数百人の女奴隷を独り占め…イスラムの皇帝が男子禁制の「ハーレム」で毎晩行っていたこと
プレジデントオンライン / 2022年4月5日 17時15分
ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル作「奴隷のいるオダリスク」(図版=http://taotothetruth.blogspot.fr/2011/04/master-copy-3.html/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
※本稿は、小笠原弘幸『ハレム:女官と宦官たちの世界』(新潮選書)の一部を再編集したものです。
■数百人の女奴隷がいたハレムの本当の姿
「ハレム」という語は、アラビア語の「ハラム」に由来しており、もともとは「禁じられた」という意味である。そこから派生して、王宮や家庭において、よそ者の入り込めない限られた空間、すなわち「後宮」を指す言葉として用いられるようになった。
では、ハレムで働く女性は、どのようなルートを通じてハレムに入ってくるのだろうか。
彼女たちは、基本的に奴隷身分であった。奴隷として購入されるわけであるから、まず思い浮かぶのは、奴隷市場であろう。混み合う広場につくられた台の上で、奴隷を連れた奴隷商人が売り口上を張り上げ、周囲の買い手たちが競り合って奴隷を購入する……。
中東をモデルにしたフィクションでおなじみのこうした風景は、宮廷の女奴隷たちに限っていえば関係のないものだった。ハレムで働くような高級な奴隷の購入は、こうした公衆の市場ではなく、商人の邸宅で行われたからである。
ハレムに購入される女性は、容姿やふるまいについて、欠点がないことが求められる。すこしでも瑕疵(かし)のある奴隷は、ハレムに入ることができなかった。
たとえば、歯が欠けていると金額が安くなったし、扁平(へんぺい)足であれば、不吉だと見なされて買い手が付きにくかったという。
■女性たちはどこから連れてこられたのか
とはいえ、奴隷商人からの購入は、数あるリクルート方法のひとつにすぎない。それ以外には、大きく分けてふたつのルートがある。
ひとつは、戦争捕虜である。
ヨーロッパと繰り広げられた戦いのなかで、捕らえられ、奴隷となった者たちが男女を問わず存在した。たとえばムスタファ二世(在位1695~1703年)は、トランシルヴァニア遠征で捕虜とした女奴隷を、母后に贈っている。また、帝国海軍や、帝国の息のかかった海賊たちは、しばしば地中海の小島や航行する船を襲い、奴隷を獲得して宮廷に献上した。
もうひとつは、有力者からの献呈である。
もちろん、献呈される前は、商人から購入されるか、あるいは戦争や略奪によって奴隷となった者だったろう。大宰相など有力臣下は、手持ちの女奴隷のなかから、選りすぐりをスルタンに献上した。その対価として恩恵を受けることが目的であったが、女奴隷が出世したあかつきには、彼女は宮廷との重要なパイプ役となりえたはずだ。
また、母后や王女たちも、しばしば子飼いの女奴隷をスルタンに献上している。クリミア・ハン国やジョージア王国から、外交の贈り物として奴隷が献呈されることもあった。
![トルコ、イスタンブールのトプカプ宮殿](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/7/5/670/img_758a88e98db094a97a657e51ee89b42b262220.jpg)
■イタリア系からギリシア系、ロシア系も
イスラム法では、ムスリムを奴隷とすることは許されていない。そのため、奴隷はすべて非ムスリムに限られている(奴隷となったのちにイスラムに改宗するのは可能である)。また、非ムスリムであっても、帝国臣民を奴隷とすることは許されなかった。そのため奴隷は、基本的に帝国外の非ムスリムから供給された。
ハレムに入る女奴隷の出自としてまず挙げられるのは、ギリシアやイタリアなどの地中海出身者である。たとえばムラト三世の母后ヌールバーヌーはイタリア系であり、ヴェネツィア船に乗っているところを海賊に捕らえられ奴隷となった。またムラト四世の母后キョセムは、エーゲ海の小島の出身でおそらくギリシア系であったが、襲撃にあって奴隷になったのである。
また、ロシアやウクライナなどの北方出身者も多い。黒海北岸に勢力を広げたクリミア・ハン国は、これらの地域を略奪して、獲得したスラヴ系の奴隷をオスマン宮廷に献呈していた。スレイマン一世の寵姫ヒュッレムや、メフメト四世の母后トゥルハンは、そうした出自である。
■時代とともに変化した奴隷の供給源
しかし、17世紀には、奴隷の供給源に変化が見られた。オスマン帝国の地中海方面での征服活動が停滞したこと、そしてクリミア・ハン国が台頭するロシアに押され活動範囲を縮小していったことが、その原因である。それに代わって、コーカサス地方からの奴隷が徐々に増加していった。
カスピ海と黒海に挟まれたこの狭隘な地域には、ムスリムではあるが、自民族のなかで奴隷を用いる慣習が根付いているチェルケス人が居住しており、重要な奴隷の供給源となった。おなじくコーカサス地方に住むムスリムのアブハジア人、そしてキリスト教徒のジョージア人も、やはり奴隷の供給源となった。18世紀以降、ハレムに入る女奴隷のほとんどは、コーカサス地方の出身となる。
女官のなかには、少数ではあるが黒人もいた。彼女たちはカイロからイスタンブルに送られたというから、もともとの出身地は、男性の黒人奴隷と同様、エチオピアやスーダンだったはずだ。彼女たちは、白人奴隷の女官に比して、重労働に従事することが多かったという。
■名前として、花や宝石の単語を与えられていた
こうして、女奴隷たちは、さまざまな経路をとおしてハレムに入り、女官としての人生を始めることになる。彼女たちはまずイスラムに改宗し、ハレムに住まう女性として新しい名を与えられた。
生まれたときからの名前――ほとんどの場合、キリスト教の洗礼名だったはずである――を捨てることを余儀なくされた彼女たちは、どのような名で、ハレムでの生活を始めることになったのだろうか。
