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「小学生の問題だから簡単だよ」は禁句…少年院の教師が「これは算数ではなく数学」と強調するワケ

プレジデントオンライン / 2022年4月24日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kazuma seki

中学生の学力を伸ばすにはどうすればいいのか。少年院院長を歴任してきた村尾博司さんは「それぐらいの子どもには数学を教えるといい。数学が分かるようになれば、学びの突破口になる。ただし、どれだけ簡単な問題でも、『算数ではなく数学を教えている』と意識する必要がある」という――。

※本稿は、髙橋一雄・瀬山士郎・村尾博司『僕に方程式を教えてください 少年院の数学教室』(集英社新書)の一部を再編集したものです。

■少年院での教科指導が抱え続ける三重苦

中学生および6割以上を占める中学卒業・高校中退者に対する教科指導の最大の目標は、基礎学力を身につけることには間違いありません。しかし、時間的制約、さみだれ入院、基礎学力の問題という三重苦に加えて、専科体制をとれない指導体制の問題が加わった宿命的な課題が横たわっているのです。

矯正教育の柱のひとつである教科指導において、なぜ数学に着目したのか、お話をさせて頂きます。前述した教科指導が抱える課題は、私が法務教官として採用されてから、一貫して変わらずにありました。

劣等感から抜け出せず、学ぶ意欲が湧かない少年たちの問題は、学びを諦めてきた彼ら自身の問題以上に、諦めさせてきた大人の側の問題が大きいと言えます。とりわけ、数学では「3ナイ」現象と呼ばれる問題が少年たちを苦しめていました。つまり、分からナイ、つまらナイ、役に立たナイです(秋山仁氏。「朝日新聞」2021年10月6日朝刊)。

■基準を置くのは「分からない」層か「できる」層か

2011年春、縁あって、群馬県の中学生だけを対象とする少年院に2度目の勤務をすることとなりました。入院間もない少年たち一人一人と面接をする機会があります。せっかく、つまずいて少年院に来たのだから、何かをつかんで立ち上がって欲しいと必ず伝えることにしていました。

そして、今までの学校生活について詳しく聞き取りながら、数学は好きかと尋ねます。数学が好きと答える少年はまれでした。むしろ、必ずと言ってよいほど、嫌いという言葉のつぎに「3ナイ」発言が続くのです。数学を教科嫌悪の元凶のようにたとえ、だから中学校からドロップアウトしたと胸を張る少年もいたほどでした。

一方で、義務教育を行う少年院でしたので、たびたび、授業の様子を見る機会がありました。前述した三重苦を抱える少年院の教科授業。とりわけ、数学の授業においては、元教員であったベテランの外部講師の方が、一斉授業を進める上で、教える基準をどこに置くべきか、大変苦慮されていました。

「分からない」層に置くのか、「できる」層に置くのか。どの層に置いても、必ず、遊んでしまって授業に集中できない層が生まれます。生徒には不満が、指導者には不燃焼感が残っていました。

また、当時の教官たちは、規律を維持するための生活指導に明け暮れる毎日でした。日課の中心である教科指導の配置につく若手教官たちは、専門外の教科であっても手作りのプリントを事前に用意しながら努力を重ねていました。しかし、落ち着かない一部の少年に振り回されているのが現状でした。

■数学ができるようになりたい少年が使っていた参考書

ある早朝、何かと落ち着かない寮のことが気になって、さりげなく寮のホールに足を運んだときのことです。朝食を終え、授業開始前の待機時間だったと思います。相変わらず騒々しい雰囲気の中、当直の教官も疲れ切った表情でいました。ところが、ADHDと確定診断されて服薬が欠かせないSくんが、珍しく机に向かって黙々と自習をしているのです。思わず声をかけると「先生、この本すごく分かりやすいんだよ」とある数学の参考書を見せてくれたのです。

その本は、私が千葉の少年院で勤務していた10年前に、数学指導者の髙橋一雄先生から贈って頂いた『かずおの語りかける数学(中学1年・中学2年)』でした。Sくんは、数学ができるようになりたい一心で熱中していたのです。このSくんとの会話によって、10年前に感じた目からうろこの記憶が呼び起こされました。

