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17人の女性に54人の子を産ませる…11代将軍・徳川家斉が実子を増やしつづけた本当の理由

プレジデントオンライン / 2022年4月13日 12時15分

徳川家斉像(写真=CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons)

江戸幕府11代将軍の徳川家斉は、多くの側室を持ち54人の子を産ませている。歴史研究家の河合敦さんは「大奥には約1500人を囲い、『歴代将軍で最も好色だった』といわれている。しかし、そこまで子をもうけたのには、別の狙いがあったようだ」という――。

※本稿は、河合敦『徳川15代将軍 解体新書』(ポプラ新書)の一部を再編集したものです。

■11代将軍・家斉の父は徳川吉宗の孫、母は大奥の奥女中

11代将軍・徳川家斉は、御三卿の一橋家から徳川宗家を継いだ人物である。9歳のときに10代将軍・家治の養子となり、15歳で将軍の地位についた。

その実父は、吉宗の孫・一橋治済、母は岩本正利の娘・お富の方で、彼女は治済の側室である。岩本氏は吉宗の時代に紀伊藩士から幕臣に取り立てられた家柄で、お富の方は大奥の奥女中だったが、治済が見初めて将軍・家治に頼んで自身の側室にしたといわれる。

家斉の誕生については、奇瑞(きずい)が報告されている。一橋邸の御産小屋で生まれるとき、にわかに室内が明るく照らされ、鶴が屋上を悠々と舞い、やがて庭に降り立ったというのだ。人びとは「なんとめでたいことだろう」といい合ったが、のちに将軍になったというので、「なるほどやはり」と納得したそうだ。

しかし、偉人の生誕によく付会される吉兆のたぐいであり、もちろん史実とは思えない。

■頻繁に宴会を開く酒好きの将軍

家斉は酒宴が好きで、「雪月花の折々又五節(五節句)などには御宴をひらかれ。近習の人人召つどへて。折ふしの興を催し給ふ」(『徳川実紀』)とあるように、頻繁に宴会を開いていた。

壮年までは浴びるように酒を飲んでいたが、ほとんど酔うことはなかったといい、晩年は3献以上を飲まないようにしていたともいう。

ともあれ、宴会好きで女好きという自堕落な印象があるものの、毎朝早く起き、かなり規則正しい生活を送っている。

今でいう「ポロ」の腕前は群を抜いていた

運動神経もよく、乗馬が趣味だった。毎年冬には吹上の馬場に良馬で有名な南部仙台の馬を集め、家臣たちが乗るのをみて、自らよい馬を選んで札をつけるなど、馬の目利きにも長けていた。

また、馬術の奥義を究めたとされる。とくに打毬(だきゅう)を好んだ。これは、馬に乗って杖(スティック)を使い毬(ボール)を門(ゴール)へ投げ入れるポロに似た競技である。

将軍・吉宗が復活させたものだが、家斉は五十三間もある馬場で打毬をおこなったさい、馬場の端にある毬門に正確に毬を投入したという。近習も老臣も家斉の腕にかなう者はいなかった。

■馬、鷹狩り…趣味にはとことんのめり込む

鷹狩りも好きだった。祖父吉宗が好んだと知り、幼いころから鷹狩りをしたと『徳川実紀』にあるが、おそらく補佐役の定信が家斉を文武両道の名君にしようとして勧めたのだろう。

だが、馬と同様、非常に熱を上げ、成人してのちも鷹狩りを頻繁におこない、厳冬期の風雪を冒してまで鶴などを狩った。

若いときは放った鷹が鶴を捕らえ、地上に下りると、自ら駆け寄って鶴を取り押さえたこともあった。だが、嘴で怪我をするからという老臣の諫めにより、そうした行為はやめたというが、鶴が捕獲できると御膳所(ごぜんしょ)まで行き、しばしば鶴の血液を入れた「鶴血酒」をつくらせ、家中にふるまったそうだ。

