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アディダスでも、ナイキでもない…昭和のサッカー少年が愛した「国産スパイク」を覚えているか

プレジデントオンライン / 2022年4月12日 7時15分

安田のかつての製品カタログ。 - 資料提供=YASUDA

■日本サッカー協会が伝えた2代目経営者の訃報

2月下旬、日本サッカー協会(JFA)からメディア関係者向けに、こんなニュースリリースメールが送信された。

「東京都サッカー協会顧問(元会長)で、元JFA評議員、元国際審判員(1961年~1988年)の安田一男氏(享年89歳)が2月17日にご逝去されました。ここに謹んで哀悼の意を表し、お知らせいたします。」

一見、ほとんど名前も知られていない往年のJFA関係者の訃報のように思える。しかしこの安田氏には、もうひとつの顔があった。

彼は国産サッカーシューズメーカー、「株式会社安田」の2代目経営者でもあったのだ。現在40歳あたりから上の元サッカー少年であれば、ヤスダと聞けば「ああ」と懐かしく思い出す方も多いだろう。

かれこれ20年ほど前、私は安田の歴史を取材したことがある。当時東京都サッカー協会会長だった一男氏御本人、かつての安田社員、同社製品を扱っていた全国の小売店、同社のシューズを愛用していた選手らをインタビューして回り、同社編纂の社史や歴代のカタログ、過去のサッカー専門誌に掲載された安田の製品広告にも当たったものだ。

今年2022年はくしくも、安田の前身である安田靴店の創業から数えてちょうど90周年となる。亡くなった一男氏への手向けの意味も込め、戦前から平成までの長きに渡って日本のサッカー選手の足元を支え続けてきた安田の歴史を振り返ってみたい。

■「町の靴店」が作った国産スパイク

一男氏の父、安田重春は1932(昭和7)年、21歳で東京・小石川竹早町、現在の文京区小石川4丁目に「安田靴店」を開業した。どこにでもありそうな、町の靴屋だった。だがこの店は、よそにはない特徴を持っていた。上質なサッカーシューズを作ることができたのである。

重春が独立前に修行していた靴屋は、紳士靴製造の片手間にサッカーシューズを作っていた。当時の日本に専門メーカーなどというものはなく、限られた靴屋が特注品として手作りしていたのである。

腕のいい職人であり、修業先ではサッカーシューズ担当だった重春が自らの店を構えると、彼に付いていた顧客がそのまま移ってきた。早稲田、慶応、立教、旧制中学では五中(後の小石川高校。現・小石川中等教育学校)、高師付属(現・筑波大学付属高校)、暁星などのサッカー部員たちである。

そして彼らが大学に進学したり、教員となったりして地方に散ると、その土地で自身が愛用するシューズを周囲に勧め、東京の安田まで注文が舞い込むようになった。

この頃のスタッド(靴底のスパイク)は、多層に重ねた硬い革を型抜きしたもの。それを革底に釘で打ち付けていた。うるさ型の客は少しでもダッシュやストップが効くよう、どこにスタッドを配置するかなどをこと細かく指示してきた。

よく店に顔を見せていた旧制東京高校のある部員もそんな一人で、年端もいかぬくせに熟練職人の仕事にあれこれと注文をつけていた。後に大阪フィルハーモニー交響楽団の音楽総監督となり、世界最高齢の指揮者として名を馳せた、朝比奈隆の若き日の姿である。

■選手たちの憧れ…東京の「安田」、神戸の「佐藤」

第2次世界大戦後の日本の復興とともに、安田靴店は商品をほぼサッカーシューズ一本に絞る。平和が訪れた日本で、ますますサッカーが普及していくだろうと踏んだのだ。まだまだ町の靴屋の面影を残していたが、1953年には店を会社組織にし、名称も「株式会社安田」と改めた。

戦前から終戦直後にかけて、日本のサッカーシューズは安田と神戸の「佐藤」が双璧とされていたという。ただ東京の方が情報が集まりやすく、目の肥えた厳しい客に鍛えられている分、安田の靴に軍配を上げる選手が多かった。

だから関西の学生にとって、全日本大学選手権などで東京を訪れた際に安田へ立ち寄り憧れのシューズを購入するのは、大きな楽しみだった。当時の強豪、関西学院大のメンバーだった平木隆三(元日本代表、名古屋グランパス初代監督)もその一人である。

