破壊するな

ロシア軍のウクライナ侵攻から3週間が経った。そしていま、首都キエフをめぐって、二つの国の軍隊と民衆が向き合っている。

ウクライナの国土は、建国、支配、独立の歴史を重ね、たびたび戦場になってきた。なかでもキエフは、「ルーシ=ロシア」の源流であることから、民族や国家のアイデンティティーを象徴する都市であり、両国のせめぎあいは、これからも続いていくことが心配される。

金色に輝く聖堂群、ボディール地区の街並み、ドニエプル川畔の風景、ウクライナの郷土料理ボルシチの味、聖堂の中で熱心に祈る人々を思い浮かべながら、ロシアによる侵攻が一刻も早く終わることを願ってやまない。

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畑中 章宏(はたなか・あきひろ)
作家・民俗学者・編集者
大阪府大阪市生まれ。著書に『災害と妖怪』『天災と日本人』『21世紀の民俗学』『死者の民主主義』『蚕』『五輪と万博』『日本疫病図説』などがある。

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(作家・民俗学者・編集者 畑中 章宏)

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