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「日本記録保持者」の重圧で自滅寸前のマラソン選手を救った同僚の"芯を食った言葉"

プレジデントオンライン / 2022年3月26日 11時15分

鈴木健吾選手 - 写真提供=ナイキ

26歳の鈴木健吾選手は昨春にマラソン日本新記録を出し、一躍「パリ五輪の星」となった。3月6日の東京マラソンでもパフォーマンス日本歴代2位のタイムで日本人1位(全体4位)に。スポーツライターの酒井政人さんは「新記録を出して以来、周囲の期待というプレッシャーに押しつぶされ不調でしたが、ある同僚からかけられた言葉が心に刺さり、レースに挑む気持ちが復活した」という――。

■「パリ五輪の星」がまさかの日本新を出した後に失速

なぜ、日本人トップの4位に入った鈴木健吾(26・富士通)は泣いたのか。

東京マラソン2021で日本記録保持者(2時間4分56秒)の鈴木が激走した。第2集団でレースを進めると、中間点を1時間2分33秒で通過。このあたりから徐々に揺さぶりをかけていく。

「今回はあまり状態が良くなかったので、早い段階で勝負を決めたいなと思っていたんです。(第2集団の)ペースメーカーが最高で25kmと聞いていたので、そこをポイントにしていました。20~25kmの間である程度動こうと決めていましたし、ペースメーカーが外れた25kmで一気に勝負を仕掛けました」

鈴木は30kmまでの5kmを14分42秒で突っ走り、他の日本勢を引き放す。35kmまでの5kmも14分53秒でカバー。その後は向かい風もあってペースダウンしたが、パフォーマンス日本歴代2位の2時間5分28秒でフィニッシュした。

胸を張っていいタイム。日本人1位の順位。ゴール直後のインタビューでは笑顔が見られるはずが、「昨年、日本記録を出してから1年間、とても苦しかったんですけど、それを今日、乗り越えれたかなと思います」と話すと涙があふれた。

後続の日本人選手を2分以上も引き離す“完勝レース”を見せた鈴木健吾はなぜ男泣きをしたのか。

■「肩書」は人を狂わす

鈴木は2021年3月のびわ湖毎日マラソンで大迫傑が保持していた2時間5分29秒を塗り替える新記録をマーク。一躍、パリ五輪の星として脚光を浴びるようになった。しかし、「日本記録保持者」の肩書が重荷になったという。

「周りからの見られ方も変わりましたし、今回のレースでも注目されました。私はあまり目立つのが得意ではないので、精神的にきつかったんです。出場する試合ごとに注目されて、『絶対に外せない』と自分自身でプレッシャーをかけていました。本来ならば強い選手に挑戦していきたいタイプなんですけど、追われる立場になったのが苦しかった部分です」

早朝にランニングする男性
写真=iStock.com/T-kin
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/T-kin

これまでのキャリアがないわけではない。神奈川大時代からロードの強さには定評があり、3年時には箱根駅伝の“花の2区”で区間賞を獲得。4年時は全日本大学駅伝の最終8区で17秒先行していた東海大を悠々と逆転して、チームに20年ぶりの日本一をもたらしている。

マラソンでも積極的な走りを披露した。7位に終わった2020年9月のMGCでは何度も集団を揺さぶっている。2019年のびわ湖も日本勢では最後までトップ集団に食らいついた。

常に「挑戦者」としてレースに臨んできた鈴木だが、日本記録保持者になったことで「追われる立場」になった。自分の立ち位置が変わることで、自信をつけることもあれば、逆に人を狂わすこともある。鈴木の場合は後者だった。

加えて、本番前の状態も良くなかった。大会2日前の会見では「コンディションはぼちぼちです」と答えていたが、日本記録を出した昨年のびわ湖と比べると「5~6割」の状態だったという。今年正月のニューイヤー駅伝後は、1年前のびわ湖と同じ流れでマラソン練習に取り組んだが、膝裏を痛めて2週間ほどポイント練習ができない期間があったのだ。

■「日の丸を背負う立場でもない」という言葉に救われる

このピンチを鈴木はどうやって乗り越えることができたのか。次のような言葉を周囲からかけられたという。

「記録を1回出しただけで、日の丸を背負ってる立場でもない。もっと自分らしくチャレンジャーでいけばいいんじゃないか」

鈴木の身近には、“大きな期待”というプレッシャーと戦っている選手が2人いた。ひとりは東京五輪に日の丸をつけて臨んだチームの先輩・中村匠吾(富士通)。もうひとりは同じく女子マラソン代表を務め、昨年12月1日に結婚した妻・一山麻緒(ワコール)だ。彼らが重圧と戦う姿を肌で感じて、気持ちをリセットすることができたという。

「昨夏は(チーム内で)中村さんを近くで見させていただいて、日本記録保持者以上にオリンピック代表はこれほどまでにプレッシャーがかかるのだなと実感しました。同時に、この舞台で私もチャレンジしたいなという気持ちがすごく強くなったんです。そして、妻とは一緒にオレゴン世界選手権の代表をつかむことを目標に掲げました。東京マラソンに2人で出ると決めて、不安な状態ではありましたが、チャレンジャーとして臨むことができたんです」

万全な状態ではなかったが、狙い通りの走りで日本人トップに輝き、オレゴン世界選手権の日本代表を確実なものにした。

鈴木健吾選手
写真提供=ナイキ
鈴木健吾選手 - 写真提供=ナイキ

妻の一山は10000mとハーフマラソンで日本記録を持つ新谷仁美(積水化学)と激しく競り合った。40km手前で新谷を引き離すと、セカンドベストの2時間21分02秒で日本人トップ(6位)を奪った。