彼は安田を訪れる客の中でも、シューズ改良に関する熱心さでは群を抜いていた。のちにはくるぶしまでのブーツ型が主流だったアッパー(甲皮)を、海外選手の写真や野球のスパイクを参考にして日本でいち早く短靴型にさせたりと、様々な創意工夫を思いついては自身のシューズに反映させ、やがてそれが店のスタンダードになっていった。

■街の靴店からサッカーシューズメーカーへ

1960(昭和35)年、体調を崩した重春に代わって長男の一男が勤め先を休職し、急場の家業を支えた。早大サッカー部OBでいすゞの社員であった一男は父の回復後もいすゞへは戻らず、そのビジネス感覚を生かして以降の安田の経営面を担当するようになる。

安田が家内制手工業的な靴店からサッカーシューズメーカーへと躍進を遂げた転機には、鎌田光夫(元日本代表、1968年メキシコ五輪銅メダルメンバー)が関わっている。

60年、日本代表は欧州遠征を行った。帰国後、参加選手の一人だった鎌田が、

「こんなのがあったよ」

と、西ドイツ土産の1足のサッカーシューズを安田に持ってきた。ヨーロッパで出回り始めていた、アディダス製のゴム底マルチスタッド・シューズである。

革製のスタッドのように交換は効かないが、ゴム製で多数のスタッドを持つソール(靴底)の方が、日本の硬い土グラウンド上では数倍長持ちすることは明らかだった。

父に代わって経営の指揮を執り始めた一男は、

〈今のように一足一足手作りするやり方では、この先商売として成り立っていかない〉

という不安を抱えて、将来を模索していた。そんな時目にしたのが、アディダスの黒いゴム底である。彼は、職人仕事の良さは残しながらサッカーシューズを工業製品として量産しよう、と決心した。

ゴム底を製造できる工場を説得し、協力を取り付けた。パンプスやハイヒールなど婦人靴の隆盛のおかげで、日本で良質の接着剤が作られるようになったことも、商品化の追い風になった。

■外国製品を見習って大躍進

翌61(昭和36)年から発売された国産初のゴム底サッカーシューズの名は〈DL〉。続いて〈TOKYO〉というモデルも出した。

外観は手本にしたアディダスと瓜二つ。DLには黒地に白の2本ラインが、TOKYOには3本ラインが入っていた。これらは爆発的に売れ、問屋からもひっきりなしに大量注文が来るようになった。安田の経営規模は一気に拡大し、サッカーシューズ業界での地位を不動のものにした。

商標権や製法特許など、日本人のほとんどが気にしていなかった時代である。サッカーシューズのみならず様々な分野の製品が、欧米の一流品を真似して作られていた。

今でこそ独創性の象徴のように言われる日本発の国際的企業がいくつかあるが、彼らにしても臆面もなく模倣品を作っていた過去と無縁ではない。戦後の日本工業はパクリから出発し、それらの製品によって日本人の生活は底上げされていったのだ。

1964(昭和39)年の東京五輪と前後して、古参の安田の他にもミツナガ、オニツカ(現・アシックス)、モンブラン、タチカラ、ヤンガー、ウシトラ、美津濃(現・ミズノ)といったメーカーのサッカーシューズも登場するようになった。これらの靴の中には黒一色であったりオリジナルデザインのラインを持っているものもあったが、涼しい顔をして白い3本線をまとっているものが少なくなかった。

■アディダス風の3本ライン、プーマ風の靴も

当の安田は68(昭和43)年から、プーマのラインをそっくりいただいたシューズも製造するようになっていた。

モデル名は〈4-2-4〉。ナイロンソールで、取り替え式のアルミスタッドを持っていた。ゴム底だけでなく、取り替えスタッド用のナイロンソールも、アッパーと固定スタッドソールを一体成型するインジェクション製法も、国産メーカーでの導入は安田が最初だった。

アディダス風3本ラインとともに、このプーマ風ラインの靴もその後の安田のカタログを10年ほど飾った。なんとこのモデルの雑誌広告には、誇らしげに「プーマライン」(!)の文字が躍っているのだ。

商社の兼松江商(現・兼松)がアディダスのシューズの日本総販売代理店となるのは67(昭和42)年。同じく商社のリーベルマン・ウェルシュリー(現・コサ・リーベルマン)がプーマのシューズを日本に導入したのは72(昭和47)年。しかしそれ以前の60年代後半、ドイツ系商社経由でアディダスのサッカーシューズを輸入し、日本で一手に引き受けて販売していたのは安田だったのだ。

