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二流スパイ→無職→大統領…小役人のプーチンはどうやって異例の大出世を遂げたのか

プレジデントオンライン / 2022年4月5日 10時15分

モスクワ郊外で、若手文化人らとオンラインで話すロシアのプーチン大統領=2022年3月25日、ロシア・モスクワ - 写真=EPA/時事通信フォト

KGBのスパイだったプーチン大統領はいかにして出世していったのか。2012年に『独裁者プーチン』(文春新書)を出した拓殖大学海外事情研究所の名越健郎教授は「二流スパイだった彼が頭角を現したのは、無職を経て官僚に転職してからだった」という――。

※本稿は、名越健郎『独裁者プーチン』(文春新書)の一部を再編集したものです。

■ペテルブルク副市長時代の「2つの疑惑」

プーチンは、KGB(ソ連国家保安委員会)の出向としてレニングラード大学に勤務した後、改革派政治家として売り出していた恩師、サプチャク=ペテルブルク市長の顧問を経て、九一年副市長に起用された。市役所では、サプチャクの片腕として対外関係委員会委員長、副市長、第一副市長と昇格。KGBは九一年八月、ソ連保守派が決起したクーデター未遂事件後退役した。

副市長時代、西側との貿易や投資受け入れ、国際会議開催など市の対外経済案件のほとんどに関与した。政界や財界に人脈を広げ、飛躍のきっかけをつかんだ。

「この五年間は、その後のモスクワでの大統領府での仕事に比べ、より多くのものを与えてくれた。大統領就任後の私しか知らない人は、私がペテルブルクで働いた七年のことを忘れている」

だが、辣腕を振るったことが、不正疑惑や危険な事態を招くことになる。

副市長時代の不正疑惑は二件あり、一つは不正資源輸出だ。九一年からペテルブルクは食糧不足が深刻化し、プーチン副市長は木材や石油製品を輸出し、その代金で食料を購入する事業を担当したが、実際に輸入された食料品は少なかった。不当なカネの流れがあったとの疑惑が生まれ、市議会が調査した。調査報告は、プーチンには職務執行能力が欠け、調査にも非協力的だったとし、プーチンと側近の解任を求めた。しかし、この件はうやむやになった。

■マフィアとの癒着、夫人暗殺未遂…

もう一件は、プーチンが顧問を務めたペテルブルクの不動産会社がロシアとドイツで資金洗浄をしていた疑惑で、ドイツ検察当局は二〇〇〇年に不動産会社を捜索した。同社はロシアのマフィア組織やコロンビアの麻薬密売組織の資金を洗浄していたことが判明。ドイツで盛んに報道され、プーチンが同社社長と親しいことも分かった。プーチンと闇組織の関係を示唆しているが、これも真相はうやむやのままだ。

プーチンは市の財政好転のため、ギャンブル産業の掌握を図り、カジノの公有化を推進した。市が五一%の株式を保有するギャンブル産業の持ち株会社も作ったが、これが業者の反発を買い、敵を作った。

九四年、リュドミラ・プーチン夫人が娘を乗せて市内を運転中、交通事故に遭い、重傷を負った。交差点で一台の車が赤信号を無視し、猛スピードで横腹に追突したという。リュドミラは背骨を損傷し、全快まで数年を要した。

■この頃からメディア対応は高圧的だった

状況から見て、暗殺計画だった可能性が強い。カジノを統制したことで、プーチンは敵を作り、敵は家族を殺そうとした。

プーチンはその後、ベッドの横に空気銃を置いて寝たという。「命を守ることは無理でも、少しは気が落ち着く」と友人に話した。マフィアが跋扈した九〇年代のロシアで、高級官僚が狙われるのは珍しいことではなかった。

プーチンは副市長として、一時期広報も担当したが、メディア対策は極めて高圧的だった。新聞編集長にアパートを提供するなど、記者に高価な贈り物をする一方で、露骨に脅迫することもあったという。プーチンがクレムリンで推進するメディア抑圧のルーツもペテルブルク時代にあった。

