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NHK大河ドラマだから描けること…源頼朝の最初の妻「八重」をめぐる三角関係の歴史的事実

プレジデントオンライン / 2022年4月24日 18時15分

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で主人公・北条泰時の初恋の相手「八重」を演じる新垣結衣さん(=2017年2月2日、東京都新宿区の京王プラザホテル) - 写真=時事通信フォト

今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、北条義時の初恋の相手として「八重」という女性が登場する。歴史学者の濱田浩一郎さんは「源頼朝の最初の妻だったことは確かだが、義時とは面識があったことすら怪しい。史実としては2人の恋愛関係は確認できない」という――。

■北条義時の初恋の相手となっている八重はどんな人物だったか

今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公は、平安時代末から鎌倉時代初期の武将・北条義時である。

ドラマでは、義時(小栗旬)の初恋の相手として、八重(新垣結衣)という女性が登場する。しかし、八重は、本当に義時と恋愛関係にあったのだろうか。そして、八重とはどのような女性だったのか。当時を描いた史料を基にみていきたい。

■監視対象の源頼朝と恋に落ちる

八重の父親は、伊豆国伊東荘の豪族・伊東祐親(いとう すけちか)とされている。

同国の豪族には、北条義時の父・時政もいたが、その勢力は伊東氏のほうが断然大きかった。当時の北条氏の動員兵力が「三十騎から五十騎」程度であるのに対し、伊東氏は「三百余騎」(鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』)を率いることができたのを見ても、そのことが分かろう。

伊東氏は平家に信頼されていた家人であった。それゆえ、思わぬ人物の監視を任されることになる。それが、平治の乱(1159年)に敗れ、伊豆に配流された源頼朝であった。

鎌倉時代末の軍記物語『曾我物語』によると、当時、伊東祐親には娘は4人いたという。

1人は三浦義澄の妻となった女性。2人は、土肥遠平(相模国の住人・土肥実平の子)の妻。3人目と4人目の娘はいまだ祐親の元にあった。

4人の娘のなかでも、三女は美女として著名であったそうだ。この三女(一説には四女)と源頼朝とが恋愛関係となり、日が経つうちに、男子が誕生。頼朝は大いに喜んで、男子の名を「千鶴御前」(千鶴丸)と付けたと言われる。

■実際の名前は、はっきりとわかっていない

頼朝の最初の妻となったこの女性の名前は、ドラマでは八重となっている。だが、実際の名前は、はっきりわかっていない。

同時代の史料や後世に編纂された史書には「八重」という名は見つからないのだ。この名は後世の人によって創作されたと推察される。本稿では、便宜上、八重と記述する。

余談だが、静岡県伊豆の国市には、真珠院という曹洞宗寺院があるが、その境内には、八重姫の供養堂が存在する(八重姫御堂)。

■八重の出産を知った実父がとった非情の行動

頼朝はわが子・千鶴丸の誕生を大いに喜んだが、歓迎せぬ者もいた。

不幸にも、それは八重の父・祐親であった。京都から伊豆に戻った祐親は、わが家で見知らぬ幼児を発見する。

不審に思った祐親は、妻に幼児について尋ねる。すると、八重が祐親の留守中に高貴な男性との間にもうけた子だという。

「親が知らぬ婿というものがあろうか」と激怒し、妻をさらに問い詰める祐親。

あまりの剣幕に妻も「頼朝様の子です」と白状する以外になかった。祐親は妻の答えに愕然としたであろう。

「源氏の流人を婿にとって、子まで生まれたとなると、平家方より咎めがあった時、私はどうしたら良いか」(『曾我物語』)との祐親の言葉が怒りと不安を象徴しているであろう。

祐親は家を守るために、非道の決断をする。娘・八重の元に使いの者を遣わし、千鶴を誘い出した上、川に沈めてしまったのである。

伊東祐親像
静岡県伊東市にある伊東祐親像(写真=立花左近/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons)

■無理やり娘を別の男性に嫁がせる

さらに祐親は、八重を頼朝から奪い返し、伊豆国の武士・江間次郎に嫁がせてしまったのであった。

この行為に、頼朝は悲しみの底に沈んだという。『延慶本 平家物語』は、頼朝は祐親を討ち取りたいとまで思ったと記す。ところが、祐親の方が頼朝を討つ準備をしていた。

このような仕打ちをしたからには、頼朝が「末代の敵」となるは必定である。そうなる前に、先手を打って、頼朝を殺そうというのである。

■北条時政と頼朝が懇意になった意外なきっかけ

頼朝の窮地を救ったのが、祐親の次男・助長(『吾妻鏡』では祐清)であった。助長は「親が耄碌し、頼朝様を討とうとしているので、どこかに身を隠すように」と伝えたのだ。

どうしたら良いか迷う頼朝に、助長は「北条時政を頼んで、早くお逃げください。時政殿は、この助長にとって烏帽子親にあたる方。書状でもって、あなたのことをお伝えしましょう」と有益なアドバイスをする。助言に従い、頼朝は北条時政を頼ることになった。