そしてプーマに至っては、安田は60年代後半から70年代中ごろまで、日本における総代理店となっていた。

■「本家」に手が出せない中高生の味方に…

安田製品の広告に「プーマライン」のコピーを付けることなどまだかわいい部類で、サッカーマガジン70(昭和45)年6月号における安田の見開き広告など、右で本物のプーマの商品を、左で3本ラインやプーマラインが付いた自社商品を掲載しているのである。

右ページの〈ネッツァー・スーパー〉は1万1000円。左ページにある、ほとんど外観が同じの〈4-2-4〉は4600円。ギュンター・ネッツァーやエウゼビオに憧れながら、値段の高さや先輩からの視線恐さ、あるいは日本人特有の幅広甲高の足の持ち主であるがゆえ、泣く泣く安田で我慢した全国の中高生部員は数え切れない。

アディダスの取り扱いは兼松江商に取って代わられたが、リーベルマンが扱い始めてからも、70年代中ごろまで安田はプーマの総代理店だった。リーベルマンと別系統で輸入販売を行っていたからだ。そしてこの頃はまだ、安田がアディダスやプーマのラインを真似しても、本家からのクレームはなかった。

日本における商標権管理の甘さが、黙認されていた時代でもあった。そしてアディダスもプーマも、日本市場をまださほど重要視していなかった。

■「ドイツの両巨人」が類似品を黙認したワケ

さらに、彼らが強く出られない理由があった。当時、サッカーシューズは使い捨てではなく、修理を重ねてボロボロになるまで履くものだった。

しかし日本市場に参入して日の浅い両ブランドの総販売代理店には、修理用の部品も器具も技術もなかった。それを引き受けていたのが、安田をはじめとする国産メーカーだったのだ。

アッパーの破れは自社の革をあてがえばいい。スタッド用の金具の交換にしても、国産メーカーはアディダスやプーマが使っているのと同じドイツ製の外注部品を付けていたから流用できた。縫製のほつれやソールのはがれ? 修理のうちにも入らない。

こうした対応を知っているから、ドイツの両巨人は自社のキャラクターラインを盗用されても大目に見ていたのである。

しかし日本における商標権管理が厳しくなり、代理店がシューズ修理に対応できるようになると、徐々にそれも容認されなくなっていった。

ただそれはもう少し先、80年前後まで待たねばならない。

■初めてのプロ選手との契約

73(昭和48)年8月、安田はメキシコW杯でペレとともにブラジル優勝に貢献したドリブルの名手、ジャイルジーニョとアドバイザリー契約を結ぶ。ブランド知名度をさらに高めるための、安田初のプロ選手との契約だった。

そして翌74年には、彼をイメージした〈ジャイール〉というシリーズのシューズが発表される。その年のカタログの表紙を飾ったのももちろん、カナリア色の代表ユニフォームを着た彼の写真だった。

ジャイールには、これまた安田初のオリジナルラインが奢られていた。初のプロ選手契約も締結したことだし、もう海外メーカーのコピーでもあるまい、との声が社内で高まったからだ。

しかし出来上がってきたのは……〈プーマラインが稲妻型になった〉としか表現しようのない、なんとも奇天烈なデザインだった。

この「ジャイールライン」、カタログには彼の「鋭い切れ味のドリブルプレーをイメージした」と書かれているが、誰がどう見てもプーマの亜流感は否めなかった。

■ブランドイメージを高めようとしたが…

しかも正式に契約書を交わし、イメージキャラクターとなったジャイルジーニョを日本に呼んで記者会見まで行ったにもかかわらず、当の本人が履いてくれなかった。

同じブラジル代表でも、ペレは律儀に世界中で自身の契約メーカーであるプーマを履いていたのに、国際的な知名度のないブランドということで軽く見ていたのか、単に性格がちゃらんぽらんというのか……どうもジャイルジーニョは、安田との契約を日本限定の小遣い稼ぎ程度にしか考えていなかったようなのである。安田の社員がサッカー雑誌に掲載されるブラジル代表戦の写真を目を凝らして見ても、ジャイルジーニョの足元に稲妻が走っていたことは一度としてなかった。