■二流スパイ、無職を経て連邦保安局トップに

プーチンのボス、サプチャク市長は、九六年の市長選に再選出馬したが、対立候補との泥仕合の末落選。選対本部長だったプーチンはこれを機に市役所を去り、モスクワの大統領府に転職する。

「市長選に敗れてから二、三カ月が過ぎたが、私はまだ無職だった。それは好ましい事態ではなかった。家族を養うために、何かをしなければならない。大統領府で働かないかと声をかけてくれたのは、大統領府総務局長のパーベル・ボロジンだった。彼とはそれまで数回会っただけだ。モスクワに出てきた時は何のコネもなく、頼りになる友人もいなかった」

このモスクワ行きが、ロシアの歴史を変えることになる。経済危機が続く九〇年代のロシアでは、公務員の待遇は良くなく、エリートは出国したり、民間での起業に没頭。政府に有能な人材が枯渇していた。

総務局次長としてクレムリンに入ったプーチンは、翌年大統領府副長官兼監督総局長、九八年に大統領府第一副長官ととんとん拍子に出世。同年連邦保安局(FSB)長官に就任した。KGB時代は中佐止まりで、スパイとしては二流だったプーチンが、KGB後継機関のトップとして返り咲いたのである。

「監督総局長の仕事はつまらなくて、辞めて法律事務所を開くことも考えた。辞めなかったのは、第一副長官に任命されたからだ。今でもあれがいちばん面白い仕事で、地方の知事らと親交を結んだ」
「FSB長官への任命を聞いた時、うれしいとはとても言えない気持ちだった。私は同じ川に二度も足を踏み入れたくなかった」

■エリツィンの窮地を救い、権力中枢に入り込む

FSB長官時代の九九年三月、プーチンがエリツィン大統領の娘タチアナや夫のユマシェフら「ファミリー」の窮地を救ったのは、有名なエピソードだ。

ファミリーの汚職疑惑捜査を陣頭指揮したスクラトフ検事総長によく似た男が、売春婦二人と性的関係を持っている盗撮ビデオがテレビで放映された。プーチン長官は「鑑定の結果、男が検事総長であることが確認された」と発表。検事総長は退陣に追い込まれ、ファミリーは危機を脱したのである。

この一件はエリツィンに報告され、エリツィンはプーチンの発揮した忠誠心を評価し、注目し始めた。

当時のロシアは、九八年の金融危機で深刻な経済危機に沈み、病弱なエリツィンは完全に政治力を失っていた。社会に絶望感や退廃ムードが広がり、世相は暗かった。首相のプリマコフが台頭し、「ファミリー」はプリマコフが政権を握った際の刑事訴追を恐れていた。エリツィン退陣を前に、強力な後継者擁立の必要に迫られていた。

プーチン擁立に中心的役割を果たしたのが、後にプーチンの政敵となり、英国に亡命する新興財閥のボリス・ベレゾフスキーだったことが、マーシャ・ガッセンの新刊『顔のない男 ウラジーミル・プーチンの異例の昇進』(米ペンギン社)で明らかになった。

モスクワ生まれのガッセンは八一年、ユダヤ系の両親とともに米国に移住。九一年に記者としてロシアに戻り、現在はロシアのネットメディアで働きながら、ニューヨーク・タイムズなど欧米主要紙に寄稿する。

夕暮れの街並み
写真=iStock.com/Lisa-Blue
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Lisa-Blue

■賄賂を要求しなかったのはプーチンが初めてだった

一二年三月一日付で出版された同書は、強烈なプーチン批判の暴露本だ。「プーチンは顔のない小柄で小物の人物。シニカルで暴力的。クレムリンに冷酷なニヒリズムを持ち込み、被害妄想となった。無感情で残酷、慈悲心がなく、腐敗している」と酷評する。

ガッセンは独自取材も含め、プーチン時代に起きた一連のテロ事件や暗殺事件の闇を暴こうとしている。大統領選直前に米国で出版されたことは、クレムリンの陰謀理論を刺激したはずだ。

