「私は柔道や日本食が好きだ。しかし…」相手を議論の土俵にすら上がらせないプーチンの常套手段
プレジデントオンライン / 2022年4月6日 10時15分
※本稿は、名越健郎『独裁者プーチン』(文春新書)の一部を再編集したものです。
■ソ連崩壊後に到来した「日本ブーム」
アガニョーク誌は〇六年一三号で、日本ブランド人気について特集を組み、「現在のロシアで、『日本』という言葉は国の名称を離れて一つのブランドとして受け取られている。日本は文化的な手段によって広大な領域を獲得し、ロシア人の心を捉えた」と書いた。
ロシア人はソ連時代から、戦後の経済復興を果たした日本への好奇心が強かったが、閉鎖社会のためアクセスは限定された。史上初めて消費社会に入ったのを機に、空前の日本ブームが到来したのだ。
ただし、日本企業はまだ日本ブームを有効活用できていない。安価な偽ブランドの日本酒や梅酒、日本茶を製造し、ロシア市場で利益を挙げているのは中国企業である。
日本企業のロシア市場進出には、三つのプロセスがあった。ソ連崩壊前後、まずテレビやラジカセなど日本の電化製品が流入し、受け入れられた。第二段階は二〇〇〇年代初期からで、日本車が飛ぶように売れた。〇七年ごろからの第三段階では、ユニクロや電通、資生堂、サントリー、キリン、日清食品といったソフトブランド系企業が進出し、成果を挙げている。
だが、薄型テレビや携帯電話は韓国のサムスンやLGに圧倒され、電化製品も第三世界の製品に取って代わられた。日本側の輸出の七割は自動車であり、輸出の多角化が進んでいない。
冷戦時代、日本は西側で旧ソ連の最大級の貿易相手国で、プラントや機械類の対ソ輸出はお家芸だった。米国がそれを危惧し、東芝機械ココム違反事件など一連のスパイ事件を仕掛けたこともある。
■「親日、親独、親伊」を生んだプーチン体制の矛盾
しかし貿易額は今日、中国、ドイツ、オランダなどに抜かれ、十位前後だ。冷戦期のドル箱だったプラントや機械類は、欧州勢に奪われた。日本商社がロシア市場で、利益率の高い資源貿易ばかりに特化していることにも理由があろう。
「二十一世紀は国家ブランドの時代。グローバル化で世界全体が一つの巨大市場になった結果、国家同士がブランド力をめぐって激しい競争を強いられる」(サイモン・アンホルト英外務省顧問)とすれば、日本は官民合同でロシアの日本ブランドブームを利用する手段を構築すべきだろう。
プーチン時代の経済成長で、日本のほか、ドイツとイタリアのブランドもロシア市場に浸透した。ドイツはロシアにとって最も重要な貿易パートナーであり、市内を走る新車は日本車、ドイツ車が圧倒的に多い。イタリアは現地生産の家電が人気で、イタリア料理店も日本料理店と並んで多い。旧ソ連の敵国だった日独伊はいまや、ロシアの経済・文化・食生活で不可欠な存在となったのである。
〇五年の世論調査では、ロシア人の「好きな国」は、フランス、ドイツ、日本、イタリアの順だった。ソ連崩壊直後は米国がトップだったが、その後凋落した。
この現象は一見、プーチン体制の矛盾のようにも思える。プーチンはロシアの新しい国家理念として、第二次大戦の戦勝をプレーアップする民族愛国主義政策を推進した。しかし、一般ロシア人が今日、すっかり「親日、親独、親伊」になり、敗戦国のプレゼンスがこれほど拡大しているのは、考えてみれば皮肉だ。
■二島引き渡しは「義務だ」と答えるも…
だが、プーチンの柔道を通じた親日家ぶりやロシアの日本ブームも、肝心の北方領土問題には影響がなかった。プーチン時代十二年の北方領土交渉は進展がなく、メドベージェフが一〇年十一月、最高指導者として初めて国後島を視察するに及んで、政治関係は冷戦後最悪の段階に落ち込んだ。ソフトの人気は、外交のハード部門を変えるには至らなかった。
最初は日本側に期待を抱かせながら、挫折するパターンは、ゴルバチョフ、エリツィン時代と同様だった。国民は親日でも、政権の安定と延命、領土保全を至上命題とするKGB政治には、領土返還は厚い壁となった。
プーチンの領土問題での一枚看板は、二島引き渡しによる最終決着方式だ。
ロシア外務省筋によれば、二〇〇〇年九月の訪日前、プーチンは日ソ両国が国交を回復した五六年首脳会談の文書を公文書館から取り寄せて読み、自分で調べたという。
五六年共同宣言は、「平和条約締結後に歯舞、色丹両島を善意のあかしとして日本に引き渡す」ことを明記している。プーチンはパノフ駐日大使に「これは批准された文書なのか」と尋ねた。
大使が「その通りです」と答えると、プーチンは「それなら、(二島引き渡しの)履行は義務だな」と答えたという。以来、二島返還論はプーチンの対日戦略となった。
