呼吸が苦しく酸素吸入が必要な妻を手伝おうとしない…「妻の体調に興味がない夫」の無自覚な怖さ
プレジデントオンライン / 2022年4月6日 11時15分
■「本人が認識しているよりずっと悪い病態」
ピンク色のカーディガンと頬紅がよく似合う、かわいらしい雰囲気の高齢女性が玄関まで出迎えてくれた。
肺をはじめさまざまな疾患を抱えているというが、ぱっと見はそれほど状態が悪いようには見えない。しかし事前に千場純医師から「本人が認識しているよりずっと悪く、呼吸不全も起き得る病態」だと聞いていた。もともと複数の疾患を抱える上、一時期は気胸(何らかの原因で肺から空気が漏れ、肺がつぶれてしまう病気)も患って緊急入院をしたが、今は退院し、再び家で暮らせているという。今日は3回目の訪問診療だった。
「痛いところはないですか?」と、千場医師が尋ねると
「ないけど、時々息が苦しくはあるようです」と、看護師に血圧を測られている女性の代わりに、その夫が応えた。どこかひとごとの口調だ。
「時々をどうやったら抑えられるか。できるだけ苦しいことがないほうがいいもんね」
千場医師が女性に向かって言うと、
「そうね、それで機器(在宅酸素)を、入れて、もらってね」
と、途切れ途切れに女性が応える。やはり息が苦しいのだ。
■自宅で酸素供給機器を使用する「在宅酸素療法」
室内には酸素供給機器が置いてある。例えばCOPD(慢性閉塞性肺疾患)の患者は、肺の機能が著しく低下することにより、血液中の酸素が不足し、「呼吸不全」になることがある。そのため病院以外の場所で酸素供給機器を使用する「在宅酸素療法」を行う。呼吸が改善し、心臓の負担が軽くなるので、入院回数も減らすことができる。
「動く15分前に使ってもらうといい。たとえばトイレ行く時とか、階段をのぼる時などはその動作の前に酸素を吸ってから行ったほうがいいでしょう」(千場医師)
その後、腹式呼吸の練習や、むくみのチェックが行われた。千場医師が「苦しい時はロウソクを吹き消すようにふーっとするといいですよ」とアドバイスをする。
「そうやって鍛えると(肺の状態が)変わるんですか?」
女性が尋ねた。千場医師は女性を見つめた。
「身長150センチは150センチのままだし、年齢も80歳の人が20歳になることはありません。その体は変わらないですが、今あるものを大事に使うということです。中古車と同じですよね。使えるように手入れして……」
■「家事は全部奥さんに任せてきたんですね」「ええ」
続けてこうも言う。
「それからやっぱり体力勝負なんですよ。呼吸が苦しいと痩せちゃって、それでますます呼吸が苦しくなってしまいます。だから量が食べられない方は脂肪が多いものを取ったほうがいいでしょう」
「うちは魚が多いからねぇ……」と、女性がつぶやく。
「食事はどなたが作られるんですか?」
私が話しかけると、「女房が作っています」と夫が応えた。
「家事は全部奥さんに任せてきたんですね」
千場医師の言葉に、夫が「ええ」と、うなずく。千場医師は夫に向き合った。
「じゃあご主人は負担なことはありませんか?」
「ありませんね。今のところ」
■訪問診療中、夫が椅子から動くことは一度もなかった
30分の訪問診療中、夫が椅子から動くことは一度もなかった。怒ることはないようだが、自分から質問したり、行動したりということがない。千場医師や看護師から聞かれたことには応える。書類にサインを頼まれればする。
けれども妻が息を切らしながら室内の物を取りに行っても、代わってあげようとは思わないらしい。妻も妻で、私が取ってあげようと腰を浮かしたが、「どうぞどうぞ座っていてください」と、制されてしまった。千場医師が言うように「自分の体がそこまで深刻な状態だと思っていない」ようだった。息切れはしても、妻は終始ニコニコ。しかし夫は、ずっと無表情だ。
夫が笑顔を見せたのは、千場医師が“仕事の話”に水を向けた時だった。こんな仕事をしていて、こんな場所に住んでいて、とよくしゃべる。
「それで定年後にここに移られたんですね」
千場医師が話を“現在”に戻すと、「はい」と夫はうなずき、再び真顔になった。
「何か楽しみなことはありますか?」
私は妻のほうを向いて尋ねた。
「以前はボランティアで歌をうたったり、楽器を弾いたりしたのよ」と、妻。
それでは今は? という言葉を私は飲み込む。その質問は、「自分は孤独ではない、不幸ではない」と思っているはずの彼女を、傷つけるような気がしたからだ。
■「典型的な昔のサラリーマン夫婦ですよね」
夫婦ともに身なりはきちんとしている。家の中もきれいに片付いている。ただ、お互いに目を見つめて笑い合ったり、話し合ったり、ということが一切ないのは寂しい気がした。「楽しかったこと」も、それぞれがすべて一人で楽しんできたことなのである。
「典型的な昔のサラリーマン夫婦ですよね」と、車に戻った千場医師が振り返る。