彼女たちに与えられた名には、花や宝石、あるいは美しさにかかわるペルシア語の単語が多かった。ギュルスタン(薔薇園)、デュッリー(真珠のような)、ナズペルヴェル(媚態のある)などである。チェスミスィヤフ(黒目)やメフタブ(月光)といった、身体的な特徴や自然にまつわる名称も、よく用いられた。
この命名は、彼女たちはあくまでスルタンの所有物であるという性格を、よく表しているといえよう。こうした名を、一般のムスリム女性は名乗らない。市井の人々がこれら特徴のある名を聞けば、彼女はハレムの奴隷だ、とすぐに悟ったに違いない。
新しく名前を与えられた女官は、みずからの名前を忘れぬよう、そしてほかの女官たちに名前を憶えてもらうため、紙に名前を書いて胸に縫い付けられた。ただし帝国最末期のハレムでは、新しい名前を与えられることなく、本名が使われていたようだ。
![ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル作「トルコ風呂」](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/7/b/670/img_7b103cc51c1fd9fb0912425b5c2b7a41323328.jpg)
■人数は数百人規模…軍人並みの給金をもらう女性も
女官たちの給金は、その職階に応じて、日給5アクチェ(アクチェは銀貨の単位)から500アクチェとさまざまであった。18世紀末のイェニチェリ軍団の俸給が7から8アクチェであったから、少し経験を積んだ女官は、軍人並みの俸給を得ていたといえるだろう。
このほかにも、宗教祭や王族の結婚式など、慶事のさいには特別の下賜が行われた。衣服や生地は、日常的に支給された。ハレムの女官としてふさわしい身なりをすることが求められたのである。
ハレムで働く女官たちの総数を、正確に見積もることは難しい。外国人はしばしばハレムの規模についての記録を残しているが、おしなべて大袈裟だからである。
たとえば、17世紀初頭にトプカプ宮殿を訪問したヴェネツィア使節オッタヴィアーノ・ボンは、女官の数を1000から1200人としている。しかし、俸給台帳の記録からみて、この数字は明らかに誇大である。
トプカプ宮殿に残された史料によると、1575年には、旧宮殿に73名、トプカプ宮殿に49名、合計122名が確認できるにすぎない。この数は、時代を下るにつれて増加した。1652年の記録では、旧宮殿に531名、トプカプ宮殿に436名、合計で967名であった。
18世紀前半、マフムト一世の時代につくられた俸給台帳では、トプカプ宮殿の女官は456名に達している。ここから、トプカプ宮殿のハレムで働く女官の数は、多くても500名をこえなかった、といえるだろう。
なお、トプカプ宮殿がスルタンの主たる居城ではなくなる19世紀には、およそ500名から600名の女官がハレムに勤めていた。
■皇帝はどのように夜をともにする相手を選んだのか
それでは、数百名もいる女官の中から、スルタンはどのようにして夜をともにする相手を選んだのだろうか。
![小笠原弘幸『ハレム:女官と宦官たちの世界』(新潮選書)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/a/6/200/img_a6743c0b20bf21176af05bac215e641180887.jpg)
16世紀末にムラト三世の侍医を務めたイタリア人ドメニコや、前出のオッタヴィアーノ・ボンは、ある儀式を紹介している。両者の記述には多少の違いがあるが、大意は次のようなものだ。
——スルタンが女官と夜を過ごしたいと望んださい、スルタンの意をくんだ女官長は、広間に女官たちを集め並ばせる。スルタンは並んだ女官たちを品定めしたのちに、望みの女官にハンカチを渡すことで、言葉を発することなく伽の相手を示した。女官長は、選ばれた女性を入浴させ、身を清めたあとに香水をふり、宝石で美しく着飾らせてのちにスルタンの寝所まで連れてゆく。こうしてスルタンと一夜を過ごした女官は、褒美を下賜されるとともに、彼女に仕える侍女や宦官をあてがわれ、栄誉あるあつかいを受けるのである。
ドメニコやボンが伝えたこの記述は西洋において広く信じられ、その後、多くのハレムをあつかった書籍でくりかえされた。しかし、18世紀初頭にオスマン帝国を訪れ、前スルタンの夫人と交流したモンターギュ夫人は、こうした慣習を否定している。
彼女によれば、意中の女官がいた場合、スルタンはたんに黒人宦官長に命じて彼女を呼び寄せたのだという。道具立てに外連味がありすぎるハンカチの逸話よりも、こちらのほうがありそうに思えるが、どうだろうか。
なお、一般の人々がハレムにたいしてイメージするような、好色なスルタンが夜な夜な複数の女官を相手にし、乱痴気騒ぎを繰り広げるといったようなことは、基本的にはなかったといってよい。
なによりもまず、ハレムは管理された後継者生育の場であったのである。
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九州大学大学院 准教授
1974年、北海道生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。2013年から九州大学大学院人文科学研究院イスラム文明史学講座准教授。専門はオスマン帝国史およびトルコ共和国史。著書に『ハレム:女官と宦官たちの世界』(新潮選書)、『イスラーム世界における王朝起源論の生成と変容』(刀水書房)、『オスマン帝国』(中公新書、樫山純三賞受賞)、『オスマン帝国英傑列伝』(幻冬舎新書)、編著に『トルコ共和国 国民の創成とその変容』(九州大学出版会)などがある。
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(九州大学大学院 准教授 小笠原 弘幸)
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