だが、二島だけなら、四島全体の七%にすぎず、五十年以上前に決着できた。その後、両国間では「法と正義の原則に基づき、四島の帰属を確認して平和条約を締結する」との九三年の東京宣言など新しい文書、宣言が調印されている。日本としては「二島最終決着」は到底受け入れられないシナリオだ。
■プーチンの意思を読み切れなかった日本
〇一年三月のイルクーツクでの森首相との首脳会談では、五六年宣言や東京宣言を尊重するとしたイルクーツク声明に署名した。
この時、プーチンは森首相に「五六年宣言への言及はロシア首脳として初めての困難な発言だった。国民には、宣言自体を知らない人も多い」「今は難しいが、自分がもう一期大統領をできれば、二島を返還できるよう全力を挙げたい」と語りかけた。
〇二年十月、訪露した川口順子外相に対し、プーチンは「過去からの問題が残っているために平和条約がないことはまことに悲しむべきことで、辛いといっても過言ではない。いや、最も遺憾なことである。日露で一緒に取り組んでいきたい」と意欲的だった。
柔道愛好家のプーチンは日本に敬意を持ち、領土問題にも真剣に取り組んでいるとのイメージを日本に与えた。だが、日本側は二島で最終解決とするプーチンの意思を十分読み切れていなかった。
流れが変わったのは、〇五年九月二十七日の「国民との対話」だった。プーチンが鳴り物入りで出演する「対話」は正午ごろ始まり、時差の関係でまず極東が登場するが、この時は北方領土を統括するサハリン州から最初の質問が出た。
![赤の広場](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/f/8/670/img_f81eef3a089c28e1144999bcde44185b4345547.jpg)
■「日本との問題をどう解決するのですか」に対し…
【質問】「デニースです。サハリン国立大学の二年生です。出身はユジノクリリスク(国後島の古釜布)で、サハリンで学んでいます。多くの仲間が島からサハリンに来て勉強しており、共通の質問があります。卒業後はクリール(千島)に貢献したいです。質問は、われわれの島をどう発展させ、まともな生活、まともな仕事をするにはどうしたらいいですか。それと日本との問題をどう解決するのですか」
【プーチン】「日本とのどんな問題かな」
【質問】「南クリールを日本に引き渡す問題です」
【プーチン】「われわれは極東発展の連邦計画を推進しており、それをやめることは一切ない。だから、君や仲間は安心してそこで生活し、学び、働いて欲しい。日本との南クリールの四つの島をめぐる問題だが、これらはロシアの主権領土であり、そのことは国際法で確定している。それは第二次世界大戦の結果の一つだ。この点について討議する必要は全くない。この立場に基づいて、交渉する用意があり、現に交渉している。
われわれは日本を含むすべての隣国との国境問題を解決したい。日本とは善隣関係があり、毎年強力になっている。両国とも、経済、文化、ビジネス関係を発展させたい客観的理由がある。君が提起した問題はむろん、両国にとって微妙な問題だ。善意を示せば、両国や両国国民、島の住民に利益のある解決策を探せると思うし、できると確信している」
■「私は柔道や日本食が好きだ。しかし……」
過去十回の「対話」で、北方領土問題に正面から言及したのはこれが初めてだった。入念に準備された国民注視の舞台装置で、日本との領土問題で重要メッセージを発信する効果を狙ったようだ。対話での発言は、プーチンの国民への公約であり、首脳会談での発言より重みを持つ。
一〇年の「対話」でも、プーチンは番組の最後に自分で質問を読み上げた。
「日本からも沢山の質問が来ている。なぜ日本からなのか不明だが、彼らは島の問題や日本食、柔道について尋ねている。私は柔道や日本食が好きだ。しかし、そこで線を引いておくことにしよう」
領土問題は〇五年の回答で尽きているので、あえて答える必要はないと考えたのだろう。新生ロシアの最高指導者が「(四島領有は)大戦の結果であり、国際法で確定済み。その点を討議する必要はない」と踏み込んだのはこの時が初めて。発言は、それまで両国が細々と積み上げてきた成果を一気に破壊してしまうほどの意味合いを持つ。
旧ソ連の指導者は「(ソ連の領有は)大戦の結果だ」と主張しており、先祖返りとなった。ゴルバチョフやエリツィンは日本の立場を尊重し、「大戦の結果」と突き放すことはしなかった。領土問題解決に前向きだったエリツィンは「勝者が敗者から領土を奪ってはならない」と述べたこともある。
■「大戦の結果」を強調して国民の愛国心を刺激する