往年の安田の製品カタログ
資料提供=YASUDA
往年の安田の製品カタログ。安田はサッカーシューズだけでなく、野球のスパイクやラグビーシューズ、アメリカンフットボールシューズも手掛けていた時代がある。 - 資料提供=YASUDA

これに懲りた安田は、ジャイルジーニョとの契約を75(昭和50)年いっぱいで打ち切る。しかしジャイールシリーズはその後も継続され、80(昭和55)年まで稲妻ラインのサッカーシューズが製造された。

75~84(昭和59)年の10年間、安田には〈ダイヤモンド・ウィルス〉というシリーズの野球用スパイクを作っていた時期がある。中でも77(昭和52)年、78(昭和53)年はプロ野球の日本ハムとチーム契約まで結んでいた。そのスパイクというのが、ジャイールラインだったのである。

チームカラーに合わせ、青地に白ラインと白地に青ラインの2パターンが提供された。当時の日ハムには高橋直樹、富田勝、ミッチェルらがいて、島田誠は売り出し中の若手。大沢親分の第1期監督時代であった。

■シューズだけで1日1500万~2000万円を売り上げる

78(昭和53)年、新たな安田オリジナルラインが生まれた。

前進をイメージしてデザインされた、カーブを描く2本線。最初にこのラインが採用されたシューズの名が〈エクセル78〉であったことから、社内的には「エクセルライン」と呼ばれた。同年の安田のカタログには3本ライン、プーマライン、ジャイールライン、そしてエクセルラインと4種ものキャラクターラインが混在していて、誠に壮観である。

安田製品はいつの時代も、値段の割に品質が高いことで定評を得ていた。80年代初頭には、シューズだけで1日1500万~2000万円の売り上げがあったという。

当時一番のヒットモデルは、〈クリエイター〉シリーズの〈YX-6〉だ。黒地に黄色のエクセルライン。アッパーは軽さや通気性や足馴染みの良さからサッカーシューズ素材として最高とされているカンガルー革で、ポリウレタンの固定式インジェクション(一体成型)ソールが組み合わされる。

これだけ贅沢に作っていながら、価格はわずか9800円。売れない方がおかしいというものだ。

80年代の安田の稼ぎ頭、「クリエイターYX6」(値段は後の価格改定後のもの)
資料提供=YASUDA(1982年版カタログより)
80年代の安田の稼ぎ頭、「クリエイターYX6」(値段は後の価格改定後のもの)。このシューズがヤスダの代名詞的なモデルだったことから、1988年に新会社として再出発する際、「クリエイター」の一部を採って社名が「クリックスヤスダ」となった。 - 資料提供=YASUDA(1982年版カタログより)

■実業団、代表クラスの選手がライバルに流れ出す

だが日本サッカーリーグ、日本代表といったトップレベルでの占有率は、70年代に入るとかなり低下していた。

アディダス、プーマはそのステータス性から相変わらず着用者が多かった。国産のオニツカ(現・アシックス)もぐんぐん品質を上げ、しかも広告で高級感を演出するなどして、サッカーでも国内トップメーカーとなるべく攻勢をかけていたから、選手人気は高かった。

彼ら実業団プレーヤーはメーカーからシューズを支給されるので、値段など関係なく、純粋に自分の好みでブランドを選ぶことができた。

安田はこれに対し、あくまでも自分で金を払ってシューズを買ってくれる層に照準を合わせた。

質実剛健の職人気質は創業当時からの社是であるし、派手なプロモーションをしたくても国内市場のみを相手にしたサッカー専門メーカーだから、資金力や人材リソースには限りがあったからだ。

■ターゲットは、トップレベルから中高生に

中でも安田が力を入れたのは、中高生である。まず、パイが大きい。そして彼らは親からもらった金や自分の小遣いでシューズを購入する分、コストパフォーマンスというものを考える。

とにかく、うちのシューズを履いてみてほしい、履いてもらえれば絶対に良さはわかってもらえるから――安田の営業マンたちはそんな自信を持っていた。戦前から日本人の足を触りながら、日本人の足に一番合うようにと靴を作り続けてきた会社だ。履き心地やキックの際の感触は一番なのだ……。

だがその、履いてもらうまでが大変だった。憧れの外国人プレーヤーと同じ靴を履きたい。かっこよく見える靴がほしい。有名なブランドがいい。こんな欲求の前では、安田のコストパフォーマンスやフィット感は必ずしも効力を発揮しなかった。

