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「伊豆での逆転にこだわっていたら滅亡必至」あえて房総半島から巻き返した源頼朝に学ぶビジネス戦略

プレジデントオンライン / 2022年4月13日 12時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Jason Carr

源頼朝はなぜ平家一族を打倒し、鎌倉幕府を開くことができたのか。ビジネス戦略コンサルタントの鈴木博毅さんは「強力なライバルがいる場所から戦いを始めると、永久に1位になれない。初期の頼朝が、10倍の平家勢力が支配する伊豆で戦うことに固執したら滅亡していただろう」という――。

※本稿は、鈴木博毅『戦略は歴史から学べ』(日経ビジネス人文庫)の一部を再編集したものです。

■武士として初の「殿上人」を輩出した平家一族

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。奢れる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者もつひには滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ」(河合敦『平清盛と平家四代』より)

多くの日本人が知る、平家物語の冒頭の一節です。世間で勢いがあり盛んな者も、必ず衰える無常のことわりを伝えています。現代から900年前、わが世の春を謳歌(おうか)していた平家一族は、一度は都から追いやった源氏に敗れて滅亡します。

平清盛の父、忠盛は白河上皇に近づき武士としてはじめての殿上人となった人物です。

殿上人とは、天皇の日常生活の場「清涼殿」に上がることを許された者を指します。

■源氏はクーデターを起こし、朝敵となった

もともと平家と源氏は敵対していたわけではなく、白河上皇が院政を敷いたときに、自らの権力の土台として武士を利用したことから因縁が始まります。頼朝の曽祖父である義親(よしちか)は、白河上皇の命令を受けた正盛(清盛の祖父)に討たれているからです。

1156年の保元の乱でも、配下の平家と源氏は激しく衝突することになります。

3年後の平治の乱で、源義朝と藤原信頼は二条天皇を幽閉して院政を敷くクーデターを起こしますが、天皇は脱出して清盛のいる六波羅(ろくはら)に辿り着きます。朝敵となった義朝と信頼は討たれ、父と従軍したわずか13歳の頼朝も平家に捕らわれ死罪となるところ、幼少であったことで伊豆へ流刑となりました。

■弟義経の奇襲作戦が成功し、平家は滅亡

伊豆で頼朝は20年近くの歳月を過ごしますが、地方豪族の北条時政の娘(政子)と恋におち、やがて夫婦となることで、北条氏の後ろ盾を得て台頭します。

1180年に、平家の栄華の陰で不遇だった以仁王(もちひとおう)が、平家討伐の指令を全国の源氏に伝えました。同年に頼朝、木曽義仲が挙兵。1181年には、平家の繁栄を支えた清盛が病死します。

しかし、京に入った義仲が暴政をふるったため、頼朝は弟である源義経に義仲を討たせます。義経は一ノ谷の戦いで敵陣の背後の谷から攻める「鵯越(ひよどりごえ)」を成功させて平家は海に逃れ、香川県の屋島、下関の壇ノ浦の戦いでも義経は連勝して平家を滅亡させます。

義経は奇襲の達人であり、屋島の戦いでも暴風雨を衝いて上陸し、各所に火を放って大軍だと思わせた上で、敵陣の後ろから突入して平家を大混乱に陥れました。

■頼朝は自分が1番になれる選択肢を取った

頼朝の挙兵は、実は敗北から始まります。伊豆で平家配下の山木兼隆を奇襲して殺しますが、事件を知った平家は関東の武士3000人を集めて頼朝を包囲。300人の頼朝側は、あっという間に敗北、頼朝と敗残兵は房総半島まで逃れます。

房総半島には、味方だった三浦一族の縁者があり、関東平野には亡父の義朝とつながる源氏ゆかりの者も多く、千葉、次は関東平野へと段階的に支配力を拡大。先の敗戦から1カ月ほどで、関東の豪族を束ねて数万の兵力となり、鎌倉入りを果たします。

のちに、富士川の戦い(1180年)で平維盛(これもり)を破った頼朝側は、2択を迫られます。

・敗走する平家の軍を追撃して京都に向かうか
・関東に再び戻り、帰順していない勢力を討伐するか

頼朝は京都に進まず地固めをします。佐竹氏など、頼朝に帰順せず未だ平家の影響下にあった関東の豪族を滅ぼして、地域の絶対的地位を確立します。頼朝は、小さくとも自らが1番となれるエリアに向かい、段階的に勢力範囲を拡大していったのです。

ナンバーワンのシンボルに向かって歩く男性
写真=iStock.com/mikkelwilliam
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/mikkelwilliam

