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「軍事とは経済である」武田信玄がどんなに"優れた戦国大名"でも、信長には絶対に勝てなかったシンプルな理由

プレジデントオンライン / 2022年4月4日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Wako Megumi

なぜ織田信長は天下統一に近づけたのか。東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんは「経済的に豊かかどうかが合戦の勝敗を分ける。信長は地政学的に恵まれた条件を使いこなしていた」という――。

※本稿は、本郷和人『「合戦」の日本史 城攻め、奇襲、兵站、陣形のリアル』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

■経済的に豊かかどうかが合戦の勝敗を分ける

より多くの兵を養える者こそが合戦の勝者となる。一騎当千の英雄豪傑の存在や、知恵を振り絞り奇を衒(てら)った戦法・戦術によって戦いに勝利する場合と比べると、それはあまりに地味かもしれません。しかし、これが合戦のリアルなのです。

いわば経済的に豊かかどうか、富国であるかどうかが合戦の勝敗を分けるとすると、そこには地政学的な優越がもともと存在すると言えるでしょう。

たとえば、武田信玄の場合、信濃国を自分のものにするために、約10年の歳月をかけてこれを制圧しました。その後、北信濃の領有をめぐってまた約10年の間に5回にも及ぶ川中島の戦いで上杉謙信と争った。つまり、信濃を完全に掌握するのに20年もの歳月をかけたわけです。

しかし、信濃国の石高はいくらか勘定してみると(戦国時代では本来、石高では計算しないのですが、本書ではわかりやすさを考慮して石高で統一します)、およそ40万石です。もともと信玄が領有していた甲斐国はどうかというと、大体20万石程度でしかない。つまり、武田信玄は20年もかけて合わせて60万石しか手にしていないわけです。

■40万石の領地を持つ大名なら、1万人の兵力を動員できる

兵を無理なく編成するならば、詳細は後述いたしますが、だいたい40万石の領地を持つことができる大名ならば1万人の兵力を有することができると考えられます。100石あたりに換算すれば、2.5人ですから四捨五入して、「100石あたりおよそ3人」ということもあります。この「40万石あたりおよそ1万人」という計算式は、小説家の司馬遼太郎先生も用いた算出方法です。

もちろん無理をすればそれ以上の兵力を動員することもできるでしょうけれども、先述したように戦国時代においては一回の合戦に勝てばそれでいいわけではありません。たとえ一回の合戦に勝ったとしても、それで疲弊してしまえば、次の合戦で負けてしまう。一回の負けが滅亡にもつながりかねないのが乱世たる戦国時代です。ですから、無理なく兵を編成すると、「40万石あたりおよそ1万人」「100石あたりおよそ3人」くらいが妥当な数字なのです。

このように考えると、武田信玄が無理せずに兵隊を集めるとすると、約1万5000人になります。第四回の川中島の戦いでは信玄はおよそ2万の兵を動員したと『甲陽軍鑑』は記していますが、これは誇張した数字を記載しているのか、信玄はかなり無理をして本当に2万の兵をかき集めたのかは定かではありません。

■武田信玄も上杉謙信も、石高はそれほど多くなかった

それでは上杉謙信の越後国はどうだったかというと、先述したとおり、越後が米所になるのは江戸時代になって以降のことです。この頃の越後一国で石高はわずか35万石に過ぎなかった。ですから、動員できる兵の数はおよそ1万人ぎりぎりといったところです。しばしば上杉謙信の軍勢は8000人と言われますから、数としては石高に合っています。しかし、『甲陽軍鑑』では、第四回の川中島の戦いに動員された謙信の軍勢は1万3000人とあります。信玄同様、これもどこまで本当かわかりません。

武田信玄、上杉謙信という戦国武将を代表する2人の兵力が石高に換算すると意外にもさほど多くない印象を覚えますが、これに対して天下統一まであと一歩と迫った織田信長はまるで別格でした。

信長が生まれた尾張の地は元来、非常に豊かな土地柄で、信長の父・織田信秀(のぶひで)は独自のカリスマ性によって尾張一国をまとめあげていました。しかし、その信秀が亡くなり、信長が家督を継ぐと、尾張国内の領主たちは信長に反発するようになります。信長にとってまず尾張を再統一することが急務だったのですが、案外これに苦戦し、尾張一国を完全に制圧するのに10年近い年月がかかっています。

■石高を兵力に換算すれば、信長が信玄に負けるはずがない

織田信長像〈狩野元秀筆〉(図版=東京大学史料編纂所/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
織田信長像〈狩野元秀筆〉(図版=東京大学史料編纂所/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

やがて、西に侵攻してきた今川義元(いまがわよしもと)の軍勢をまさしく乾坤一擲(けんこんいってき)、桶狭間の戦いで退け、義元本人を討ち取るとその後の快進撃にはめざましいものがありました。三河国の徳川家康と同盟を結び、東に対する守りを固めたのち、信長は美濃、伊勢北部と次々に自分の領地にしていきます。尾張統一からわずか7年のうちのことです。

信玄が信濃一国のために20年かけたのに対して、信長は尾張・美濃の二国と、伊勢の北部を30代半ばで手にしてしまったのです。しかも信長が手に入れたのは、当時の日本列島のなかで生産力の高い土地ばかりでした。

それぞれの石高を見てみると、尾張国57万石、美濃国60万石、伊勢も60万石ほどとされますが、その北側半分として30万石とするならば、合計でおよそ150万石にも上ります。