10年前の記憶というのはこうです。髙橋先生に贈って頂いた著書を最初に手にしたときのことです。数学には「日本語の理解度が大切であり」、「自分の頭で考え、自分の言葉で!」というフレイズが心に響きました。

■数学が分かるになれば、学びの突破口になる

また、髙橋先生の「正と負の数」における数直線の解説は目からうろこでした。符号の性格を川の流れにたとえて、プラス(+)は真面目で、いつも自分の目の前の流れに乗ることであり、マイナス(-)はへそまがりでいつも目の前の流れと反対の方向へ行くとの説明がありました。そのとき、頭の中で「正と負の関係」が、はっきりとイメージできたのです。笑顔のSくんを見ながら、髙橋先生を少年院へお呼びしなければというささやきが、どこからともなく聞こえたのです。

少年たちの劣等感の裏には、勉強が分かるようになりたいという渇望があります。生活指導に明け暮れ、本来力を注ぎたいが足かせとなっている教科指導における三重苦。中でも劣等感を特に刺激していた数学が、もし分かるようになれば、学びの突破口になるかもしれない。それによって少年たちが落ち着きをとり戻し、生活指導を下支えするかもしれない。そうした予感がありました。

併せて、つぎに述べる私の体験から得た、数学は劣等感を反転させる力を持っているとの確信もあったのです。この予感と確信が数学に着目した動機でした。

■約分の問題がすらすら解けるようになったきっかけ

私が小学3年生で算数を学んでいたときの出来事です。片田舎にある全校生徒34人、2学年1クラスの複式学級の小学校で育ちました。校長先生が担任の先生を兼務され、出張がある際は、自習となるのが常でした。同じ教室で学んでいた4年生の先輩が先生の代わりの役割をしてくれていました。

当時、約分の意味がどうしても分からず、頭がこんがらがり、自学自習のテスト用紙とにらめっこしながら悔し涙を浮かべていたときのことです。教壇に立っていた先輩が私の様子に気づき、降壇して私に涙の意味を尋ねてきました。私は「どうしても割合の意味がよく分からない。『比べられる量』に対して『比べる量』がどれくらいなのか、ということが」と正直に話しました。

先輩は、少しして「『比べられる量』は『全体の量』だと置き換えて考えてごらん」と助言してくれました。私は、目からうろこが落ちた気持ちとなり、以後霧が晴れたようにすらすら問題が解けるようになりました。先生に聞けなかったのは、「そんなことも分からないのか」と言われるのが嫌だったからです。

勉強
写真=iStock.com/takasuu
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/takasuu

つぎに、高校に進学した最初の数学の授業のことです。いきなり教科書を40ページ近くまで進められ、愕然(がくぜん)とした思い出があります。おそるおそる周りを見渡したとき、皆、予習は済んでいるよ、というような涼しい顔をしていました。周回遅れのランナーの気分のまま白旗を挙げてしまいました。

■苦手意識が消えたことで劣等感に悩まされなくなった

以来、学年250人中、下から数えて10本の指に入る不動の位置を占めることとなり、受験浪人生の身となりました。下宿生活をしながら予備校に通い、ひたすら数学を一から学び直して受けたある全国模擬試験。満点に近い成績を一度だけとりました。有頂天となり、もう、自分は天才ではないかという想いにとりつかれました。

学力が向上したというよりも、努力できる環境を得て苦手意識が消えたことが大きかったのだと思います。それ以来、劣等感に悩まされず、やればできるのではという自己効力感が先立つようになりました。

さらに、私が大学生のとき、忘れられない出来事がありました。知人を介して、正看護師を目指している准看護師の方の家庭教師を頼まれたときのことです。彼女は、気恥ずかしそうにこう言いました。数学ができないばかりに、正看護師になるための看護学校を何回も受けているのですと。問題を解けないのは、私の頭が悪いからという理屈で、数学アレルギーに悩んでいました。

