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1日30人を相手にしてボロボロに…教科書には載っていない「進駐軍向け特殊慰安所」の実態

プレジデントオンライン / 2022年4月14日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/romkaz

終戦からわずか3日後の1945年8月18日、政府は米兵向けに女性をあてがう施設を作ることを全国の知事に命じた。日本人客は入れない施設では、なにが行われていたのか。元NHK記者の村上勝彦さんの著書『進駐軍向け特殊慰安所RAA』(ちくま新書)より紹介する――。(第1回)

■慰安所の場所は警視庁があっせんした

RAA(特殊慰安施設協会)が最初に開いた慰安施設が、京浜電車の大森海岸駅から2分ほどのところにあった「小町園」である。

米軍の先遣隊は1945年8月28日に神奈川県の厚木基地に到着することになっており、東京に向かう途中の京浜道路沿いの場所が選ばれた。

大森海岸には、花街と呼ばれた待合や芸妓屋が軒を並べた一帯があり、戦争中は軍需工場に駆り出された挺身(ていしん)隊の寮に使われていた。遠浅の海岸で海水浴場であり、ノリの養殖も盛んであった。今の平和島1丁目、平和島競艇場のあたりには戦争中、米軍や英軍ら様々な国籍の捕虜たちを集めた捕虜収容所があった。

小町園はその花街に続く料亭の一つであった。所有者は慰安所と聞いて貸すのを嫌がったが、警視庁があっせんし、RAAが借り上げたという。

10畳、20畳の部屋を小部屋にする余裕もなく、畳敷きの大部屋を布や屛風で仕切っただけで「割部屋」と呼ばれた。

8月26日に、小町園には30人ほどの女性が送り込まれた。彼女たちを乗せたトラックが本部を出発するとき、幹部たちは思わず「万歳」と叫んだという。

■年頃の娘たちは「人身御供」にさせられた

1956年3月10日の『内外タイムス』には、連載していた戦後売春史のRAAの項を終えるにあたり、RAAの関係者の座談会の記事が載っている。

一人は「開店する前日、幸楽に三十人ばかりの女を集めた。というのは、ダンサー、女給、芸者という名目で募集した連中だから、明晩から開業する慰安所での仕事は、実は“肉体サービス”であることを納得させなければならなかったのだ。

二階に三つテーブルを置いて、一人一人呼んで、説明をはじめた。驚いたねえ。『いやだわ』と反対する女はほとんどなかった。その夜のうちに女たちはトラックにのせられて出発していった。ボクはその出発を見送ったが、ひとりでに涙が出ましたよ。可愛い年頃の娘たちが『人身御供』にあがるのかと思って……」。

別の一人は「年齢的には一八、九歳から二五、六歳までの乙女たちだった。出発の時はたしか万歳を叫んだっけ」

■ジープが着くと同時に米兵たちは突撃してきた

開業時の様子について一人は、「ジープでどっとやってきた。沖縄から横浜にやってきた第八軍じゃなかったかな。みんな相当“たまっていた”とみえて、ジープが着くと同時にトキの声をあげて“突撃”してきた」

さらに別の一人は「人に見られようといっこうおかまいなしだったね。可哀想なのは女でしたよ。それこそアラシに見舞われた小舟のようにみんなクタクタだった」

兵士たち
写真=iStock.com/avid_creative
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/avid_creative

■RAAに与えられていた大きな権限

RAAの力について一人は「政府と同じくらいの権限があった。その権限でつぎつぎと家を買い取ったりして開店していった。軍が隠匿したガソリンなんかもたくさん入手した。月島に倉庫を借りてドラム缶が山のように積まれたくらいだった」

別の一人も「RAAの証明があれば何でも買えた。食糧でも衣類でもね。女に着せる着物、銘仙だったが三越と白木屋から買っていた」と語っている。

彼女たちにはメリンスの長じゅばん一枚、肌着と腰巻二枚が支給された。他にセルロイドの洗面器、石鹼、歯ブラシ、歯磨き粉、タオルに手ぬぐいが東京都から特別に配給されたという。

