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田舎豪族の娘から「日本のラスボス」に…北条政子が源頼朝の死後に「大権力者」になれたワケ

プレジデントオンライン / 2022年4月9日 9時15分

北条政子像〈菊池容斎画〉(図版=Hannah~commonswiki/PD-Japan/Wikimedia Commons)

小さな豪族の出身だった北条政子は、源頼朝の死後、歴史書に「日本の2大権力者」と記されるほどの権勢をふるった。なぜそこまでの出世を果たせたのか。東京大学史料編纂所の本郷和人教授が解説する――(第1回)。

■現代人は誰も知らない…北条政子の本当の名前

まずは基本的なところから参りましょう。かりにタイムマシンに乗って源頼朝にインタビューを試みたとします。

【記者】男の仕事は女性のサポートあってこそ、っていいますよね。そこでズバリお尋ねします。あなたにとって、政子さんという女性は、どういう存在なのでしょうか?

【頼朝】うん? 妙なことを申すのう。確かに私も多くの女性に支えられてここまで来たわけだが、政子などという高貴な方は全く存じ上げぬぞ。

ん? 政子という名に心当たりがない? 冗談きついですよ、鎌倉どの……。

いえいえ。これは正しいのです。研究者には広く知られたことですが、源頼朝は「政子さん」という呼称を生涯にわたって知りませんでした。政子さんの本名は他にあったのでしょうが、それは史料としては伝わっていません。

これはどういうことかというと、○子、という名は高貴な女性にこそふさわしい。皇族や上流貴族。中流の貴族にも使われたかな。でも間違いなく、武士の娘が用いて良い名前ではないのです。

では一体いつ政子さんは政子さんになったのか。

頼朝が亡くなってからかなり時間が経過して、世は3代実朝将軍の時代。実朝と御台所にはなかなか子どもが生まれない。それで幕府首脳は、京都から4代将軍を迎えることを思いついた。白羽の矢が立ったのは、後鳥羽上皇の皇子。これだけ貴い方ならば、武士たちは喜んで、自分たちのリーダーとしてお迎えするだろう。

交渉の大任を任されたのが、政子さん。彼女は上洛し、朝廷で権勢を誇っていた卿二位という女性と話し合い、上皇の皇子、六条宮雅成親王もしくは冷泉宮賴仁親王の鎌倉下向の話を首尾よく取りまとめました。

この折衝に当たった際に、政子さんには貴族風の名が与えられました。それが政子だったのです。ですから、当たり前ですが、頼朝は彼女が政子さん、とは知るよしもなかったということになります。

■時政の娘だから「時子」となるはずだが…

何で政子か、というと、彼女が「時政」の娘であったから。前述の卿二位は藤原範兼という貴族の娘で、お姉さんが範子、妹である彼女が兼子。彼女は後鳥羽上皇の乳母を務め、上皇が大きな権力を持つにつれて朝廷の有力者になったのです。

ちなみに『愚管抄』の作者の慈円は、日本には2人の権勢者(ルビを振るなら、ラスボス、でしょうか)がいる。京都の卿二位と鎌倉の北条政子だ。日本という国は女性が大切な物事を決定する国なのだ。であるから、「女人入眼(じゅげん)の日本国だ」と述べています。

あれ? 卿二位が兼子は分かったけれど、それなら政子は「時子」じゃないの? そう思われた方、鋭い。

確かにそうなのですが、当時の貴族社会には、安徳天皇とともに入水(じゅすい)した平清盛の正妻、時子さんのイメージが強烈だったのでしょう。だから、時子ではなく、政子を選んだものと思われます。

神奈川県鎌倉市、源氏山公園の源頼朝公像
写真=iStock.com/Christopher Tamcke
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Christopher Tamcke

■北条政子は、なぜ源頼朝に選ばれたのか

鎌倉時代、女性の地位が高かったことは有名です。ですから婚姻はとても重要な意味を持っていました。B家から嫁をもらったAは、B家の一員としての振る舞いも求められたのです。