家斉の鷹狩りの技術は卓越しており、風の逆順、地形の善し悪しなどを自ら見定めて鷹を放ち、巧みに獲物を捕らえたので、老練な鷹師も家斉の腕前に感服するほどだった。

家斉は経験だけでなく、鷹に関する研究書も読みあさって理論的に鷹狩りの技術を向上させていった。諸家に所蔵している本まで提出させ、数百部も集め、自ら研究したのである。本の内容はほとんど暗記してしまったという。

■三国志が好きで諸葛孔明の絵をよく描いていた

ちなみに家斉は家治同様、異常な記憶力の持ち主だった。

たとえば、弓馬始めなどの家臣の武芸披露のさい、多くの諸士が技を披露するが、家斉は後日、その者たちの姓名だけでなく、「其人々の品格までもよく御覚あり」、「誰はかやう。誰々はかやうの人物など」と話すので、「いかでかくは御覚あることよと。御かたはらの人々ひそかにいひあへり」(前掲書)と大いに驚いたという。

文化系の趣味としては、絵をよく描いた。といっても、もっぱらそれは諸葛孔明の絵であった。家斉は読書好きで、とくに『三河記』や『家忠日記』、『北越軍談』、『甲陽軍鑑』といった家康やその時代に関係する日本史を乱読し、暗記するほどだった。

家斉はいう。「吾邦(日本)の事なれば其儘(そのまま)に活用し易し。海外の事蹟(じせき)捜索せんことは津涯(かぎりない)なければ。渉猟(探し求める)するにいとまなし」(前掲書)

このように日本史は日本の出来事なので、いまに活かしやすいが、世界史はあまりに範囲が広すぎて調べきれないといっている。

とはいえ、歴史のなかで三国志が大好きで、よく家中にも折に触れて諸葛孔明の活躍を語ったという。休息所の杉戸などにも絵師に命じて孔明の像を描かせ、自分でも頻繁に孔明の像を描いては家臣に与えたのである。

■側室が家斉に言った強烈な嫌味

花も愛した。自ら花を生け、小姓たちに花生け(花器)などを与えている。老木や竹根など天然の素材を花と組み合わせるのが好きだったようだ。だから諸侯から銀などをあしらった生け花が届くと、機嫌が悪くなったという。

あるとき御座所に家斉が植えた牡丹数株のうち、色がうつろいたる(変色した)ものがあった。それを見つけた家斉は、「これは衰たり。見るべくもあらず」(『徳川実紀』)と述べて破棄するように命じた。

すると近くにいた側室が、「牡丹はそれでよろしいのでございます。上様の召し使う奥女中も同じこと。また、表向きの政治に携わる役人も、色がうつろったときこそ役に立つのです。仕えはじめたころは、誰もが新鮮で時めいて見えるものですが、花の色がうつろうようにだんだんと目立たなくなります。でも、そうなってからこそ、お役に立つのです」と述べたので、家斉はその側室に対して、「さてもよくぞ申した」と褒めたという。が、これはその女性の家斉に対する強烈な嫌味だろう。

■手当たり次第に手を付ける女癖のひどさ

とにかく家斉の女癖はひどかった。手当たり次第に手を付けていった。もちろん大奥は、将軍の子孫を残すための場であるものの、彼には節操がなかった。

その精力は、驚異というほかはない。なんと16人の側室(異説あり)をもち、17人の女性から男27、女27、あわせて54人の子供を産ませているのである。もちろん当時のことだから、そのうち半数近くが早世してはいるものの、それでも男13、女12が成人している。

15歳で将軍職に就いた家斉は、17歳のとき、薩摩の島津重豪の娘・寔子(ただこ)を正室に迎えるが、ほぼ同時期、すでに年上のお万という女に手を出し、子を産ませている。

長女の淑姫である。

「薩摩いも、ふける間を待ち兼ねて、おまん(饅頭)食うて、腹がぼてれん」

この事実を落首にして、庶民は囃したてた。

以後、文政10年(1827)に55歳になるまでの約40年間、家斉は子づくりに励み続けた。気に入った女性には、ことごとく手を付けたと伝えられ、文化10年(1813)には、年間4人の子供をもうけている。