■慰安所の料金は「30分30円」

小町園の開業は『R・A・A協會沿革史』によれば8月27日とある。

しかしRAAの情報課長であった鏑木清一は結成式のあった8月28日としている。厚木基地に米軍の先遣隊が到着したのは28日であった。

ドウス昌代は『敗者の贈物』で8月28日に大森の捕虜収容所から海兵隊員が重体の米兵を救出しており、小町園に客が入ったのは早くとも29日と思われるとしている。

このように小町園に米兵が来た初日ははっきりしないが、進駐軍用の慰安所設置の通牒が出て10日ほどで娼婦を集め施設を確保し様々な準備がなされたということである。

慰安所の料金は、30分のショートタイムは30円で、協会側と女性の折半であった。これはそれまでの吉原や玉の井などの娼館よりは割が良く、娼婦の経験者は喜んだという。

ショートタイムにしたのは、ただ数をこなすためだった。一人が終わると洗浄する間もなく次の兵士が入り込み、1日で20〜30人を相手するのはざらであった。料金は間もなくショートタイム100円になった。

■慰安所の初日は、興奮した米兵で大混乱に

いずれにしろ多くの米兵が小町園に押し寄せたのは事実で、『R・A・A協會沿革史』やRAA情報課長の鏑木清一の『進駐軍慰安作戦』、『ダイヤモンド』1952年5月号の警視庁係長大竹豊後「肉体の防波堤」、『りべらる』1954年11月号の糸井しげ子「日本娘の防波堤」などでの米兵がきた初日の描写は、どれも似たように述べられている。

村上勝彦『進駐軍向け特殊慰安所RAA』(ちくま新書)
村上勝彦『進駐軍向け特殊慰安所RAA』(ちくま新書)

それらをまとめて再現すると次のような様子だったろう。

どこから聞いてきたかはわからないが、小町園の前の京浜国道には大勢の米兵が集まり口々に早く開けろと叫んでいた。大部屋をカーテンだけで仕切った割部屋にはカーテンに番号が書かれ、玄関で番号札を渡す仕組みにしていた。

米軍の憲兵(MP)までが出動し、順番の列を作らせていたが、番号札をよこせと叫ぶ兵士が多く、RAA協会が用意した通訳もあまり役には立たなかった。

しかも番号札を受け取り、中に入った兵士たちは、日本住宅を知らず、靴のまま上がり込み、障子やふすまをドアと勘違いし押して外してしまったり、蹴破って入るほどであった。

中には女中の案内役を芸者と勘違いしていきなり抱き付いたり、着物に手を入れようとする兵士もいて、入口や廊下は大混乱していた。男の事務員はそれまでの敵兵から睨みつけられ、英語もわからず小さくなっていた。

障子と手のシルエット
写真=iStock.com/Goldfinch4ever
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Goldfinch4ever

■性の処理道具になった女性たち

小町園に最初に送り込まれた女性たちは娼妓の経験者がほとんどであったが、初めてみる大柄な黒人兵や白人兵に恐れおののき、柱にしがみついたり逃げ惑ったりした人もいた。しかし女性に飢えた兵士たちは構わず割部屋に抱え込んだ。

いくら娼妓の経験があったとはいえ、一人を終え洗浄室から戻ると裸になった次の男が待っているという状態で、休む間もなく次々にやってくる身体の大きな米兵に慰安婦の女性たちは疲れ切り、苦しそうに息をはき身体を横たえているだけであった。まさに性の処理道具であった。

■壁には日本娘の血の跡がしみついている

小町園の女中だったという糸井しげ子は「小町園の柱の一つ一つ、壁の一面には、日本娘の貞操のしぶきが、流した血の跡がしみついているはずなのです」と思いを語ると同時に、「戦前の落ち着いた奥ゆかしい小町園を知っている方に、終戦当時にあの悪夢のような姿を想像していただけるでしょうか」と、1954年時点で、一般の人たちには進駐軍向けの慰安所があったこと、それがどんな様子だったのか、知られていないのではないかという気持ちを表している。

RAA情報課長の鏑木清一は職業的娼婦を集めたとしているが、開店時は別として、幸楽前の大看板や新聞広告を見てやってきた多くの未経験者がいたことは事実である。

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村上 勝彦(むらかみ・かつひこ)
元NHK記者
1953年富山県生まれ。東京大学卒業後、NHKで記者として20年余り勤務。その後編成や経営計画などを担当。退職後、BPO(放送倫理・番組向上機構)事務局に勤務し、放送の自律に関わる。現在は『月刊マスコミ市民』の編集委員。著書に『政治介入されるテレビ 武器としての放送法』(青弓社)がある。

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(元NHK記者 村上 勝彦)

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