例えばB家が合戦の当事者になった。客観的に見て、B家は敗北しそうだ。でも、AはB家に加勢しなければならないのです。時には生命すら度外視して。そうしないと、Aは生き延びたとしても、「勝ち馬に乗ることを優先した、武士の風上にも置けぬヤツ」との誹(そし)りを受ける。武士社会で生きにくくなるのです。

実例を挙げましょう。大江広元の息子に毛利季光という武士がいました。彼は文官である父と異なり、武人としての人生を選択し、たびたび戦功を上げました。相模の毛利荘に拠点を持ち、三浦氏の女性を妻に迎えていました。

三浦氏は元来が源氏の有力従者で、頼朝にも旗挙げの時から忠節を尽くしました。そのため、幕府内で、北条氏に次ぐ勢力を築くことに成功しました。しかし、この時代、栄華は両刃の剣。北条氏に危険視され、武力衝突の末に滅ぼされてしまいます。宝治元年(1247年)に起きた宝治合戦です。

季光は、両者の戦いは北条氏の勝利、と予測しました。だからいったんは北条方の陣営に赴こうとした。けれども妻が三浦氏であることに思いをいたし、引き返して三浦勢に加わりました。結果、やはり三浦方は敗北し、季光は自害に追い込まれます。

でもそれが、武士の習いを重んじた上での、彼の決断だったのです。余計なことを付け加えると、当主を失った毛利氏は、全滅を何とか免れ細々(ほそぼそ)と生き延びました。全国に離散した子孫の中から、安芸国でのし上がったのが、毛利元就というわけですね。

福島県相馬市で開催される相馬野馬追
写真=iStock.com/Josiah S
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Josiah S

■ロマンチックな要素は見当たらない

話を元に戻します。武士にとって婚姻はとても大切な営為でした。流人であって、しかるがゆえに無力だった源頼朝にとっては、それは一層、切実だったのです。

だから彼は後援を期待して、伊豆随一の武士である伊東氏の女性に恋をささやいた。これが源頼朝の最初の妻といわれる八重姫です。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では新垣結衣さんが演じました。

でも、この恋は皆さんご存じのように、長くは続きませんでした。当主である伊東祐親が激怒して2人の仲を裂き、頼朝の命を奪おうとさえしたのです。

こうなると頼朝は、もうなりふり構っていられません。もっとも手近なところにいる御家人、北条さんの娘さんを口説いた。こうした状況を考えると、2人の婚姻は頼朝の側の懸命な要請から生じたもの。打算の産物であって、ロマンチックな要素は見当たらないのです。結果的にそれが情熱的なものに育っていったのは、政子さんのたぐいまれな資質の賜物(たまもの)と解釈するべきでしょう。

そもそも北条氏とはどんな武家だったのか。ぼくは軍事行動を基本に考えるべきだと主張しています。頼朝は治承4年(1180年)に伊豆の韮山で挙兵しますが、その時の軍勢の実態は、ほぼほぼ北条軍でした。

北条時政ができうる限りの兵を集めて、頼朝を大将として推戴した。そしてその兵数はわずかに50。失敗は許されない状況ですから、それが当時の北条氏の、懸命に背伸びした実力と考えてよいでしょう。

■切羽詰まった頼朝の心境

石橋山の戦いの後には房総の上総広常が2万騎を率いて味方になった、などという事態になりますが、この数字はまあオーバーですね。盛りすぎです。リアル・ベースで話をすると、このころ「○○国にその人あり」と知られる有力武士は、300くらいの兵を養っていただろう、とぼくは考えています。

兵数の問題はそのうちに詳述しますが、その有力武士は例えば相模の三浦や大庭、武蔵の比企や河越、下総の千葉等々。伊豆の伊東もその一つ。でも、北条は50。当然、この家の規模はたいしたことはなかったと思います。

こうした状況を踏まえると、政子さんは決して「お姫さま」とか深窓の令嬢といった存在ではない。高貴な女性にふさわしい「政子」という名前も生来のものではあり得ない。ひょっとすると土いじりをして、農耕のまねごとくらいしていたかもしれない。そんな彼女に頼朝から恋文が届く。やはり頼朝は、相当に切羽詰まっていたのでしょう。

