数百台の人力車行列が見られたのは日本だけ…教科書には載っていない「維新直後」の交通事情
プレジデントオンライン / 2022年4月17日 12時15分
※本稿は、安藤優一郎『教科書には載っていない 維新直後の日本』(彩図社)の一部を再編集したものです。
■「文明開化の象徴」鉄道建設計画は徳川時代から始まっていた
黒煙をあげながら疾走する蒸気機関車の姿は、明治の文明開化のシンボルである。錦絵の題材にもなっており、鉄道は新時代の到来を視覚化したといえるが、鉄道が建設されるまでに、政府が幾多もの難題に悩まされていたことは、あまり知られていない。
そもそも、江戸・横浜間の鉄道敷設は、幕府が倒れる直前に決定していた。アメリカ公使館の職員が江戸・横浜間の鉄道建設を申請し、老中の許可を得ていたのである。
江戸には外交関係を取り結んだ西洋諸国の公使館が置かれた一方、開港地となった横浜には領事館が置かれた。横浜には、日本との貿易に従事する貿易商人も大勢居住していた。よって、西洋諸国としては事実上の首都だった江戸と横浜の間を迅速に移動できる鉄道の建設を望んだのである。
そうした要望を踏まえ、アメリカが鉄道建設の免許を受けることに成功した。ところが、その直後に幕府が倒れてしまい、アメリカに与えられた鉄道建設の免許は、無効となってしまう。
その後、イギリス公使のパークスが政府に強く運動し、明治2年(1869)11月にイギリス援助のもと、東京・横浜間の約29キロに鉄道が建設されることが決まる。明治に入ると、外国の商人は東京でも商売ができるようになったため、東京と横浜を結ぶ鉄道への期待がさらに高まっていた。
イギリスが鉄道建設の援助に積極的だった裏には、アメリカへの警戒心があった。アメリカの援助のもと鉄道が建設されてしまえば、日本に対する発言権が強くなるのではないか。そんな懸念があった。日本をめぐりイギリスとアメリカの間では外交戦が繰り広げられていた。
日本にとって最大のネックだった財源は、ロンドンで100万ポンドの公債を募集することで解決への目途が立つ。こうして、順調にスタートしたかに思えた鉄道建設計画だが、最大の問題が残されていた。政府内外の理解を得ることであった。
■政府内外から起きたクレームの嵐…
イギリスの支援を受けてスタートした鉄道建設計画だが、政府内では、外国の援助による鉄道建設に懸念の声が強かった。借財が返済できなければ植民地にされてしまうのではという疑念が渦巻いていたからだ。
これを抑え込んだのが、開明派官僚として鳴らした佐賀藩出身の大隈重信や、長州藩出身の伊藤博文である。彼らが強く主張したことで、ひとまず鉄道建設は決まった。
政府の決定を受け、イギリスからエドモンド・モレルが技師長として来日する。イギリスの技術援助のもと、翌3年(1870)3月より線路予定地の測量がはじまった。
だが、作業はスムーズには進まなかった。
鉄道は東海道と並行する形で敷設される予定だったが、東海道沿いに広大な屋敷地を持つ島津家などの諸大名が線路予定地の引き渡しを断固拒否したのである。線路予定地で生計を立てる町人や農民といった地域住民にしても、引き渡し、つまり立ち退きには激しく抵抗した。
さらに、現在の防衛省にあたる兵部省(ひょうぶしょう)も国防上必要であるとして、線路用地として予定されていた高輪(たかなわ)の同省管轄地所の引き渡しを拒否する。政府内からもクレームが入った形であった。
ここに至り、大隈や伊藤たちは窮余の一策を思い付く。
■築堤を造らざるを得なかった
用地買収が暗礁に乗り上げたのは芝から高輪海岸を経て品川に至る約2.7キロの区間だが、海岸から数十メートル離れた沖合に鉄道を敷設することを決める。この方法ならば、土地を買収する必要はない。
海上に築堤(ちくてい)を建造し、その上に線路を敷設して蒸気機関車を走らせようと考えたのだ。海を埋め立てた上に石垣で造られた防波堤を築く計画であり、これが今も残る築堤である。石垣には、ペリー来航を受けて東京湾(江戸湾)に造られた品川御台場の石などが再利用された。
