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「嫁にビールなんか飲ませなくていい、しっしっ」25年間、義母に虐げられてきた"公務員の嫁"の怨嗟

プレジデントオンライン / 2022年3月20日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Melpomenem

24歳の女性はお見合いした公務員の男性と交際1年後に結婚。義両親と同じ敷地内の母屋と離れで別々に住むことに。「公務員の妻」として何不自由ない暮らしが待っているかと思いきや、夫は育児家事に非協力的で、姑にもいびられる。姑の尻に敷かれて言いなり状態の舅は精神的な病になるが、その看病も嫁に丸投げされた――(前編/全2回)。
この連載では、「シングル介護」の事例を紹介していく。「シングル介護」とは、主に未婚者や、配偶者と離婚や死別した人などが、兄弟姉妹がいるいないに関わらず、介護を1人で担っているケースを指す。その当事者をめぐる状況は過酷だ。「一線を越えそうになる」という声もたびたび耳にしてきた。なぜそんな危機的状況が生まれるのか。私の取材事例を通じて、社会に警鐘を鳴らしていきたい。

今回は、義母につらく当たられながらも同じ敷地内に住む義父を看取り、続いて義母を介護することになりそうになったが、義母の妄言のため、義母の介護一切から手を引いた50代の女性の事例だ。彼女はどのようにして介護から逃れたのか。義母の介護は誰が担ったのか――。

■夫との出会い

大学を卒業して3年目の1989年、中部地方の県立高校で期限付き講師をしていた佐倉美香さん(現在50代)は24歳になっていた。ある日、見合い相手を探していた上司を助けるために、地元男性とのお見合いを引き受けた。

相手は30歳の地方公務員。1年の交際期間を経て、1990年春に結婚した。

「(警察官になるべく、お見合い直後に入校した)警察学校での生活が窮屈で不自由だったため、週末ごとに連れ出してくれる夫が天使に見えてしまったのが(見)間違いでした……」

結婚後は、当時64歳の義父と58歳の義母とが暮らす“母屋”と同じ敷地内にある“離れ”で結婚生活をスタート。離れは高校教師だった義父が60歳で定年退職したことを機に、息子が結婚したら住むようにと建てたものだった。

2年後、佐倉さんは長女の妊娠がわかった後も、2つの市を跨いでで警察職員として働いていたせいか、妊娠中毒症が悪化し、ドクターストップがかかる。それを上司に伝えると、「休むのなら(入院するなら)、一生休んでもらってけっこう!」と一言。

そのため佐倉さんは、産休に入るまでは出勤し続け、産休を取得できる出産予定日の6週間前になるや否や即入院。無事、出産できたものの、出産直後に腸閉塞に。夫は友人とスキーに出かけており、佐倉さんの初産に立ち会ったのは実母だけ。医師は、「娘さんが亡くなられたら、赤ちゃん(孫)はどうされますか?」という話を実母にしたほど、佐倉さんは重篤な状態に陥り、生死の境をさまよった。

しかし、なんとか1カ月後には退院でき、念のため実家で1カ月療養してやっと帰宅。2〜3日は義母が食事などの世話をしてくれたが、その後は通常モード。慣れない育児と家事に追われた。

その間、夫はしょっちゅうスキーに出かけていた。佐倉さんの初産に立ち会ったのは実母だけだったのだ。

「夫は若い頃から三度の飯よりスキーが大好きで、長女の出産のときも、長男の手がかかる時期も、しょっちゅう友人たちとスキーに行っていて不在。そもそも『自分が子育てをする』という頭がないので、自分が好きなタイミングで好きなだけスキーに出かけており、私たちママ友の間では“山は白銀(しろがね)パパ”と呼ばれていました」

■義理の家族たち

佐倉さんは26歳で長女、31歳で長男を出産したが、夫は一貫して育児に非協力的だった。やがて長女が11歳、長男が7歳になった頃、老朽化した母屋を建て替え、佐倉さん一家と義両親は同居することに。

結婚生活も12年たった2002年11月。佐倉さんが37歳になった頃に母屋が完成すると、義両親との同居生活が始まった。

夫の3つ上の義姉は結婚して関西で暮らしている。佐倉さんの子どもたちが小さかった頃は、盆と正月の年2回、長いと数週間ほど義両親の家に滞在した。

義姉家族が里帰りすると、必ず一晩は近所のフレンチレストランで食事をした。もちろん支払いは義父母持ちだが、義父や夫はアルコールがあまり強くない。しかし義姉夫婦はザルだった。

あるとき、義兄が、「美香さんもどうですか?」と、声をかけてくれた。すると義母が、「この嫁はいいの、しっしっ」と、片手で犬でも追い払うような仕草。佐倉さんは唖然としたが、義姉はビールをがぶがぶ飲み、義父も夫もわれ関せず。

ビールを注ぐ
写真=iStock.com/kedsanee
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kedsanee

「結局、義兄が私のグラスにビールを注いでくれましたが、義母には呆れました。結婚前や直後は、『娘と嫁は差別しない。娘のように思っているよ』と言っていたのが、いつの間にか、『娘と嫁は、差別してない。区別しとるだけ』に変化していました。揚げ句の果てには、『それでもいずれは、あんたに面倒みてもらわなあかんのやで』とドヤ顔。それでもこの頃の私は天使のように純真だったので、こんな義母でも看るつもりでいたんです。バカでした」

