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だから徳川幕府は15代も続いた…徳川家康が「病弱で愚鈍な家光」を3代将軍に指名した納得の理由

プレジデントオンライン / 2022年4月11日 18時15分

徳川家光像(写真=CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons)

江戸幕府3代将軍・徳川家光は、幼少のころから病弱で、周囲からは愚鈍と見られていた。だが、初代将軍・家康は家光に家督を継がせた。歴史研究家の河合敦さんは「当時はまだ、長子相続は確立していなかった。このため家康はあえて家光を将軍に指名することで、家督争いを避け、徳川幕府を安定させる狙いがあった」という――。

■「心身に難あり」と思われていた幼少期の家光

徳川家光は、慶長9年(1604)に2代将軍・徳川秀忠の次男として生まれた。

家康は孫の誕生を大いに喜び、自分の幼名である竹千代の名を与えた。やがて家光は、三代将軍に就いて将軍の権威を高め、幕藩体制を整備して徳川政権を盤石にするという大きな功績を残した。

家光が誕生する3年前、秀忠には長丸という長男が生まれたが夭折(ようせつ)し、家光誕生時にはこの世にいなかった。しかも家光の母は、秀忠の正室・お江だから、彼が将軍に就くのは当然だと思うだろう。しかし、もともと家光は、将軍になる予定の人物ではなかったのである。

当時はまだ、長子相続は確立していなかったのだ。確かに長男が家督を継ぐケースが多かったが、「才覚ある者が跡継ぎにならねば家の存亡にかかわる」という戦国の遺風がまだ残っていた。ゆえに、「心身に難あり」と判断された者は嫡子から排除された。

幼少年期の家光は、ほとんど言葉というものを発せず、家臣に声をかけてやることもなく、何を考えているかわからない子供だった。端から見ても愚鈍に見えたのだろう。

しかも、生来の病弱だった。たとえば、3歳のときに医師も匙を投げるほどの大病をしている。このときは家康が調合した薬で奇跡的に回復するが、26歳のときには疱瘡(ほうそう)(天然痘)を煩い、乳母の春日局が病気の回復を願って「一生薬絶ちをする」と誓うほどの重篤な病状に陥っている。その後も眼病、頭痛、瘧(おこり)などたびたび体調を崩した。

■実母の寵愛を受けていたのは弟の国松だった

また、これは巷説だが、少年時代から家光の性愛の対象は男性だけだったといわれ、好んで化粧し、その姿を鏡に映してうっとりしていたという。これでは後嗣の誕生は期待できない。こうしたことから、跡継ぎには不適格だと思えたのかもしれない。

だから秀忠は、家光の2歳年下の同母弟の国松(のちの忠長)を後継者にしようとした。家光にくらべて愛くるしく、賢く思えたからだ。なにより、母のお江が溺愛していた。

家光が乳母(春日局)に養育されたのに対し、国松はお江自身が育てたので、情が移ったのだろう。秀忠という人は大変な恐妻家で、お江にはまったく頭が上がらない。そのため、国松の将軍継承を望む彼女の要望を受け入れたのかもしれない。

秀忠夫妻は国松を跡継ぎにしようとしたが…

繰り返しになるが、同母兄を差し置いて次男が家督を相続することはタブーではなかった。そもそも秀忠自身、家康の三男であった。

長兄の信康はすでに死去しており、次兄の秀康は、秀吉の養子だったので後嗣にはなれなかった。そういった意味では、秀忠夫妻は、国松を跡継ぎとすることに抵抗感はなかったはず。

しかし、国松の家督相続は、祖父の家康によってはっきりと拒否された。

きっかけは、両親に敬遠され、家臣に軽んじられた12歳の家光が、世をはかなんで自殺をくわだてたことにあった。これを知って驚いた春日局が、思いあまって駿府の家康のもとへ赴き、家光を将軍にしてくれるよう直訴したとされる。

家康が家光を3代将軍にしたワケ

そこで家康は、わざわざ江戸へ出向き、秀忠に対して「家光が16歳になったら、彼を連れて上洛し、三代将軍にするつもりだ」と述べた。また、秀忠夫妻に「おまえたち二人が家光を嫌い、国松に家督を継がせようとするなら、私は駿府に家光を招いて我が子となし、3代将軍とする」と伝えたともいう。

それからまもなく家康は死去するが、こうした家康の強い意志によって、家光は将軍になることができたのである。

徳川家康肖像画(写真=CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons)
徳川家康肖像画(写真=CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons)

なお、家康がこうした決定を下したのは、世が平和になったいま、政権さえしっかりしていれば将軍など誰でもよく、実質、長幼の順で相続すると決まっていたほうが、家督争いを避けることができると考えたからだといわれている。

いずれにせよ、家光は自分を将軍にすえてくれた祖父・家康の恩を生涯深謝し、東照大権現として祀られた家康をあがめ続けていく。ただ、家康への崇敬は、純粋な感謝の念だけから発せられたものではない。それについては、のちに詳しく見ていくことにしたい。

■20歳で朝廷から将軍宣下を受ける

次期将軍と決まった家光(12歳)には、翌元和2年(1616)、酒井忠利、内藤清次、青山忠俊ら有能な年寄(のちの老中)がつくことになり、さらに約60名の直臣も付され、次期政権をになう人的組織が形成された。