■妹の夢を買って異例の大出世

『曽我物語』(「十行古活字本」)には、北条政子が夢を買った話が収録されています。

まだ頼朝と結ばれる以前のある日、「お姉ちゃん、妙な夢を見たんだけど」と妹が政子に相談を持ちかけてきたのだそうです。高い山に登って着物のたもとに太陽と月が入った。頭の上には三つの橘の実がついた枝があった……。

太陽と月が出ている湖の風景
写真=iStock.com/Mike_Pellinni
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Mike_Pellinni

政子は直感的に、それは途方もない吉夢だ、と判断しました。そこで何食わぬ顔で、妹にもちかけます。

「それはねえ、ものすごく悪い夢に違いない。そのままにしていたら、あなたの身にはきっと不幸が訪れる。だからお姉ちゃんがその夢を買ってあげましょう……。さあ、これでもう、あなたは大丈夫」。彼女は妹に自身の鏡を与え、首尾よく夢を買い取りました。

同書によると、はじめ頼朝は政子の妹を狙っていたようです。しかし、家来の藤九郎が一計を案じ、頼朝のラブレターは政子に届けられました。二人はすぐに恋仲となり、やがては尼将軍へと上り詰めた、というわけです。20歳を超えても未婚だった政子は、当時では異例の女性でした。夢買いのエピソードには、小豪族の娘に過ぎない政子が源氏の御曹司と結ばれた幸運な様を示しているようです。

他人が見た夢を買う――。古い時代には、そうしたことがあったようです。『宇治拾遺物語』には、律令国家を築いた立役者の一人、吉備真備のエピソードが紹介されています。

備中の平凡な官人だった若き日の真備が夢占いの女性を訪ねたところ、先客がいた。彼は京都から来た高級官のボンボンで、彼が解釈を依頼した夢はそれはそれは貴い夢に思えた。盗み聞いていた真備は、ボンボンが帰ると、「地元の私にこそサービスすべきだ!」と女性に強引に頼み込み、その夢を買った。

すると彼はその日を境にどんどん知力が冴(さ)えわたり、遣唐使の一員に選ばれ、彼の地で得た識見もあいまって右大臣にまで栄達した、というのです。「夢占い」という職業が存在したこともうかがえ、興味深いですね。

■「橘の実」が北条政子にもたらした幸運

政子が買った夢には、橘の実も出てきます。橘というと「左近の桜、右近の橘」ですが、橘の実って何だろう。それで思いだしたことがあります。

大阪を訪れたときに「ときじくのかぐのこのみ」という人気のある洋菓子屋さんを知りました。何だか由緒のありそうな名前だな、と思って調べてみました。すると『古事記』『日本書紀』に記事があったのです。漢字で書くと、「非時香菓」。常世の国になっている黄金色の実で、不老不死の力があるという。

病に倒れた垂仁天皇は田道間守(たじまもり、と読むようです)という人物にこの実を採ってくるように命じました。田道間守は苦難の末に実を持ち帰るのですが、天皇は既に亡くなっていて、大いに悲しんだのです。

『古事記』には「これは今の橘なり」と記していて、「ときじくのかぐのこのみ」=橘であり、更にそれはみかんである、との説もあるようです。確かに「甘いもの」が少なかった昔、みかんは今よりもずっと貴重だったのかもしれません。

政子さん、『古事記』を読んで、田道間守と橘の挿話を知っていたんでしょうか。伊豆は温暖だからみかんも穫(と)れて、彼女はそれが大好物だったとか……。いやいや、いくら何でも、そこまでいくと、歴史学の範疇(はんちゅう)を越えた妄想になってしまいますね(苦笑)。

(次回へ続く)

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本郷 和人(ほんごう・かずと)
東京大学史料編纂所教授
1960年、東京都生まれ。文学博士。東京大学、同大学院で、石井進氏、五味文彦氏に師事。専門は、日本中世政治史、古文書学。『大日本史料 第五編』の編纂を担当。著書に『日本史のツボ』『承久の乱』(文春新書)、『軍事の日本史』(朝日新書)、『乱と変の日本史』(祥伝社新書)、『考える日本史』(河出新書)。監修に『東大教授がおしえる やばい日本史』(ダイヤモンド社)など多数。

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(東京大学史料編纂所教授 本郷 和人)

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