埋め立てを含む土木工事を担当したのは佐賀藩御用達(ごようたし)・高島嘉右衛門(かえもん)と薩摩藩御用達の平野弥十郎(やじゅうろう)であり、高輪築堤の建造は平野が担当する。平野の手記によれば、品川御殿山の土を馬車で運んで埋め立てなどに使用したという。日本の職人が築いた堤の上に、イギリスから輸入したレールが敷かれたのである。
こうして、明治5年(1872)9月12日に東アジア最初の鉄道が新橋・横浜間で開業する。この日は新暦の10月14日にあたり、これを記念して毎年10月14日が鉄道の日に定められた(『東京百年史第2巻』東京都)。
それから約150年後にあたる令和3年(2021)8月23日、高輪築堤跡が史跡に指定され、現在保存調査が継続されている。
■注目が集まる鉄道の裏で激増した人力車
江戸時代まで、移動手段は徒歩にほぼ限られた。水路の場合は船を使わざるを得ないが、陸路の場合は馬や駕籠(かご)はあったものの、その使用は急用などの場合に限られた。将軍や大名や公家などは例外だが、料金を要する馬や駕籠を使用するのは懐に余裕のある武士や商人だけだった。
明治に入ると、新しい交通手段が登場する。鉄道はその最たるものだが、維新直後は東京・横浜間という限られた路線だったこともあり、乗車する者はさほど多くはなかった。もちろん料金の問題もあったが、人力車となると話は別である。
現在は観光地で見かけることが多い人力車が登場したのは明治3年(1870)3月のこととされるが、翌4年(1871)末には東京府下で1万820輌(りょう)の人力車があったという。かつて江戸の町でどれだけの駕籠が稼働していたかはわからないが、その数に比べれば十数倍にも及んだはずだ。
明治9年(1876)には2万5000輌に達し、その急増ぶりには目を見張るものがあった。それだけ人力車は利用された。
■庶民にとっては「高嶺の花」
人を車に乗せて引く人力車は日本独自のものとも言われるが、実際のところはフランスに類似する先例があったという。しかし、ヨーロッパに先例があったとしても、日本ほど普及した国は他に例をみない。
幕末に入ると、大八車のような荷車に人を乗せて運ぶ事例が出てくるが、現在も見かけるような椅子に座ったスタイルの人力車が登場するのは明治に入ってからである。明治3年(1870)3月に、和泉要助・鈴木徳次郎・高山幸助のグループが人力車の営業を東京府から許可され、日本橋の高札場前に人力車を置いて営業を開始する。
当初の料金は、日本橋から2キロ弱の両国まで乗って12~13銭。当時の非熟練労働者の日当に近かったとされる。東京・横浜間の汽船の運賃が37銭5厘だったことを踏まえても、庶民にとり高嶺(たかね)の花であったのは間違いないが、その後人力車の数が急増することで運賃は下落していく。
■車夫となったリストラ士族
明治5年(1872)4月、東京府は人力車の運賃を1里つまり4キロにつき6銭2厘と定める。その数が増えたことで、運賃の引き下げも可能になったのだろう。日本橋・両国間の運賃についても3銭ほどに落ち着く。半分以下に下落したことがわかるが、その後も人力車の数は増え続けたため、料金の下落は続く。
それだけ、人力車は広く利用されるようになっていた。人々は争うように人力車に乗ったが、物珍しさのほか、運賃が安く、駕籠に乗るよりも早かったことが理由である。
当時の新聞には、行き交う人力車のため街道が塞がるほどだったとある。新橋・横浜間の鉄道が開業した後は、新橋停車場の外には何百台もの人力車が待っていた。鉄道に乗れるだけの余裕があれば、人力車に乗ることには何の躊躇(ためら)いもないはずだ。新橋から人力車に乗って、日本橋など東京の中心部に向かった。
人力車の増加は車夫の増加を意味したが、士族が車夫となった事例も少なくない。特に明治9年(1876)の秩禄(ちつろく)処分(しょぶん)で、旧藩士だった士族への俸禄(ほうろく)支給が事実上ストップすると、手に職もない士族は車夫として活計の道を探る事例が多かったのである(鈴木淳『新技術の社会誌』中央公論新社)。