翌元和3年(1617)、家光は江戸城本丸から西の丸へ移座した。やがてこの西の丸は、家光のような将軍の世嗣や大御所が住む場所となっていく。

元和8年(1622)、家光は19歳になると、西の丸を出て本多忠政の屋敷へ移った。いよいよ秀忠が家光に将軍職の譲渡を決意したのだ。秀忠は当初、駿府へ移って完全に隠居しようと考えていた。しかし、家臣たちが引き留めたので引退を撤回し、駿府ではなく江戸城西の丸で大御所として新将軍を後見することになったといわれる。

だが、この逸話が事実かどうかは極めて怪しい。秀忠はまだ44歳。おそらく父・家康同様、若い息子をお飾り将軍にして、大御所でありながら幕府の実権を完全に掌握しようと考えていたのだろう。

ともあれ、翌元和9年(1623)、家光は上洛して朝廷から将軍宣下を受け、ここに20歳の若き徳川3代将軍が誕生した。

しかしそれから9年の間は、将軍・家光ではなく大御所・秀忠主導のもとで政権は運営された。だが、家光が29歳の寛永9年(1632)に秀忠が没したことで、名実ともに権力が大御所から将軍へと移行した。以後、約20年の治政で家光は、幕藩体制の確立に心血を注ぐのである。

そんな3代将軍の具体的な政策を概観していこう。

幕藩体制を整備して徳川政権を盤石に

政権保持のため、家光はさまざまな方法によって大名を統制しようとこころみ、なおかつ、それを永続的なシステムとして定着させた。

その一つが、大目付や諸国巡見使の設置である。両職とも大名の行動や各藩の政治を監視する仕事。とくに大目付の密偵は各藩に放たれ、幕府のもとには常時彼らから情報が伝えられた。

大目付に関連していえば、幕府の職制も家光の時代におおむね整えられた。

まず幕府の重職は、譜代と旗本で占められたが、将軍のもとで政務をになう職が老中である。今の内閣の閣僚のようなもの。2万5千石以上の譜代大名から任命され、定員はおおむね3~5名。政務は月番制(1カ月交替制)だった。ちなみにこうした幕府の重職は、独裁を防ぐため複数制、月番制そして合議制を採用した。

■参勤交代をおこなった本当の理由

秀忠の死後、家光は寛永12年(1635)に改めて武家諸法度を発布した。俗に寛永令というが、以後、将軍が替わるごとに武家諸法度を発布するのが慣例になった。

法度には改変が見られた。大きなものとしては、新規の関所や5百石積以上の大船の建造を禁止したこと、そして参勤交代を制度化したことであろう。

参勤交代とは、大名が国元と江戸を1年交代で往復しながら生活する制度だが、妻子を人質同然で江戸に置かねばならず、反乱が困難になった。

園部藩参勤交代行列図(写真=CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons)
園部藩参勤交代行列図(写真=CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons)

参勤交代の目的は「大名の経済力を削いで、反抗する力をなくすため」というが、寛永令では「参勤交代のさい、たくさんの人数を連れてくるな。もっと行列を簡素にしろ」と命じているので、この認識は正しくない。

参勤交代は、将軍と大名の主従関係を確認する儀式なのだ。

■太平の世における、御恩と奉公の関係性

将軍は諸大名に対し、領地の安堵やさまざまな特権などの御恩を与えている。だから家来である大名は、将軍のために命を捨てて戦うのが奉公だった。とはいえ、江戸時代には戦争がない。だから武力で奉公するのではなく、江戸の将軍のもとに参上して挨拶し、さまざまな仕事を勤める。それがこの時代の奉公になったのだ。

なお、参勤交代によって常時半数の大名が江戸にいることになり、いざ戦争や反乱がおこれば、ただちに彼らに軍役を課して動員することも可能になった。また、参勤交代は幕府が江戸にいる大名の監視をするのにも役立ったろうし、交通の発達や、諸大名間の文化交流も促された。

実弟の領地を没収し、切腹まで追い込む

家光は寛永令を出すと、法令違反を楯にして次々に大名を取り潰していった。

まずは親政の手始めに、加藤清正の後を継いだ加藤忠広を改易した。その理由は、忠広が母や子を無断で江戸から国元に返したことや、忠広の嫡男・光広の素行不良とされた。

河合敦『徳川15代将軍 解体新書』(ポプラ社)
河合敦『徳川15代将軍 解体新書』(ポプラ社)

さらに家光は、弟の徳川忠長を上野国高崎に逼塞(ひっそく)させ、領地の甲斐と遠江を公収した。すでに秀忠の生前から乱行が目立ち甲斐で謹慎させられていたが、断固、処分したのである。それからまもなく忠長は切腹して果てた。

こうした家光の果断なやり方に諸大名は震えあがったが、まさにそれは父・秀忠のやり方をまねたのである。秀忠は、自分が権力を握ると、安芸の福島正則や弟の松平忠輝を改易している。

家光はまた、父の秀忠が丁重にあつかってきた御三家(家康の息子によって創設された尾張・紀伊・水戸の三家)を完全に家臣あつかいにした。こうした強圧的姿勢によって、諸大名は新将軍を畏怖するようになった。

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河合 敦(かわい・あつし)
歴史研究家・歴史作家
1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一と岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数

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(歴史研究家・歴史作家 河合 敦)

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