頼朝が北条邸に入ると、時政は館から走り出た。頼朝の馬の手綱に取り付いて、涙を流したという。平家の敵をかくまうことに迷いもあっただろうが、時政は頼朝の訪問を喜んだ。

すぐに、時政の子・義時の宿所を、頼朝の「御所」とすることに決めている。さらに、伊東祐親の軍勢が頼朝を襲撃するために、北条に攻め込んでくる可能性があるとして、頼朝を守護した。

結果として、伊東が北条にかくまわれた頼朝を攻めてくることはなかった。

■新たな伴侶と元夫が戦った結果…

江間次郎に嫁いだ八重はどうなったか。

頼朝は治承4年(1180)に平家に対して挙兵する。同年の石橋山の戦いでは敗れたものの、その後、次第に勢力を拡大。同年に平家方の伊東祐親は捕縛される。一時は一命を許されたが、「以前の行いを恥じる」と言い、自害した(『吾妻鏡』)。そして、その家人だった江間次郎も戦いの中で討たれてしまう。

つまり、八重は未亡人となったのだ。頼朝との関係を引き裂かれ、子供を親に殺され、再嫁した夫も戦死する。まさに悲劇の女性といってよい。

一勇齋(歌川國芳)名義による大日本錦絵 和田合戰義秀惣門押破【部分】
一勇齋(歌川國芳)名義による大日本錦絵 和田合戰義秀惣門押破【部分】(写真=立花左近/PD-Japan/Wikimedia Commons)

■北条義時と八重の本当の関係

『曾我物語』によると、北条義時が江間次郎の幼い子息を預かった。

頼朝に言上して、江間の罪を許してもらうように計らったという。さらには、幼い子息が元服する際には、義時が烏帽子親にもなったといわれる。

それまでに、義時と八重に面識があったか否かは分からない。

少なくとも、ドラマにあるような幼い頃からの親密な関係であったとは、史料には全く書かれていない。おそらく、義時も八重のことは話に聞いており、その境遇に同情する程度のことはあったのかもしれない。

ちなみに、江間の地は、義時に与えられることとなった。

■北条泰時が「八重の子」という説の真偽

義時と八重が結婚し、鎌倉幕府第2代執権となる北条泰時を生んだという大胆な仮説もあるが、それはどうであろうか。

この説は「鎌倉殿の13人」の時代考証を務める坂井孝一氏(創価大学教授)が『鎌倉殿と執権北条氏』(NHK出版、2021年)のなかで提示されたものだが、ご本人も「大胆な仮説」と述べておられる通り、確かな史料上の根拠があるわけではない。

■2人の間に子供が生まれた史実はない

2人の関係に関する別の説もある。御成敗式目を制定(1232年)したことで有名な泰時だが、その母は阿波局という御所に仕える官女だった。義時が八重と結ばれたと唱える論者はこの阿波局こそ、八重だったというのである。

義時が江間の領主となり、江間の人々と関係を持つようになったことと、頼朝が有力御家人やその子弟の結婚に乗り出していたことが推測の根拠となっている。

しかし、この説に確かな根拠はない。平家方に付いた罪を許されたとはいえ、敵方だった武将(江間次郎)の妻を御所に入れるのかという疑問もある。義時と八重が結ばれて子までなしたかどうか真偽は不明と言わざるを得ない。

頼朝と八重との関係は古典や史料から、わずかながら浮かび上がってくるものの、義時と八重との関係は、歴史の闇に沈んでいる。

■ドラマだからこそ楽しめる三角関係

「鎌倉殿の13人」では、政子と婚約した頼朝が前妻の八重に再び関係を迫る場面が放送(4月3日)されたが、頼朝がそのようなことをしたという史料などは存在しない。

さらに義時が八重のことを好きだったという証拠もない。「頼朝―八重―義時」が三角関係にあったというのは、今のところ証明できないのである。

もちろん、ドラマである。例えば、義時が八重と結ばれて、泰時が生まれるという設定にするのは何も問題はない。そうした歴史の闇を、脚本家・三谷幸喜さんがどのように明るく照らしてくれるのか、私も、とても楽しみにしている。

■違和感を覚えたあるシーン

ただ、毎回番組の終わりに放送される「鎌倉殿の13人紀行」(4月3日)のなかで「義時の妻となった八重」とのナレーションがあったのには驚いた。

このコーナーはドラマではなく、あくまで史跡探訪。そこにおいて「義時の妻となった八重」と確立された史実のように話すのは、いかがなものかと感じた。

せめて「一説によると」や「諸説あるが」という保留の言葉があっても良かったのではないか。

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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。

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(作家 濱田 浩一郎)

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