サッカー少年・青年の心の中では、いつしか安田はかつてのような「プライドをくすぐる」ブランドではなく、「ちょっと、あか抜けない」ブランドになってきていた。

■青×黄の帝京モデルを生んだ全国高校選手権

安田にとって営業上重視せざるを得ないイベントが、全国高校選手権だった。

80年代までは日本代表や日本リーグの試合よりはるかに人気があった。テレビの全国中継もある。シューズが画面に映れば、主力ユーザー層である中高生へのアピールも大きい。選手権に出場するような強豪に食い込むため、安田は様々な努力を続けた。

例えば会社の規模の小ささ、つまり生産ロットの少なさを生かして、各校のユニフォームの色に合わせたカラースパイクを提案した。今でこそ当たり前になっているが、スパイクのアッパーに黒以外の色を使うのは当時、世界でもほぼ前例がない試みだった。

安田のカラースパイク、と言えばオールドファンの多くが思い浮かべる青×黄の帝京モデルも、そこから生まれたものだ。

ヤスダの1980年版カタログ
資料提供=YASUDA(1980年版カタログより)
今でこそ各メーカーともカラフルになっているが、1990年代半ばごろまでサッカーシューズのアッパー(甲皮)といえば黒ベースと決まっていた。そんな中、ヤスダは1980年代からカラースパイクを積極的に展開していた。 - 資料提供=YASUDA(1980年版カタログより)

さらに国体やインターハイの会場にもまめに足を運び、各チームの指導者たちと親交を結んだ。部活動では監督・部長の一存でチームスパイクやユニフォームが決定されることが多いからだ。

自社工場が会社の近くにあったから、営業マンは工場で職人の作業ぶりを見たり聞いたりするうち、簡単な修理なら自分で行えるようになった。各地の小売店に営業に行った際、たまたま修理のシューズが持ち込まれたりすると、彼らは客の前で手早く直してよく感謝されたものだ。

■地道な販促活動に頼らざるを得なかった

それはもちろん、小売店のイメージアップにもつながる。

安田の営業マンは店からも重宝される存在だった。サッカー部のスパイクやユニフォームのブランド選定には、部長や監督だけでなく、出入りの小売店が影響力を持っているのはよくあることだから、各地の店に食い込んでおくことも大事なのだ。会社の心証を良くしておけば、店の棚に置いてもらえるシューズの数だって多くなる。

地方代表のチームの宿泊先へ彼らが出張販売に出向いた時は、ゴミ類は一切後に残さず、自分たちやチームのみならず他の泊まり客の靴まで揃えた。帰りがけには旅館の従業員にも「お騒がせしました」と、安田のタオルや小物を渡した。

彼ら営業マンは自社のシューズのように、地道さや心配りの細かさを武器にした。いや、それしか頼るものがなかった。

だから85(昭和60)年に行われた第63回全国高校選手権準決勝の帝京-武南戦は、彼らにとって感無量の光景となった。

安田は帝京用に例の青×黄を、武南用には紺×黄のオリジナルモデルを大会用に作成し、納入していた。試合前、担当営業がスタンドから双眼鏡で選手たちの足元を確認すると、国立競技場のピッチに立った22人の半数が、安田のシューズを履いていたのだ。エナメルコーティングされたカンガルー革が、陽の光を浴びてきらきらと光っていた。

■国産メーカー・安田が陥った悪循環

〈周回遅れにされた先頭グループの後ろを、なんとか食らいついて走っている……〉

安田一男は、80年代に入ってからの自社スパイクの競争力を陸上競技に例えるなら、そんな具合だと思うようになっていた。

海外勢に伍して競り合っているように見えても、相手が本気になって揺さぶりをかけてくれば、いともたやすく脱落するであろうことは明白だ。

アディダスやプーマは、毎年多数の新製品を発表し、消費者の購買意欲を刺激した。新製品を世に出すには膨大な開発費がかかるのに加え、製造のための新しい金型を起こす必要がある。

金型の作製にも、もちろん多額の資金が投下される。もともと企業規模が大きい上、マーケットが全世界に存在する彼らだからこそ、それを毎年繰り返すことができた。たった1、2年しか使わない金型でも、生産量が多いため十分に償却が可能だったのだ。