■乗合馬車の登場
文明開化が視覚化された交通手段としては鉄道や人力車のほか、乗合馬車も挙げられる。日本で最初に馬車が登場したのは開港地横浜であり、安政6年(1859)の開港から2、3年後のこととされる。
最初は外国人居留地内を乗り回すだけだったが、江戸に置かれた公使館との連絡用でも使用された。幕府が倒れる直前の慶応3年(1867)秋には、横浜居留地に進出していた外国の馬車会社が江戸・横浜間の乗合馬車の営業を許可されたが、その直後に幕府が倒れたことで仕切り直しとなる。
明治に入ると、東京に外国商人たちが居住する築地居留地が設けられた。これにより、築地と横浜を結ぶ乗合馬車が政府の免許を得て営業を相次いで開始する。
それだけ需要があったが、実は外国人による経営だった。毎日午前9時と午後2時に、築地と横浜から2輌ずつ発車した。
■交通量の増加で死亡事故も
外国人が乗合馬車の事業に次々と参入したのに刺激を受ける形で、日本人も東京・横浜間の乗合馬車の営業を政府に出願し、許可される。
明治2年(1869)5月に開業となったが、この段階では築地・横浜間のルートのみで、東京のほかの場所に馬車が乗り入れることは認めなかった。混雑している市街地に乗り入れてしまうと事故が起きやすいと懸念したからである。
築地以外への馬車乗り入れを許したのは明治4年(1871)9月のことである。認可されたのは五つの路線だったが、それだけ需要があると業者側では見込んでいた。人力車の数が激増したように、人々の間に新しい乗り物への関心が高まったことも追い風となったのだろう。
実際のところ、乗合馬車を利用する者は増えていた。それに合わせて馬車も増便され、交通量が激しくなる。人力車も馬車以上に走っており、交通量の激しさに拍車をかけた。
となれば、交通事故が増えるのは避けられない。怪我だけにとどまらず、死者まで出ていた。
■江戸城門が次々撤去されることに…
交通事故が多かったのは、交通量の激しさは勿論だが、道路の状態があまりよくなかったことも大きな要因だった。急ぎ修繕する必要があったが、人と車の通る道を区別する必要もあった。道路も拡張しなければならない。
問題は財源だが、政府はその費用を車税として徴収することを決める。徴収対象は馬車、人力車、駕籠を所有している者たちであった。
道路の修繕や拡張を進める一方で、馬車などの通行を妨げるものも取り除かれた。撤去の対象には旧江戸城の城門なども含まれた。
城門は見附(みつけ)枡形門(ますがたもん)のスタイルが取られ、敵が攻め込んでも直進できないよう右折あるいは左折する構造だった。これは防御しやすいように造られた施設であり、要するに、スムーズに通行できないようになっていた。
よって、城門ごと撤去することで、スムーズな通行を可能にしたが、これにより江戸城の城門は大手門など一部を除き、次々と取り壊される。石垣のみが残され、今に至っている(『都史紀要33 東京馬車鉄道』東京都)。
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歴史家
1965年千葉県生まれ。早稲田大学教育学部卒業、同大学院文学研究科博士後期課程満期退学。文学博士。JR東日本「大人の休日倶楽部」など生涯学習講座の講師を務める。主な著書に『明治維新 隠された真実』『河井継之助 近代日本を先取りした改革者』『お殿様の定年後』(以上、日本経済新聞出版)、『幕末の志士 渋沢栄一』(MdN新書)、『渋沢栄一と勝海舟 幕末・明治がわかる! 慶喜をめぐる二人の暗闘』(朝日新書)、『越前福井藩主 松平春嶽』(平凡社新書)などがある。
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(歴史家 安藤 優一郎)
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