同居が始まって4年ほど経とうとしていた頃(佐倉さんは41歳)、長女が中学生、長男が高学年になると、子どもたちは深夜まで起きていることが多くなった。そんな頃、佐倉さんは義母(当時62歳)に呼び出される。

「生活時間が合わず、『夜中までうるさい!』『子どもたちを早く寝かせろ!』とキレてました。義母は、直接子どもたちには言わず、毎日のように私に文句三昧でした」

しかし、先に折れたのは義母だった。深夜まで物音が聞こえる環境に耐えられなくなり、離れに移り住むようになったのだ。佐倉さんにとってラッキーなことに、結局同居は2006年に解消された。

■義父のうつ病

しかしこの頃から、79歳になっていた義父の様子に異変が見られ始めていた。母屋の建て替えがあった約5年前、国語の高校教師で、読書家だった義父が大切にしていた書籍や仕事に使っていた書類などを、義母が容赦なく捨てたり、知人にあげたりしてしまった。

まとめられた書籍がひもでくくられている
写真=iStock.com/zepp1969
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/zepp1969

義父は、「やめてくれ! わしがわしでなくなってしまう!」と抵抗したが、義父の願いを聞き入れるような義母ではない。義父は、完全に義母の尻に敷かれていた。佐倉さんが嫁に来てから、義母が佐倉さんに暴言を吐くのを目の当たりにしても、「そんなことを言ってはダメ〜」という顔をして後ろでオロオロしているだけ。自分の保身から常に傍観者でしかない義父に対し、佐倉さんは幻滅し、義母に対するほどではないが、少なからず憎しみを抱いていた。

いつからか義父は、夜中に突然、「人を殺してしまった! 警察に電話してくれ!」と錯乱し始めたり、買い物に出かけたはいいが帰れなくなり、暗くなっても帰宅しなかったりといったことが続く。

そんな義父を前に義母は、「自宅に座敷牢を作って閉じ込めておく!」と主張し始め、佐倉さんはまたもや唖然。「近所には、『夫は関西に住む娘のところへ手伝いにやりました』と言えばいい」と、悪びれる様子もなく言い放つ。

さらに、世間体を気にする義母は、「精神科には絶対に連れていかない」と言って譲らない。あろうことか夫は、義母の主張に従いそうになる。それを佐倉さんは、必死で説得しなければならなかった。

「『今は心療内科という病院がある。少し遠方の病院ならご近所に知られない』と言って説得しました。もしも本当に座敷牢に閉じ込めて、その中で義父が衰弱死でもしようものなら、公務員である夫は仕事を失い、ここにも住めなくなって、一家離散となったことでしょう」

佐倉さんのおかげで義父は座敷牢を免れ、心療内科に通院。投薬治療を受けると、数カ月で回復した。

■錯乱と正気の波

しかし、回復したと思ったのも束の間、次第に義父は心身ともに弱り、電柱に自損事故を起こしたのをきっかけに自動車の免許を返納。車を手放した。代わりに自転車に乗り始めた義父だが、84歳になった8月、自宅から20キロほど離れたところで熱中症のために倒れていたところを保護された。幸い、自転車に住所が書いてあったため自宅に連絡が入り、夫が迎えに行くことができた。

このあたりから義父は時々突然、自分がいる場所がどこなのか、自分が誰なのかさえわからなくなるように。認知症を発症していた。さらに、もともと心臓が悪かった義父は心筋梗塞を起こして入院。入院した部屋も問題アリだった。

自然光が入る病室に並ぶ2つのベッド
写真=iStock.com/AzmanL
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/AzmanL

2人部屋のもうひとりの入院患者が、ひっきりなしに自分の息子らしき名前と、「許してくれ〜!」を連呼する寝たきりの男性だったのだ。

「こちらまで頭がおかしくなりそうで、私だったら間違いなく部屋替えをお願いしていました。でも、またここで『部屋を替えてもらいませんか』と言えば、異常なほどお医者さん信仰があつい義母に、『嫁の分際でお医者さんに楯突くな!』と怒られるのがオチなので、口をつぐみました。きっと誰もが部屋替えを申し出るレベルなのに、義父母は申し出ないので、相部屋にされたのだと思います」

数週間後、義父は病院内を徘徊するようになっていた。目が離せなくなったため、ナースステーション脇の部屋に閉じ込められ、病院からは退院を促される。

「義父は、自分がおかしくなってしまった自覚があるようでした。それまでは、『帰りたい、帰りたい』と言っていたのに、退院が決まった途端に、『こんな状態では帰れない!』と言い張って、帰ろうとしないのです。錯乱と正気が波のように入れ替わるため、正気の時は苦しかったと思います」

佐倉さんは、今でこそ、こうして義父の当時の気持ちを想像し、「つらくて涙が溢れてくる」と言って唇を噛みしめるが、そのときは義母に盾突いてまで、義父をかばうことはできなかった。

このあと、義父は「義母の王国」で悲惨な目に遭うことになる(以下、後編へ続く)。

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。

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(ライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

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