レース後、鈴木と一山は抱擁して互いの健闘を称え合うと、ヒロインの瞳から涙がこぼれた落ちた。ふたりにしかわからない苦しみと喜びがあったことだろう。ふたりの合計タイムは4時間26分30秒。同一レース夫婦合計タイムでギネス記録を上回ったことになる。そして一山もオレゴン世界選手権の日本代表を引き寄せた。

ふたりの活動拠点は鈴木が千葉、一山が京都。一緒にいられる時間は多くないが、同じ目標を掲げて取り組んでいることがプラスに働いている。

「今回は一緒に世界選手権に出ようというモチベーションで頑張ってきました。お互い競技者なので、結婚したといっても生活は大きくは変わっていません。いまは競技を第一に考えています。家族であっても、競技をやっていないとわからない部分があると思うんですけど、そういう意味では大変な部分も理解してもらえますし、私にとってはポジティブな影響が多いです」

これまではネガティブになると1人で考えがちだったという鈴木だが、周囲の声に耳を傾けるようになったのが突破口になった。

■一発屋ではなく、本物の実力を証明した

世界のトップクラスがマラソンに本格参戦するのは年に2本ほど。トラック種目と比べて本数を多くこなすことができないため、プロランナーは確実に好結果を残すことが求められる。

鈴木が保持している日本記録は2時間4分56秒。それに次ぐ自身の記録は2時間8分50秒(東京マラソン以前)。参戦した他の4レースは2時間10~12分台だった。

ところが、今年の東京で日本歴代2位の2時間5分28秒をマーク。期限内における上位2レースのポイント平均で順位が決まるマラソンの「ワールドランキング」で12位に浮上した。ただの日本記録保持者ではなく、世界が認める“実力”を身につけたといえるだろう。

日本陸連の瀬古利彦ロードランニングコミッションリーダーも、「1回は当たるんだよ。だけど何回も当てるのは難しい。なぜ走れたのかわからない選手はダメですね。これだから走れたという、自分のメソッドを確立することで、再現性が高くなっていくと思います」と話していたが、今回の鈴木に関しては、「見事、5分台で走ってくれました。日本記録がフロックでないことを証明したと思います」と高く評価した。

一方で鈴木は世界トップとの実力差はまだまだあると感じている。

「本調子なら第1集団に挑戦したいという思いがあったんですけど、今回は第2集団で行きました。しかもトップと3分ぐらいの差が開きましたし、世界記録から3分以上の差があります。そこに行くまでの道は険しいですけど、1日1日の積み上げをやっていくことで世界と戦える選手になれるのかなと思っています」

■勝負師としての心構え

鈴木は2020年のびわ湖毎日マラソンで終盤に大きく失速。2時間12分44秒の7位に沈んだことで、自分の身体を見つめ直した。「マラソンで勝負するには何かを変えないといけない」と考えて、ウエートトレーニングを取り入れるようになった。

その結果、ナイキ厚底シューズの「エア ズーム アルファフライ ネクスト%」の威力をひき出すような走りが可能になった。

「アルファフライはうまくキックできると、すごく反発をもらえるので、コントロールするのが大事になってきます。その分、状態が悪いときは逆に難しいシューズでもあるかなと思うので、ウエートや体幹トレーニングなどをして筋力アップを図ってきました。厚底のアルファフライだけでは鍛える部位が偏ってしまうので、練習によって、薄いシューズやちょっとソールが硬めのシューズなども使い分けています」

鈴木健吾選手
写真提供=ナイキ
鈴木健吾選手 - 写真提供=ナイキ

マラソンは通過タイムと自身の状態でフィニッシュタイムを予想することができる。だが、鈴木は今回の東京もあまりタイムを意識していなかったという。それよりも“強さ”にこだわっていた。

「試合の目標はタイムより順位ですし、勝負を楽しみたいタイプなんです。自分が理想としている選手像は、速い選手よりも強い選手。状態が悪いときでもしっかりまとめて、勝負の部分で負けないところが本当に強い選手なのかなと思っています」

今回の走りを見れば、鈴木は自身が目指す選手像に着々と近づいているのがわかるだろう。ただし、世界で勝負するためにはまだまだ実力不足だ。

「タイムを強く意識しているわけではありませんが、世界と戦っていくためには、4分台、3分台というのを日本全体で目標にしていく必要があると思っています。私自身まだ成功したとは思っていません。いきなり大きな結果が出るものではないと思うので、地道に自分のできるトレーニングのギリギリのところを積み重ねることで、成功というものがあると思っています」

後ろを気にするのではなく、世界トップの背中を追いかける。鈴木は日本記録保持者でありながら、“チャレンジャー”として臨む覚悟を持っている。

「東京五輪を見て、オリンピックで勝負したい、という思いがすごく強くなりました。メダル争いできるように経験を積んで『強さ』と『速さ』を磨いていきたい」

鈴木の活躍と取り組みはビジネスパーソンにも通じるものがあるだろう。守りに入らずにチャレンジし続ける。何度、失敗してもいい。失敗から学び、成功への道を探る。自分の立ち位置や周囲の評価が変わったとしても、自分自身が目指すべきものを明確にして、そこに向かって一歩ずつ近づいていく。その積み重ねが、大きな成功をもたらすことになるはずだから。

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酒井 政人(さかい・まさと)
スポーツライター
1977年、愛知県生まれ。箱根駅伝に出場した経験を生かして、陸上競技・ランニングを中心に取材。現在は、『月刊陸上競技』をはじめ様々なメディアに執筆中。著書に『新・箱根駅伝 5区短縮で変わる勢力図』『東京五輪マラソンで日本がメダルを取るために必要なこと』など。最新刊に『箱根駅伝ノート』(ベストセラーズ)

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(スポーツライター 酒井 政人)

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