![「まちの診療所つるがおか」の千場純医師](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/8/2/250/img_82ef87296eb1d1ae9576c4450ed2db56448442.jpg)
「ご主人は有能なサラリーマンで、現役時代はそこそこの収入があって、家を建てた。奥さんは子供を育て、家事を全て担ってきた。奥さんは今何とか家事ができていますが、できなくなった時にご主人が立ち往生する可能性があります」
千場医師は「一人で死ぬことと、孤立死は違う」と強調する。
「がん末期でひとり暮らしの60代男性がいました。がんの治療を受けているうちに転移が見つかり、やせ細って、自宅で動けなくなっていたところを民生委員が見かねて市役所に連絡し、私のところに連絡が入ったのです。急いで駆けつけ、さまざまなケアプランを提案したものの拒否され、『とにかく一人にしてほしい』と言うのです。極力邪魔にならないよう訪問を続けていたのですが、それから1カ月後に亡くなりました。ですが、息を引き取った後に多くの友人が偶然訪ねてきたのです。亡くなった状況は一人でしたが、寂しかったとは限らず、あえて一人で死を迎えたのかもしれません」
■ひとりきりの終末期を過ごしたほうが安らかなことも
反対に、周囲に人がいても家族から孤立していく中で迎える死のほうが悲しさを感じるという。
「がんを患い、自宅にいることを希望する夫に対し、それを拒否する妻もいました。『夫は亭主関白で、これまでさんざん苦労させられた。これ以上苦労をかけさせられたくない』と言うのです。本人が適切に夫婦関係を保てなかった結果ということもありますし、家族の都合で患者さんの意思を尊重せず、無断で療養場所を決めてしまうこともあります。そんなつらい目にあうくらいなら、ひとりきりの終末期を過ごしたほうが安らかに死を迎えられるかもしれません」
その時、私は考えた。もし自分が妻側の立場、つまり死に向かう患者で、だんだん家事や日常生活が普通に送れなくなって、それでも家で過ごしたいと思っても、この夫のように家族が無関心で何もしてくれなかったら、どうしたらいいだろう。
「地域の訪問看護ステーション(訪問看護を行う看護師や保健師、助産師などが所属している事業所)を探して、利用してください」
と、地
■「尊厳をもって生きるほうが、大変なんですよね」
「ここ横須賀市は、“誰も一人にさせないまち”を理念に掲げています。在宅療養を希望する人が6割以上いて、みなさんよい訪問医を求めていますが、訪問看護ステーションなら24時間365日稼働していますし、さまざまな家で過ごすフォローができます。体のことだけでなく、社会的なことまで関われるように、みんなで努力しています」
![「まちの診療所つるがおか」で訪問看護に奮闘する佐藤清江看護師](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/0/3/250/img_03fcd244acae0e39fc4bd72ff37a7ba1277080.jpg)
今回紹介した妻は「日本尊厳死協会」に入会していて、死期が迫った時に「延命治療を断る」という強い意志を持っていた。
人工呼吸器や胃ろうなどによって「生かされる」のではなく、安らかで自然な死を迎える――そんな希望をもって妻は自ら調べて、千場医師に連絡をとったのだという。
「死ぬ時のことも大事ですけど、尊厳をもって生きる。そっちのほうが大変なんですよね」
千場医師の言葉に、私は深くうなずく。死ぬ瞬間よりも、いかに最期に向かう日々を心地良く過ごすか。夫も妻も自分たちは不幸でない、孤独でないと感じているかもしれない。けれど妻はおそらく一抹の寂しさを感じている。夫は妻の死後に初めて孤独を感じ、孤立する可能性が高いだろう。(続く。第13回は4月7日11時公開予定)
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ジャーナリスト
1978年生まれ。「サンデー毎日」記者を経て、2018年よりフリーランスに。著書に『週刊文春 老けない最強食』(文藝春秋)、『救急車が来なくなる日 医療崩壊と再生への道』(NHK出版新書)、『室温を2度上げると健康寿命は4歳のびる』(光文社新書)など。新著に、プレジデントオンラインでの人気連載「こんな家に住んでいると人は死にます」に加筆した『潜入・ゴミ屋敷 孤立社会が生む新しい病』(中公新書ラクレ)がある。
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(ジャーナリスト 笹井 恵里子)
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