日本市場だけが頼りの、安田のような会社ではそうはいかない。一度金型を作ったら、数年作り続けないと元が取れないのだ。

すると何年も同じモデルを継続販売する、目新しさに乏しいから消費者の食指が動かない、売り上げが伸びないため新製品開発に予算が回せない、の悪循環に陥ってしまうのである。

■「そんな競争にはもうついていけない」

実のところサッカーシューズとは、そう年々画期的な進化をする商品ではない。新製品といえども目先を変えただけの、モデルチェンジのためのモデルチェンジが繰り返されてきたのだ。

サッカーシューズ、ことに固定式(近年は芝グラウンド用もスタッド取り替え式ではなく、固定式が主流になっているが)のそれは、60年代末から70年代初頭の期間でほぼ完成の域に達しているのである。

その後今日まで、アッパー素材が人工皮革に置き換わったり、ボールコンタクト部にゴムの“ひれ”をつけたりと多少の変化はあっても、本質的なブレークスルーは起こっていない。

だからこそ、約40年も前に登場したアディダスの〈コパムンディアル〉が今もばりばりの現役商品であるばかりか、昔と変わらず同社の最高級モデル群の一翼を担っているのである。

そんな実情を知った上で、いやむしろ知っているからこそ、大メーカーは不毛な争いを承知で、目先のカンフル剤として次々と新製品を投入する。

〈そんな競争にはもうついていけない、手を引くなら今だ〉

専務の肩書きながら、長く会社経営の舵取りを社長の父・重春から託されてきた一男は、ついに会社をたたむ決心をした。88(昭和63)年のことである。アディダスやプーマは言うに及ばず、この頃はじりじりとシェアを落として、アシックスにも後塵を拝していた。

幸い会社には、堅調時に購入した不動産資産もある。この一部を手放せば、社員全員に退職金を払った上、事業を清算できる。株式会社安田は今後、残った不動産の管理をなりわいにしようと一男は考えた。

■命脈は尽きた、はずだったが…

こうして老舗サッカー用品メーカー「安田」、あるいはブランド名としての「ヤスダ」の命脈は尽きた、はずだった。

ところが、事業に終止符を打つことを彼が会社内や取引先に伝えると、社員の代表や安田への納入業者が一男のもとへ直談判にやってきた。歴史ある安田の灯を消すのはあまりに惜しい、自分たちの手でなんとか存続させたいと言うのである。

そこまで働きかけてきた者の願いを聞き入れないわけにはいかない。一男は新会社に、株式会社安田が持っていた〈クリエイター〉〈イレブンスターズ〉などの製品名や2本線のキャラクターラインを使用する権利を、無償で貸し与えた。閉鎖した自社工場内の生産設備や金型、足型は、新会社の外注工場に惜しげもなく譲った。

旧安田の社員は大部分が新会社に残った。熟練職人も以前の工場の生産設備を移設した外注工場に転籍し、以前と変わらぬ品質のサッカーシューズを作れる体制が整った。全盛期よりシェアを落としたとはいえ、広範な販売網はまだ健在だった。

■新会社「クリックスヤスダ」で再出発

当初、新会社は心機一転「クリックス」の名で再出発を図る予定だった。

安田時代の売れ筋サッカーシューズのシリーズ名である〈クリエイター〉から頭の2文字を採り、それに当時のCIブームでなぜか新社名の語尾に多く採用された「ックス」を合わせたという、世情を率直に反映させた命名だった。

けれども昔の安田を知る社員にとって、この新社名だけではどうにも収まりが悪く感じられた。はやりのカタカナ名前もいいが、連綿と続いたブランドの名を自分たちの手で消すのは寂しさがあった。

それにユーザーや販売店、流通業者の間では、新会社が営業や製品を引き継いだといっても、旧来の「安田」の方が通りがいいのは明らかだった。

結局、また一男に使用許可を得て、新会社名は「クリックスヤスダ」で落ち着いた。

クリックスヤスダ(以下、クリックス)は旧安田同様、新製品開発力は貧弱だった。既存の技術の中でできる限りの作り込みをしていくのが精一杯だ。それでも以前からの定番商品を作り続けるかたわら、何とか市場の動向に遅れまいと海外メーカー発の流行を1年、2年遅れで取り入れた。

■ブラジル代表の主力やJリーガーも着用したが…

95年(平成7)年からは久しぶりにプロ選手とのアドバイザリー契約を復活させた。柏の柱谷幸一。そして磐田のドゥンガに、アトレチコ・ミネイロのタファレル。ブラジル代表選手を一気に2人も抱えることになったのだ。

