「先生は食欲もすごかった」大の肉好きだった瀬戸内寂聴が"死ぬ前に食べたい"と切望した意外な食材
プレジデントオンライン / 2022年4月12日 15時15分
※本稿は、瀬尾まなほ『#寂聴さん 秘書がつぶやく2人のヒミツ』(東京新聞)の一部を再編集したものです。
■寂庵はいつも旬の物であふれていた
寂庵は、年中、全国の美味や珍味であふれていた。こんなに多種多様な食べ物を全国各地から送ってもらえることも珍しいだろう。すべて、先生に食べてほしいと送って下さり、私たちもそのおすそ分けをいただいていた。
季節ごとに旬の物を送っていただけるので、その食べ物の一番おいしい時季にいただく幸福を知ることができた。その経験を生かして、雑誌『クロワッサン』で食べ物についての連載を始めることもできた。
![瀬尾まなほ『#寂聴さん 秘書がつぶやく2人のヒミツ』(東京新聞)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/6/4/200/img_64158b6b96fd8c0f84cb3e60e912efd4315754.jpg)
季節の物をいただくと、春や秋など四季の訪れを感じることができる。夏は京都では鱧(はも)が名物。関西の水ナスも、みずみずしくておいしい。柿が届いて「もう秋だね」なんて先生と話すこともあった。
毎月、和菓子屋さんから届くお菓子にも季節を感じる。4月は桜餅、5月は柏餅、6月は水無月(白ういろうの上に小豆を載せたお菓子)……。お菓子は、目で見て美しさを楽しむこともできる。
寂庵に来る前は、こんな経験はしていなかった。「この果物はいつが旬」だなんて、気にもしていなかったから。本当にありがたいことだ。
■「最後の晩餐に食べたいものは…」
よく知られているけれど、先生は大のお肉好きだった。食卓にお肉がなく、魚が続くと文句を言う。「いつも魚ばっかり」って。お肉の中でももちろん、牛肉が大好き。少しでも、毎日食べたい派。そして、なんだかんだよく食べた。90代になってもコース料理はみんなと同じくらい食べられていたし、亡くなる少し前でも、先生と私の量が違うと「なんでそっちのほうが多いの?」と恨めしそうに……。30代の私と同じ量を食べようとする先生、すごすぎます。
さすがに近年は、実際にはそこまで食べられなかった。ただ、恨めしく思うようで、そんな先生を私はとてもおちゃめに感じていた。
先生の好きなもの……お豆、カラスミやバチコ(干しクチコ)などお酒のつまみ、おかき、チョコレート、パスタなどなど。
先生は亡くなる前、「最後の晩餐(ばんさん)」に食べたいものは、京都にある「大市(だいいち)」という店のすっぽんのお鍋だと言っていた。私も何度か連れていっていただいたけれど、コークスで1600度に近い温度で炊き上げるそのお鍋はいつまでもグツグツ。基本的にお鍋しか出てこない。天ぷらや小鉢などは出てこなくて、お鍋のみ!
この「大市」は、江戸中期創業、約340年続く老舗。まだ東海道新幹線が開通していない時代、大作家たちが、わざわざ東京からこのすっぽん鍋を食べにくるほど有名だったそう。先生も初めは作家の里見(さとみ)弴(とん)に連れられて行ったとのこと。
■外に出られない時も「すっぽん鍋が食べたい」
コロナ禍で外食も一切していなかった先生。先生も私も、おいしいものを食べることが楽しみなのに。コロナで静かな寂庵で「なんかおいしいもの食べたいですね~」と私が言うと、「本当よね、どこにも出かけていないし。大市のすっぽん鍋食べたい。食べに行きたい」と先生は言っていた。
お鍋は年中食べることができるけれど、やっぱり冬に食べたくなる。最後に卵をいっぱい落とした雑炊も格別! おもちも入っていてボリューム満点!