〇五年の発言は、二カ月後にプーチンの公式訪日を控えていただけに、日本側にショックを与えた。案の定、ロシア側は訪露に伴う共同声明を出さない方針で臨み、小泉首相との首脳会談は低調な内容だった。
「対話」でのプーチン発言は、政治家や官僚にトーキング・ポイントを与える。ラブロフ外相は一二年一月、「四島は第二次大戦の結果、法的根拠に基づきロシア領となった。日本はこの現実を認めるべきだ」と述べた。七年前の発言要領は、今も生きている。
「大戦の結果」発言の裏には、戦勝意識の高揚があった。プーチンは〇五年五月九日の対独戦勝六十周年記念式典を盛大に祝賀。日独伊の敗戦国を含む約六十カ国首脳をモスクワに招き、赤の広場で軍事パレードを実施した。
プーチンは演説で、モスクワ攻防戦、スターリングラード攻防戦、レニングラード包囲戦、クルスクの戦いなど独ソ戦の激戦地を列挙し、「ソ連赤軍は英雄的勝利を収め、欧州を解放した」「戦勝の輝かしい記念日を子孫に引き継いでいく」と強調した。
大戦中の旧ソ連の死者は二千七百万人に上り、世界全体(約五千万人)の半分以上を占める。この巨大な犠牲を払った勝利を誇示し、愛国心高揚を図って政権安定に利用する狙いがあった。
■「領土の代わりに、死んだロバの耳をくれてやる」
ロシア特有の民族愛国主義が高揚すると、手が付けられない。特に、他国からの領土返還要求は禁句だ。
プーチンは〇五年の戦勝記念式典後の会見で、バルト三国のラトビアがロシア領となった隣接地域を「固有の領土」として返還要求していることをエストニアの女性記者から質問され、「領土の代わりに、死んだロバの耳をくれてやる」と薄汚い言葉でののしった。厳しい質問にカッとなった時、プーチンが発する独特のスラングだが、大統領府のサイトではこの表現は消されていた。
プーチンはさらに、「固有の領土と言うなら、クリミア半島(ウクライナ)やクライペダ(リトアニア)はどうなる。ロシアの固有の領土を返してくれ」と毒づいた。
ロシアがソ連解体によって固有の領土を失ったことを強調し、日本の「固有の領土」論がロシアには通用しないことを暗に示唆した発言だ。
この会見でプーチンは、「大戦前のソ連によるバルト三国併合をなぜ謝罪しないのか」との質問にも色をなして反論した。
■外交舞台で謝罪することはほとんどない
「一九八九年のソ連人民代議員大会で採択された決議を読んでみたまえ。決議は三九年の(バルト併合を決めた)独ソ不可侵条約を法的に無効だと書いている。条約はスターリンとヒトラーの個人的な密約であり、ソ連国民の意見を反映していない。
![名越健郎『独裁者プーチン』(文春新書)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/d/f/200/img_df5234d68bf7eb683c7ce79bcb163c5184324.jpg)
われわれは毎年、この言葉を繰り返さねばならないのか。この問題は片付いており、立ち戻ろうとは思わない。一度謝れば十分だ。当時の国際関係の現実では、バルト三国は大国間取引の小銭だった」
スターリン膨張主義の被害者という点で、日本とバルト三国の立場は似ている。さすがに日本に対しては「死んだロバの耳」のような発言はなかったが、問題をスターリンの責任に回避させ、現世代に責任はないとの発想がみられる。
「一度謝れば十分」との発言は、日本人のシベリア抑留問題にも当てはまる。六十万人の旧日本軍将兵がソ連で強制労働に服した抑留問題で、エリツィンは九三年の訪日時、「全体主義の残滓だ。非人道的な行為であり、深くお詫びする」と各方面で頭を下げて回った。
だが、プーチンは抑留問題で一度も謝罪していない。そもそも、プーチンが外交舞台で謝罪することはほとんどない。
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拓殖大学特任教授
1953年、岡山県生まれ。東京外国語大学ロシア語科卒。時事通信社に入社。バンコク、モスクワ、ワシントン各支局、外信部長、仙台支社長などを経て退社。2012年から拓殖大学海外事情研究所教授。国際教養大学特任教授。2022年から現職。著書に、『秘密資金の戦後政党史』(新潮選書)、『独裁者プーチン』(文春新書)、『ジョークで読む世界ウラ事情』(日経プレミア新書)などがある。
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(拓殖大学特任教授 名越 健郎)
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