私は高校時代に苦労した苦い思い出を、私より年上だった彼女に伝え、絶対諦めないで頑張ろうと励ましました。一つひとつ理解が進むと、彼女は少女のようにパッと明るい笑顔を見せながら真剣に取り組んでくれた思い出が残っています。

数学は苦痛そのものである。数学が分からなくても生きていける。入院時にとったアンケートには、数学は敵であると思わせる意見が少なからずありました。しかし、丁寧に見ていくと、条件付き嫌悪感であることがすぐに分かりました。もし、数学が分かるようになったら、社会に出たときに役に立つはずなのだと。そう、数学には、不思議な魅力が宿っているのです。

■一般の小・中学生にも7人に1人いる「境界知能」

『ケーキの切れない非行少年たち』の著者で、精神科医師でもある宮口幸治氏は、少年院には、軽度知的障害者(IQ50~69)とは別に、境界知能対象者(IQ70以上85以下)が相当数おり、見たり、聞いたり、想像したりする認知機能の弱さが学習に悪影響を与えていると指摘しています。併せて、一般の小・中学校においても境界知能の対象者が14%、7人にひとり存在し、特別な支援がなく見過ごされていることをあやぶみ、学習の土台である認知機能を強化するトレーニングを提言されています。この見解には基本的に賛同できます。

ところで、宮口氏が勤務されていた少年院は、軽度知的障害や境界知能の少年ばかりを集めた全国に3カ所しかない支援教育課程専門の少年院です。知的制約のある者の割合は、少年院全体で見ると、22%、5人にひとりです(2020年の少年矯正統計)。

宮口氏が、認知機能の弱さに配慮した治療の必要性を痛感されたことは自然の成り行きでしょう。実際の支援教育課程においては、他の課程の少年と比べて倍以上の手がかかりますので、知的理解を助ける教材が準備され、特別な配慮が必要な治療プログラムも組み込まれています。

■適切な指導があればIQや学力は伸ばすことができる

IQというモノサシだけを見れば、少年院全体で知的制約者と境界知能対象者で30%強という数字も出ています。しかし、IQだけをもってこれら対象者すべてが学力面で困難性があるという明確な根拠はありません。IQは、知的能力を測る指標ですが、それに取り組む段階での意欲の程度で変化します。また、その後の学習の積み重ねによって高い数値を示すことも知られています。

つまり、知的制約者を除く80%近くの少年は、適切な指導があれば、十分に学力を伸ばすことができる可能性があるとも言えます。髙橋先生と瀬山士郎先生による数学の実践を見ても、知的能力にばらつきのある少年院において、基礎学力を向上させてきた知見が得られています。

さらに言えば、少年たちの認知機能の弱さは、発達障害の影響や非行体験を通じての「誤った学習」にも原因があるのです。要は、それをどう学び直しをさせていくのかという視点が重要です。加えて、障害を弱みとだけとらえるのではなく、強みに変えて伸ばしていく視点も必要だと考えます。

ニトリホールディングスの創業者、似鳥昭雄氏は、小学4年生になっても自分の名前を漢字で書けず、成績はいつもビリだったそうです。大人になって、ようやく自らの発達障害に気づいたそうですが、本人の注意力に欠ける多動性を積極性ととらえ直し、背中を押してくれた家族のおかげで、さまざまなアイディアを生み出すことができたと述べています。また、こうも言っています。「好きなことは集中できる」「長所で短所が隠れる」と(「朝日新聞」2021年7月5日朝刊)。

私は、少年たちが、少年院生活のあらゆる場面において、諦めによって縮んでしまった自我を自らの努力でふくらませることができた瞬間を何度も見てきました。一見、ささいな出来事に見えるかもしれませんが、本人にとっての小さな成功体験こそ劣等感をはねのけるきっかけになるのです。その鍵は、つぎに述べる「学ぶ意欲」の喚起にあるのです。