20年かけてやっと甲斐、信濃60万石を手に入れた武田信玄。30代半ばで、150万石を手に入れた織田信長。信長が天下統一までリーチをかけられたというのは、ある意味、必然だったとも言えます。仮に信長と信玄が正面から戦えば、兵力に換算すれば4万人対1万5000人と圧倒的な兵力の差で、信長が負けるはずがありません。

■武田信玄は生まれた場所が悪かった

言うなれば、生まれてきた場所の違いが大きかったのです。この地政学的な差は決定的でした。信長が生まれた尾張は非常に生産量の高い土地だった。また、信長はその後、南近江を手中に収め、上洛しています。戦国時代の近江もまた豊かな土地で、一国で77万石はあったとされます。南近江だけでも少なくとも20万石くらいの生産高はあったでしょう。さらに上洛した信長は、堺を押さえて、商人たちを通じて鉄砲と火薬を手に入れることに成功しました。

他方、武田信玄はというと、信玄自身は戦国大名のなかでも一、二を争うほどの傑出した人物だったとしても、生まれたところが悪かった。元々の本拠地である甲斐国は海に接しておらず、港がない。港がなければ交易ができないので、最新鋭の武器である鉄砲を手に入れることができないのです。

富士山を背景にした甲府の街並み
写真=iStock.com/Sean Pavone
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Sean Pavone

ですから、先述したように信玄が上杉謙信と約10年にわたって戦いを繰り広げたのも、北信濃から越後に入り、日本海に面した豊かな港のある直江津が欲しかったのだろうと思うのです。しかし、とうとう、上杉を退けることはできませんでした。

■「三国同盟」を反故にしてまで港を求めた

信玄は上杉を攻めるうえで、もともと相模国の北条氏康(うじやす)、駿河国の今川義元との間に、婚姻関係に基づく軍事同盟を結んでいました。いわゆる天文23(1554)年に結ばれた有名な「甲相駿(こうそうすん)三国同盟」のことです。この同盟は今日でいう和平協定のようなもので、武田、北条、今川の三国は互いに攻め合うのはやめようという取り決めをしたのでした。

これにより、隣接する武田や北条に襲われる心配はないということになった今川は西へと向かいます。隣国の遠江、続いて三河を占領し、やがて信長の尾張へと至り、桶狭間の戦いで敗北します。それが可能だったのも、こうした三国同盟があったからこそ、なのです。

北条は西からの攻撃がないため、関東平定を目論見、武田もまた後ろから攻められないことを前提に、信濃国を攻め、上杉の越後へと迫ることができた。もちろん、戦国の世ですから、この同盟はいつ破られるかわかったものではない。それほどリスクのあるものでした。まさにこれは今日の地政学に通じるものと言えるでしょう。

そして、この同盟を反故にしたのが、武田信玄でした。上杉を滅ぼし、直江津を手に入れることが困難だと悟ると、三国同盟を破り、駿河国に侵攻したのです。駿河は現在の静岡県東部、だいたい静岡市のあたりですが、石高はわずか15万石しかありません。無理に同盟を破ってまで奪いにいく価値のある土地とは思えないのですが、やはり信玄はどうしても港が欲しかったのだろうと思います。こうして駿河湾に面した江尻を駿河における拠点として、海上交易の足掛かりを作ったのでした。

■地政学的に恵まれた条件を使いこなした信長

最新鋭の武器である鉄砲は、もちろん火薬がないと使うことができません。この火薬の原材料はというと木炭、硫黄、硝石ですが、木炭や硫黄は日本では豊富に手に入れることができます。しかし、硝石は日本国内では産出されないのです。のちに硝石を作る技術が確立されて、国内でも生産が可能になりますが、戦国時代においては交易を通じて外国から輸入しないと手に入らない貴重品でした。

本郷和人『「合戦」の日本史 城攻め、奇襲、兵站、陣形のリアル』(中公新書ラクレ)
本郷和人『「合戦」の日本史 城攻め、奇襲、兵站、陣形のリアル』(中公新書ラクレ)

つまり、鉄砲を使うにはどうしても交易をするための港がいるのです。ですから、早くに堺を押さえて鉄砲と火薬を入手することに成功した信長はやはり一枚上手です。生まれてきた場所がたまたま豊かな土地だったということも大きいのですが、その地政学的に恵まれた条件を最大限に使いこなすことができたところが、信長の秀でた才覚と言えるでしょう。

このように見てくると、軍事とは経済だとも言うことができるという意味がおわかりいただけたのではないかと思います。やはりリアルな合戦の勝ち負けは、一騎当千の英雄豪傑や奇抜な戦術・戦法によって決まるのではありません。戦いは数であり、それを支える経済がしっかりとしていなくてはならない。リアルな合戦というのは、リアルな経済ということでもあるのです。

図表=『「合戦」の日本史』
図表=『「合戦」の日本史』

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本郷 和人(ほんごう・かずと)
東京大学史料編纂所教授
1960年、東京都生まれ。文学博士。東京大学、同大学院で、石井進氏、五味文彦氏に師事。専門は、日本中世政治史、古文書学。『大日本史料 第五編』の編纂を担当。著書に『日本史のツボ』『承久の乱』(文春新書)、『軍事の日本史』(朝日新書)、『乱と変の日本史』(祥伝社新書)、『考える日本史』(河出新書)。監修に『東大教授がおしえる やばい日本史』(ダイヤモンド社)など多数。

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(東京大学史料編纂所教授 本郷 和人)

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