ガッセンはロンドンでのベレゾフスキーとのインタビューを基に、プーチンの後継擁立の経緯をこう書いた。

「ベレゾフスキーによれば、エリツィン後継候補の顔ぶれはお粗末で、能力も低かった。政治力や野心、発信力のある人材は既にエリツィンを見限っていた。ベレゾフスキーを含むエリツィン周辺のファミリーは焦っていた。

自動車ディーラーから事業を始めたベレゾフスキーは九〇年、ペテルブルクでプーチンに初めて会い、国産車の販売チェーン店設置を要請。プーチンは賄賂を要求せず協力し、好印象を与えた。ベレゾフスキーに賄賂を要求しなかった官僚は、プーチンが初めてだった。ペテルブルクに行くたびに、市役所のオフィスを訪ねた。プーチンがモスクワに来てからも頻繁に会った。FSB本部の長官室にプーチンを訪ねると、プーチンは『盗聴の恐れがある』として、エレベーター内での会話を主張した。

■エリツィンは「彼でいいと思うが…」

九九年初め、ベレゾフスキーが政敵から攻撃されていた頃、プーチンは夫人の誕生パーティーに花束を持って現れた。苦境の友を助ける友情、賄賂を受け取らなかった清潔さ、ペテルブルクでボスのサプチャクを見捨てなかった忠誠心で、ベレゾフスキーは『男の中の男』と評価した。一方で、プーチンを『手下』とみなしていた。

ベレゾフスキーはプーチンを後継候補としてファミリーに提案した。根回しの後、九九年七月、プーチンが家族でバカンスを過ごしていた南フランスに飛んだ。一家が借りていた粗末なコンドミニアムで終日説得し、プーチンは最後に『分かった。やってみよう。しかし、大統領が要請する形にしてくれ』と言った。

プーチンはエリツィンと短時間会った。エリツィンは会見後、『彼でいいと思うが、小柄だな』と言った。二週間後、プーチンは新首相となり、ベレゾフスキーが所有する第1チャンネルで後継擁立キャンペーンが始まった。若く、エネルギッシュで、決断力があるというイメージ作りだった」

エリツィンの身長百八十五センチに対し、プーチンは百六十七センチ。ロシア人にしては小柄で、筋肉質だった。

■恩人を血祭りにあげる

新興財閥のベレゾフスキーは金融・メディア部門を牛耳った政界の黒幕である。「手下」とみなしたプーチンを擁立することで利権の継承を狙ったようだが、すぐに裏切られることになる。

名越健郎『独裁者プーチン』(文春新書)
名越健郎『独裁者プーチン』(文春新書)

プーチンは二〇〇〇年、ベレゾフスキーをクレムリンに呼び、テレビ局の株式譲渡を要求。拒否されると、「それでは、これでお別れだ」と短く言って部屋を出た。その後、検察による追及が開始され、ベレゾフスキーは逮捕を恐れ、英国に政治亡命した。

当時、プーチンは権力維持装置としてのテレビの威力を認識し、テレビ局の経営権掌握を進めていた。メディア統制と新興財閥の排除が目的とはいえ、恩人を平然と血祭りにあげる冷酷さは相当なものだ。

プーチンは〇一年七月の会見で、ベレゾフスキーとの関係を問われ、「昔から彼を知っている。感情を抑えられない行動的な人物だ。永久に誰かを任命したり、蹴落とそうとし続けるだろう。やらせておけばいい」と冷淡だった。

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名越 健郎(なごし・けんろう)
拓殖大学特任教授
1953年、岡山県生まれ。東京外国語大学ロシア語科卒。時事通信社に入社。バンコク、モスクワ、ワシントン各支局、外信部長、仙台支社長などを経て退社。2012年から拓殖大学海外事情研究所教授。国際教養大学特任教授。2022年から現職。著書に、『秘密資金の戦後政党史』(新潮選書)、『独裁者プーチン』(文春新書)、『ジョークで読む世界ウラ事情』(日経プレミア新書)などがある。

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(拓殖大学特任教授 名越 健郎)

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