■会話していて感じる、少年たちの潜在的能力

入院面接時、興味あるものや得意なことは特にないと言いつつも、少年鑑別所で本が好きになったという少年は割合多かったです。審判までの時間を読書に当てていた彼らに、どのような本を手にして、どういった内容が面白かったのかを話してもらいます。読書を通じて想像する楽しさや新しい発見があることなどを語ってくれます。

そのやり取りの中で「この子は知的好奇心が強いな。案外知的能力が眠っているかも」と感じることがままありました。ある少年の言葉を借りれば、「学力はないけど、能力はあるんだ」という潜在的能力に着目したのです。

また、高認試験について話題を向けると、乗ってくる少年たちが結構いました。気づいたときがスタートラインだよと、その都度、心の背中を押すことにしていました。

■子どもたちの興味に対して大人がすべきこと

学力とは、まさに学ぼうとする能力です。長年、専門家によって学力論争にもなってきました。理屈はさて置き、シンプルに考えたいと思います。何歳になろうとも、人間には好奇心があり、知らないことを知ることで、もっと深く理解したいという気持ちが生まれます。

ひらめきのパズル
写真=iStock.com/tadamichi
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/tadamichi

そうなれば、誰が何と言おうと、自分から分かりたいという気持ちの袋にどんどん情報を集め入れ、関連する事柄にも手を出し始めます。ここまでくれば、目の前の世界が広がるわくわく感が抑えられなくなるのではないでしょうか。子どもたちが興じる虫取りなどにも通じる気持ちと言えます。

本来、子どもたちは好奇心の塊です。髙橋先生や瀬山先生の数学の授業では、少年たちは「なぜそうなるのか」という根本的問いかけをよくします。私たち大人は、子どもたちが興味を持つことに「何でそんなことを質問するの⁉」と頭から否定せずに、さらなる興味の世界へ誘うような環境をさりげなく用意することが本来の務めなのです。

■基礎力を身につけるために練り直された指導計画

私が強調したいのは、本人が「分かる楽しさ」や「できる喜び」を感じることで、学びたい気持ちが動き始めることにあります。私たち大人が、彼らから「もっと問題を解けるようになりたい」というワクワク感をどれだけ引き出すことができるかが、教科指導の突破口といっても言いすぎではないと思います。

中学生のSくんが「先生、この本すごく分かりやすいんだよ」と述べたときこそ、動機づけを得て学ぶ意欲が芽生えた瞬間です。本人の学びたい気持ちの芽が自然とふくらめば、あとは太陽と水を整えてあげるだけで、芽が吹き、やがて根も張り出してくるのです。

先生方に協力頂けることになった当初、中学生の授業風景をあるがまま観てもらいました。私は、少年院が抱える悩ましい三重苦の問題を何としても克服したい、ぜひお知恵をお借りしたいと依頼しました。

しばらく話し合いを重ねた後、瀬山先生から思い切った提案がありました。幾何(きか)その他の分野を思い切って省き、代数にしぼった授業計画を作りましょう。最終目標は一次方程式に軟着陸させることにしましょうとの戦略です。新鮮な驚きでした。そして、精選された指導計画は、諦めではなく、学ぶことが生きる力になるという確信のもとで練り直され、基礎力を身につける授業がスタートすることとなったのです。

■少年たちは先生の言葉に目を輝かせた

おふたりの印象に残る授業場面があります。髙橋先生の授業においては、自然数から始まり、有理数と無理数の違いを含めた数の概念について繰り返し教えてくれました。机間巡回されながら、全員に声をかけ、分からないという言葉を封印し、思考を停止させない授業だったのです。授業の最後には、誰ひとりとしてうつむくことがありませんでした。

また、瀬山先生の等式の授業において、「移項」の意味がイメージできるよう、手作りのやじろべいを教室に持ち込んで実演してくれました。イコール(=)で結ばれた等式から数字を移してもイコールの関係を保つためにプラスはマイナスに変わるのだねと語りかけたとき、少年たちは笑顔のまま目を輝かしていました。

彼らは、丸暗記する前に、腹落ちする、つまり納得できるかどうかにこだわる傾向があります。例えば、分数同士のわり算で、なぜかける(×)と、分子と分母がひっくり返るのかにこだわります。おそらく、一般の学生は、「そういうものなのだ」「そんなこと考える暇があったら、とっとと計算すればよい」と、効率重視で学習を進めるのではないでしょうか。