■平家が手を焼いた朝廷や寺院勢力の懐柔に成功

一方の京都では、貴族の公家や朝廷(天皇・上皇)、僧兵を持つ寺院勢力など、さまざまな勢力が拮抗する中で、平家は権力の均衡を維持できない状態になっていました。

1180年には6月に福原遷都が失敗。年末に興福寺の反乱を鎮圧した平重衡(しげひら)が火を放って東大寺などを焼き払い、清盛が注意深く友好関係を築いてきた寺院勢力を激怒させ、支配力を低下させます。

翌年には清盛が病死(享年64)。優れた判断力で平家を繁栄させた清盛の死後、残された平家一族は権力維持の方法がわかりませんでした。

清盛が死去した1181年は飢饉(ききん)でしたが、頼朝は後白河法皇と比叡山に密書を送り、比叡山には関東からの年貢(食糧)を約束し、後白河法皇には源氏は謀反の心はなく、法皇のため平家を排除し、再び朝廷の傘下に入りたいのだと伝えます。

頼朝は巧みに、京都の3勢力が一致団結して源氏に当たることを防いだのです。

老獪(ろうかい)な後白河法皇は、のちに平家なきあと源氏の2人(頼朝と義経)を争わせ、自らの権勢維持を狙いますが、頼朝は毅然(きぜん)として義経を討伐して分裂の隙を与えませんでした。

■霧島酒造が首都圏や関西を後回しにしたワケ

麦焼酎「いいちこ」で有名な三和酒類を抜いて、2012年に焼酎業界で売上高第1位となった霧島酒造は、市場として博多を攻略したあと、同規模の広島と仙台をターゲットにし、首都圏や関西などの大消費地を後回しにして全国展開しました。

大都市は強力なライバルが多い上に、販売管理費がかかるというリスクがあったからです(1998年の売上高は約82億円、2014年には約566億円と7倍へ拡大)。

「最初にたたくべき攻撃目標というのは、俗に言う『足下の敵』である。射程距離圏内にくっついている足下の敵というのがまず攻撃目標としては優先する。つまり、2位は3位をたたかなければだめだということになろう」(田岡信夫『ランチェスター販売戦略1 戦略入門』より)

■1位の会社を目指しつつ、自社より下位の弱者を攻撃する

強力なライバルがいる場所から戦いを始めると、永久に1位になれません。初期の頼朝が、10倍の平家勢力が支配する伊豆で戦うことに固執したら滅亡していたでしょう。

妻の政子を置いて房総半島に渡った頼朝は、自らが1位の影響力を発揮できる場所にあえて向かい、源氏勢力を巻き込み優位を確保してから反攻したのです。

富士川の戦いに勝ったあと、頼朝が京都を目指した場合、平家に勝っても後白河法皇など朝廷の傘下に留まる地位となったはずです。京都で彼は突出した1強ではないからです。

頼朝は平家打倒の戦争でも一貫して鎌倉を離れず、勝利後は全国に武士の管理者(守護・地頭)を置いて影響力を高めて、武家による鎌倉幕府を開きます。

鈴木博毅『戦略は歴史から学べ』(日経ビジネス人文庫)
鈴木博毅『戦略は歴史から学べ』(日経ビジネス人文庫)

先の『ランチェスター販売戦略1 戦略入門』は、「競争目標」と「攻撃目標」を分けるべきだと述べていますが、要は1位の会社を目指しながらも、攻撃するのは自社よりも下位の弱者であるべきということです。

平家亡き後、京都の朝廷権力だった後白河法皇は、源氏勢力を分断するため義経らと結びますが、法皇は結局、頼朝の勢力には対抗できないと判断して、頼朝側に近づき義経を裏切ります。京都では、すでに頼朝側を支持する勢力が多数で、義経は兵略に優れながらも人望がなかったからです。

後白河法皇と義経が本気で頼朝に対抗するならば、頼朝の支持者が少ない瀬戸内海か九州に共に移動してから挙兵、膨張すべきでした。彼らが京都で反旗を翻したことは、強力なナンバーワン企業がいるエリアに、弱小企業がいきなり挑むことに似ていたのです。

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鈴木 博毅(すずき・ひろき)
ビジネス戦略コンサルタント
1972年生まれ。慶應義塾大学、京都大学経営管理大学院(修士)卒。貿易商社、国内コンサルティング会社を経て独立。戦略史や企業史を分析し、負ける組織と勝てる組織の違いを追求しながら、失敗の構造から新たなイノベーションのヒントを探ることをライフワークとしている。日本的組織論の名著『失敗の本質』を現代ビジネスマン向けにエッセンス化し、ベストセラーとなった『「超」入門 失敗の本質』ほか、著書多数。

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(ビジネス戦略コンサルタント 鈴木 博毅)

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