「あと、まなほがおいしいと言っていた洋食屋にも行きたい」
「洋食屋? どこでしょう……そんなこと言いました?」
「言ったじゃない! ほら、人を連れて行ったら喜んでもらえたとか」
「あー! シチリア料理のお店ですね。イタリアン!」
「そうそう、そこにも行きたいわ」
私もしばらくそこには行けていない。こぢんまりとしたお店で、シチリア島で使われる食器などを使い、装飾も鮮やかで、まるでシチリア島にいるみたい(行ったことないけど)。
何を食べてもおいしかった。先生を連れて行きたいと思っていたんだった。
![瀬戸内寂聴さん(左)と瀬尾まなほさん](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/1/d/670/img_1d40d8ce47eaaa197231d79973b11517401087.jpg)
■定期健診の帰りは「お好み焼き」がお決まり
私はまた先生と東京の帝国ホテルで朝食を食べたかった。フレンチトーストやワッフルがおいしい。編集者の方に連れていってもらった、きのこ鍋のお店にもまた行きたかった。東京での会食は、京都にはないようなお店も多くて、毎回、そのおいしさに驚き、感激していた。でも、最後の晩餐の「大市」のお鍋やシチリア料理を食べることも、先生とまた東京に行くこともかなわなかったな……。
先生はもう和食には飽きたようで、近年はパスタが大のお気に入りだった。パスタを出すと、「おいしい」といつもの2倍食べてくれる。ピザも好きで、外国の料理の方が先生は食べていて楽しいようだった。
ただ定期健診で病院に行く際は、帰り道にあるお好み焼き屋でテイクアウトするのがお決まり。夕食に残しておこうと話していたのに、ソースの匂いに我慢できず、「温かいほうがおいしいに決まってる! 食べようよ~」と先生。たしかに!
ソースの匂いはずるい。どんなにおなかがいっぱいでも匂いを嗅げば、胃にスペースができてしまう。名付けて関西人特有別腹。「おいしいね~!」と言いながら食べるお好み焼きのおいしいこと!
■見た瞬間「まずそう」と爆笑した料理は…
亡くなる前しばらくは、コロナの感染予防のため、先生と一緒に食事をしていなかった。だからお鍋もできないし、すき焼きもできなかった。先生にまず食べてもらって、その後私たちが食べていた。
早く一緒に食べる日が来てほしいと思っていた。そして、外出をしなくなった先生でも、「おいしいものを食べに行くなら、行こう!」と、重い腰をあげてくれたらいいなぁと思っていた。
コロナ禍では、私たちが作る料理でなんとか我慢してもらっていた。先生に喜んでほしい、と韓国料理や中華料理を取り寄せてみたりもしていた。なのに、先生は見た目重視なところがけっこうあって、ある日、私が作った和風麻婆豆腐を見た瞬間、爆笑しだして一言。
「まずそう」
カチン!!! さすがにムカついた~! ひどい! 心を込めて作った料理を一言バサリとぶった切る先生が私は時々小憎らしかった……。もっと努力しろということなのか……。
「あなたが来てからいろいろと知らない食べ物を食べさせてもらった」と、先生はある時急に私に言った。それは、私こそですよ。先生のおかげでおいしいものをたくさんいただきました。今、強く思うのは、同じものを一緒に食べて「おいしいね」と言い合えるのは何より幸福だということ。そんな瞬間が、先生と私にはたくさんあった。
![瀬戸内寂聴さん(左)と瀬尾まなほさん](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/0/d/670/img_0dc8174a381482ab88f99f075128a6e7358341.jpg)
■ついにその日がやってきてしまった
そして、11月9日。先生は静かに息を引き取った。
よくわからない、先生がもう死んじゃったってこと。全然わからない。
先生の急変には医師たちもみんな、驚きとショックを隠せない様子だった。先生、明日になれば寂庵へ帰れるはずだったのに。