しかし、彼らは、こだわった疑問について丁寧に説明を受けて、納得すると驚くべきスピードで問題を解いていくのです。両先生の授業には、分からないを弱みではなく、強みに変える学びの本質があったのです。

■失敗してこそ、数学が分かる近道になる

先生方による実践を通し、学校教育では学べない驚きの教えについて、いくつか紹介させて頂きます。これは、一般の学校教育においても通じる教えだと確信しています。

失敗を隠す必要はない

今まで彼らは、散々失敗して、自分が傷つくことをとても恐れてきました。失敗して当たり前。失敗してこそ、数学が分かる近道なのだと、繰り返し言われます。思わず、皆、板書している先生を驚きの目で見つめます。答えを導くプロセス、途中式を重視されました。

ミスがあってノートの途中式を消しゴムでゴシゴシやろうものなら、消してはいけません。どこで間違ったかを振り返る証拠がなくなるでしょうと注意されます。間違いに気づくという反省的思考を学ぶことになるのですからと。失敗を隠し続けてきた少年たちにとって、とても勇気づけられる言葉でした。

自信を持って間違いなさい

つぎに、このフレイズです。初めから間違おうとして間違う人はいません。まずは、自分の考えを持って、堂々と問題を解いてごらんなさい、どうしても分からないときは、自信を持って聞いてください。

徐々に彼らは、手を挙げながら、先生の質問に対して、自分の考えを堂々と述べるようになります。他の少年も、その雰囲気に引き込まれるように、他の少年の考え方に賛同したり、反論したりするようになります。先生は、模範解答をすぐに教えません。一人一人の表情を見ながら当てつつ、繰り返し問題を解かせるのです。誰もとり残すことはしないという気迫が伝わってきます。

■「小学生の問題だから分かるよね」は禁句

算数ではなく数学を学んでいるのだ

髙橋一雄・瀬山士郎・村尾博司『僕に方程式を教えてください 少年院の数学教室』(集英社新書)
髙橋一雄・瀬山士郎・村尾博司『僕に方程式を教えてください 少年院の数学教室』(集英社新書)

この言葉は、両先生とも口を酸っぱくして強調されていました。授業を担当する教官が、「これは小学生の問題だから分かるよね」と言おうものなら、授業のあと、指導担当教官は必ずきつく叱られていました。彼らには、学力が追いついていなくとも、年齢にふさわしいプライドがあるのだから、それを傷つけてはいけない。

小学校で学ぶ算数は、数の計算の技術を学ぶだけではなく、「数と式」に関する基礎的な概念や原理・法則についての理解を深め、中学校で扱う抽象的概念と陸続きであることをいかに理解させるかにある。言い換えれば、四則計算などのドリル学習とは違い、文字式や方程式を扱いながら抽象的思考や論理的思考を学ぶエッセンスが小学校の算数にも含まれているということを伝えたいのです。

また、年齢と学力のギャップを意識させて劣等感を刺激するのではなく、本人がどのように学習して答えを導くのか、その過程が分からないだけなのだから、指導者は常にその問題意識を持って欲しいとも言われました。

そのためには、言葉がけに注意すること。例えば、「これは説明しなくても大丈夫だよね」「簡単な問題だから、サラッとやってみて」という発問は禁句です。指導者は、少年たちの視点に立って、なぜ分からないのかという気持ちと向き合うことが大切なのです。

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村尾 博司(むらお・ひろし)
元少年院院長
1959年生まれ。北海道大学教育学部教育行政学専攻、1982年卒業。1983年、多摩少年院法務教官を拝命、赤城、沖縄、盛岡少年院長歴任後、2019年定年退職。現在更生保護施設職員として勤務。『犯罪心理臨床』(金剛出版)他、共同執筆で被害者の視点を取り入れた非行少年への処遇論を展開。

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(元少年院院長 村尾 博司)

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