そのため、家斉の時代は大奥の全盛期となり、女性の数は1500人を超えたという。

千代田之大奥 歌合(写真=CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons)
千代田之大奥 歌合(写真=CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons)

■諸藩に子供を送り込んだ家斉の野望

それにしても、家斉の子供の数は異常である。単に好色だったということだけでは、説明がつかない気がする。

あくまで推測だが、次々と子供ができていくうち、家斉のなかにある野望が芽生えたのではないだろうか。その野望とは、他家乗っ取りである。

江戸時代、大名家はおよそ270あったというが、なんと家斉は、御三家をはじめとして、会津、加賀、福井、安芸、仙台、佐賀といった雄藩に、合計27人の我が子を養子や嫁として送りこんでいる。その数は、全大名家の10分の1に匹敵する。驚くべき数字である。

家斉は、大藩のすべてを自分の血筋の者に継がせ、将軍家の縁戚にすることによって、将軍独裁を狙ったのだと思う。

続々と誕生する子供たちを、新たに大名に取り立てることは財政上困難、それを表向きの理由に、家斉は諸大名家に次々と我が分身を送り込んでいった。

■怒涛の養子攻勢で、血が途絶えてしまった家も…

そのため、家斉の養子押し付けを巡って、さまざまなトラブルが発生する。

河合敦『徳川15代将軍 解体新書』(ポプラ社)
河合敦『徳川15代将軍 解体新書』(ポプラ社)

たとえば、福井藩である。藩主・松平斉承は、家斉の二十一子・浅姫を嫁にもらい、2人の間には男の子が生まれるが、すぐに早世してしまう。浅姫には、まだ次子が生まれる可能性があったにもかかわらず、家斉は無理やり五十子・民之助を押し込んだのである。

御三家筆頭の尾張家の場合は、さらにすごい。4人も家斉の子が養子に入っているのだ。家斉は、尾張の徳川宗睦の嫡子・五郎太に長女の淑姫を輿入れさせようとした。

結婚の取り決めは姫が2歳のとき、婚約は5歳だった。けれども五郎太が幼死してしまい、婚約は解消される。が、家斉は五郎太に代わって、我が子の敬之助(六子)を宗睦の養子にしたのである。

そして敬之助が3歳で死ぬと、すでに一橋斉朝に嫁いでいた淑姫を、夫婦そろって宗睦の養子としたのである。さらに、淑姫夫妻に子がなかったことから、四十五子・直七郎を養子に入れ、その子が死ぬと今度は三十八子の斉荘を送り、尾張藩主とした。

考えられないような養子攻勢により、藩祖義直以来の尾張家の血脈は完全に絶えてしまった。

■東京大学の赤門の意外な由来

もちろん、家斉の子をもらいたいと願い出る藩もあった。将軍の養子先は、格式の高い藩と相場が決まっていた。それゆえ、小藩の場合、家斉の子を養子にすると、自動的に家格が上がり、松平姓と三ツ葉葵の紋の使用が許された。

また、徳川家から拝借金をもらうことができた。これは弱小藩にとって、最大の魅力だった。だが、大藩に関しては、かなり閉口していた様子が窺える。

将軍の子を迎えるには、用意を整えるだけで莫大な費用がかかる。たとえば姫路藩などは、家斉の四十五子を嫁に迎えることで、財政が悪化したという。そういう意味では、大大名の力をそぐ効果もあったわけだ。

ちなみに、現在東京大学にそびえ立っている赤門は、元加賀藩の屋敷門で、前田家が家斉の二十一子をもらうにあたって、新築させたものである。

東京大学のゲート
写真=iStock.com/ranmaru_
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ranmaru_

いずれにしても、家斉の子供の数とその強引な養子戦略は驚くほかはない。

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河合 敦(かわい・あつし)
歴史研究家・歴史作家
1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一と岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数

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(歴史研究家・歴史作家 河合 敦)

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