病室の隅っこで泣いている私の肩を、看護師さんが抱いてくれた。涙が止まらなくて、状況を把握できていないはずなのに、悲しかった。
「先生、寂庵へ帰ってきたよ」
病院からの車での帰り道は、いつもの道を帰ってもらった。嵯峨野の広沢池(ひろさわのいけ)の前に来ると先生は必ず、「何百年前も変わらずこの風景だったのよね」と言ったものだった。
先生、寂庵に帰ってきたのわかってるかな? ベッドに運んでもらい、寒がりの先生にすぐ毛布をかけてあげてほしいと葬儀社の方に頼んだ。
近親者の方々に先生が亡くなったことを知らせた。それも本当にごく一部だけに。
それからほどなくして、新聞社から電話がかかってきた。「寂聴先生がお亡くなりになったとある筋から聞きました」と。「いえ、今、入院中で退院の目途はついておりません」。そう答えると、「今朝は元気にされているんですか? 会話はできるんですか?」と何度も聞いてきた。
■静かに、放っておいてほしいのに
亡くなったことをきっぱり否定しても何度も聞いてきて、翌朝も電話がかかってきた。「真摯(しんし)に取材をしてきました。長く付き合ってきて信頼関係があるので、信じていいのですね? 瀬尾さんがそうおっしゃるならば、信じます」とまで言われた。寂庵の門前には記者が数人張り込んでいた。仕事を全うしようとされているのはわかるけれど、その時の私には対応することが本当に嫌でしょうがなかった。
先生が入院していて元気だと言い切る私は嘘つき。嘘をつくのが大嫌いな私は、先生が死んでしまった瞬間から嘘つきになりました。
親族や私たちで話し合って決めたのは、とにかく静かに見送りたいということ。けれどもかなわず、ツイッターの拡散から「先生が死んだ」説が広がり、電話やメール、また寂庵前の張り込みが一気に増えた。私の個人的な携帯にも知らない番号から電話がかかってきて、鳴りやまなかった。
放っておいてほしい。そんな私たちの願いは、誰かの手によってあっけなく潰された。
とても頼りになる編集者の方々の協力により、訃報公表のタイミングやマスコミ対応などを事前に決めていたのに、先生が亡くなったことを公表する日を早めざるをえなかった。
■「まなちゃんにメイクしてもらうの、先生好きだったもんね」
それでも、ある新聞社はどこからか確証をつかみ、どこよりも早く報道した。ごく数名にしか伝えていないのに、誰が漏らす? 疑心暗鬼になった。テレビで速報が流れた瞬間、ああ、もうこれで先生が亡くなったことが世間に知れ渡ってしまうんだ、と涙があふれた。私たちの秘密にしておけば、世の中では先生はまだ生きていた。先生はまだ存在していた。
![瀬戸内寂聴さん(左)と瀬尾まなほさん](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/c/4/250/img_c4d3fa947fc28a1c82c62d884b50085e383977.jpg)
でも、もう先生がいないってこと、この世にいないってことが公になってしまった。そこからまた事務所の電話と私の個人携帯は鳴りやまず、すべて無視するほかなかった。
認めたくないことなのに、認めないといけない。苦しい、お願いだからそっとしておいてほしい。寂庵にいた者はみんな、そう思っていただろう。
そこからバタバタと寂庵で、ごく近親者だけでの通夜と密葬をすませた。先生が生前に「死に化粧はまなほに」と言ってくれていたので、お化粧は私がさせてもらえた。でも本当は、冷たくてかたい先生の顔を泣きながらメイクする日が来るなんて思いもしなかった。
みんなが「まなちゃんにメイクしてもらうの、先生好きだったもんね」と言ってくれた。
先生、悲しいよ。
■今にも起きてきそうな、安らかな顔だった
メイクをした先生はまるで眠っているような安らかな顔だった。みんなが「眠っていて、今にも起きてきそう」と言っていた。頭も剃ってもらい、死に装束としてちりめんの紫の直綴(じきとつ)を羽織り、今にでも法話をしてくれそうだ。先生のその姿を見て、本当に信じられなかった。