彼らは以前のジャイルジーニョと違い、契約というものの意味をよく理解していたので、きちんとクリックスのシューズを履いてくれた(ドゥンガは、日本国内限定での着用契約)。

ドゥンガ使用モデルとなった「ガウチョ」シリーズ
資料提供=YASUDA(1997年版カタログより)
ドゥンガ使用モデルとなった「ガウチョ」シリーズ。足型、素材、縫製など様々なポイントについて、彼自身がクリックスのスタッフ相手にとことんまで意見交換した末に完成した。「ガウチョ」(南米のカウボーイ)の名付け親もドゥンガ。当時のクリックスの稼ぎ頭となった。 - 資料提供=YASUDA(1997年版カタログより)

それ以外にも、他メーカーが手薄だったレフェリー用品の充実を図り、全国の審判員たちの好評を博した。Jリーグの発足から数年間は公式戦用に、試合のピッチに立てられるコーナーフラッグや線審のフラッグを提供したりもした。

だがどの方策もオリジナリティーに乏しいか、さもなくば短期的で継続性がなかった。したがって、失ったシェアを回復できるほどの効力を持ちえなかった。

戦略性――クリックスに決定的に欠けていたものが、これである。

はじめにブランドイメージの構築ありき。クールな広告、多数の世界トップ選手との契約、デザイン先行のプロダクト……80年代後半からはっきりと、ナイキが始祖となったプロモーション方法を採用できるかどうかが、スポーツ用品メーカー生き残りの分水嶺となっていた。

ナイキに負けじとアディダスが同じ手法で大反撃を図り、規模は小さいながらプーマなどもそれに続いた。もちろんこのようなことができるのは、資本力のある国際的メーカーに限られた。質の高いものを良心的な価格で提供するだけのドメスティックブランドは、そのあおりを受けて世界中で駆逐されていった。

そして皮肉にも日韓W杯が開催された2002(平成14)年、クリックスは東京地裁から破産宣告を受けたのだった……。

市立船橋のMF小川佳純(左)ら市立船橋イレブン(2003年1月13日、東京・国立競技場)
写真=時事通信フォト
全国高校サッカー選手権決勝・市立船橋(千葉)-国見(長崎)の後半20分、決勝点を挙げガッツポーズをして喜ぶMF小川佳純(左)ら市立船橋イレブン(2003年1月13日、東京・国立競技場)。小川選手の足元に注目。クリックス着用選手が大きな注目を集めた最後の光景である。 - 写真=時事通信フォト
ヤスダの2002年版カタログ
資料提供=YASUDA(2002年版カタログより)
小川選手(後に明大-名古屋-鳥栖-新潟。現在、JFLティアモ枚方監督)が履いていたのは、「ブラジリアン・スーパー」の市船カラー(青×白)モデル。彼は足幅が広く土踏まずが低めであるため、自分の足型に最も合うクリックスのシューズを中学時代から愛用していた。 - 資料提供=YASUDA(2002年版カタログより)

■誕生から90年、安田のスパイクの今

クリックスの倒産から20年が経つ。だが、安田の系譜が完全に途絶えてしまったわけではない。

学生時代に安田のスパイクを愛用していた人物がその消滅を惜しみ、クラウドファンディングで資金を募って2018(平成30)年、アルファベットの「YASUDA」の社名、ブランド名でサッカーシューズの製造販売を復活させているのだ。

人工皮革製やテキスタイル製が多数派となった時流に背を向け、カンガルー革を使用したアッパーにこだわるなど、往年の安田の特徴を踏襲。もちろん商標権やエクセルライン等の意匠権も、正式に譲り受けている。

親子2代に渡って作り続け、長く日本サッカーを足元から支えてきた「ヤスダのシューズ」が、自らの存命中に再興を果たした。

安田一男氏はそれを幸せな出来事と記憶して、天に旅立ったのだと信じたい。

御冥福を、お祈りいたします。

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河崎 三行(かわさき・さんぎょう)
ライター
高松市生まれ。フリーランスライターとして一般誌、ノンフィクション誌、経済誌、スポーツ誌、自動車誌などで執筆。『チュックダン!』(双葉社)で、第13回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。このほか、著書に『蹴る女 なでしこジャパンのリアル』(講談社)がある。

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(ライター 河崎 三行)

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