火葬場まで行き、先生のお骨を拾っても、実感がなかった。親族の方の許可をもらい、先生の遺骨を分けてもらった。右手と左手の指の骨。先生は、私がこれからも書き続けられるようにと強く願ってくれていたから、そうできたらいいなという願いもこめて。
先生の遺骨はメモリアルジュエリーとして指輪にして常に身につけておきたいと考えている。先生がいつもそばにいる、そう感じることができるならこんなに心強いことはないだろう。
忙しくしている日々の中でも、ちゃんと死に目にも会って、最後までそばにいられたのに、私はいまだに実感がない。毎朝、お堂に行き、先生の遺骨に話しかけるけれど、この状況自体がまるでフェイクのよう。
バタバタと忙しくしていても、先生のためではなく、先生の知り合いの人のために、先生に言われて私たちが必死に働いているような感覚で、終わったら先生が、「よく働いたね、疲れたでしょう、ビールでも飲もう!」と労(ねぎら)ってくれるような気がしてならない。そんな中でも、息子がいることで毎日をなんとかこなせているとも感じた。
![瀬戸内寂聴さん(左)と瀬尾まなほさん](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/e/8/670/img_e8f7cfe975187e13c02ebd3a85110f69399774.jpg)
■「死んだらチビのこと守ってあげる」と言ってくれた
どんなに悲しくても、苦しくても、息子を保育園へ送り迎えし、ごはんを食べさせ、お風呂に入れて寝かしつける。もし独りだったら、きっと部屋で泣いて落ち込んで食事もとらないだろう。
けれど、息子がいると、すべてを投げ出してしまいたくともそういうわけにはいかない。どんなことがあっても時間を止めてはいられないのだ。
先生が亡くなって2日後、息子を先生に会わせた。何もわかっていない息子は、先生がいつものように眠っていると思っていて、「よしよししてあげて」と言うと先生の頭を撫(な)でた。その後すぐに、テーブルの上の原稿用紙に「ジジ!(字や絵をかくこと)」と言って、ペンを持ち、絵を描き始めた。息子にとってはそれがいつもの先生との過ごし方だったからだ。先生ともう会えないことも、先生にもう抱きしめてもらえないこともわからない息子。
何もわかっていないがゆえの笑顔と明るさに何度救われただろう。私独りじゃきっと、悲しみの沼に深く、深く沈み込んでいただろうから。先生が愛してくれた息子がいるから大丈夫、とも思えた。生前先生は、「死んだらチビのこと守ってあげる」と言ってくれていた。心強いね。
最後に手紙を書き、それを棺の中に入れた。「先生、私からの最後の手紙。今まで本当にありがとうございました」とお礼を言いながら。花に囲まれ、寂庵の庭の紅葉や花々にも包まれた先生はきれいで、最後まで眠っているようだった。
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瀬戸内寂聴秘書
1988年2月22日兵庫県神戸市生まれ。京都外国語大学英米語学科卒業と同時に寂庵に就職。3年目の2013年3月、長年勤めていたスタッフ4人が退職し、66歳年の離れた瀬戸内寂聴の秘書としてキャリアをスタート。2017年6月より「まなほの寂庵日記」(共同通信社)を15社以上の地方紙にて連載している。2021年4月より読売新聞にて「秘書・まなほの寂庵ごよみ」を連載スタート。2019年~2021年、雑誌『クロワッサン』にて「口福の思い出」連載。『おちゃめに100歳!寂聴さん』『寂聴先生、ありがとう。』『#寂聴さん 秘書がつぶやく2人のヒミツ』(東京新聞)など著書多数。困難を抱えた若い女性や少女たちを支援する「若草プロジェクト」理事も務める。
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(瀬戸内寂聴秘書 瀬尾 まなほ)
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