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「床上手」とはどういう意味か…江戸時代の遊廓で女性たちが体現していた「色好み」【2021編集部セレクション】

プレジデントオンライン / 2022年5月2日 15時15分

豊国『浮絵新吉原夜遊之図』に見える吉原入り口の面番所 - 出典=『遊廓と日本人』

2021年にプレジデントオンラインで配信した人気記事から、いま読み直したい「編集部セレクション」をお届けします――。(初公開日:2021年11月11日)
かつて日本には「遊廓」という場所があった。そこでは「遊女」という女性たちが客を取り、金銭を稼いだ。法政大学名誉教授の田中優子さんは「遊女たちは、日本文化の核心である『色好み』の体現者として、豪商や富裕な商人、大名、高位の武士たちと教養の共有を果たしていた」という――。

※本稿は、田中優子『遊廓と日本人』(講談社現代新書)の一部を再編集したものです。

■京都の文化人で豪商の正妻になった吉野太夫

いったい遊廓に暮らす遊女とは、どんな人たちだったのでしょうか?

江戸時代の遊廓は平安時代以来の日本文化のひとつの表現でした。それは遊女のありかたにもっとも現れていました。一例を挙げます。

江戸時代の京都の島原遊廓に、吉野太夫という人がいました(図表1)。太夫(のちに「花魁」「呼び出し」とも言う)とは、遊廓で最高位の遊女のことです。吉野太夫はある豪商から結婚を申し込まれました。しかしその豪商の親族に反対されましたので、諦めて郷里に帰ることにしました。そして最後だから、とその親族の女性たちを集めてもてなしたのです。

『好色一代男』より吉野
出典=『遊廓と日本人』
『好色一代男』より吉野 - 出典=『遊廓と日本人』

前掛けをして自ら立ち働き、女性たちが集まると琴を弾き、笙を吹き、和歌を詠み、茶を点て、花を生け、時計の調整をし、碁の相手をし、娘さんたちの髪を結い、面白い話で人を引き込みました。

ちなみに「時計の調整」とは、江戸時代の大名家や大店にだけあった和時計の、歯車の調整のことです。和時計は太陽の動きに時計を合わせるので、常に調整が必要でした。この技術を持つということは、大名家や大店の夫人なみの見識があるということでした。

そのような吉野を見て遊女に偏見を持っていた親族の奥方たちは、吉野の面白さ、やさしさ、品格、教養にすっかり引き込まれ、むしろ結婚を勧めるようになりました。この吉野は実在の人物で、京都の文化人で豪商であった佐野紹益の正妻になった人です。

■教養があり人柄もよい「何もかも揃った人」

実際、多くの太夫は和歌を詠み、手紙を見事な筆跡で書きます。俳諧、狂歌もでき、漢詩を作ることもありました。平安時代の貴族のように髪や着物に伽羅(輸入された香木)を焚きしめ、着物のセンスがあり着こなしがうまく、人前で食事をしません。後に芸能は芸者たちに任せられますが、それまでは琴や三味線を弾き、唄を唄い、踊りや能の舞も披露していました。

太夫という呼称は、初期の遊女たちが能の舞を見せる芸能者である「能太夫」だったので、そこに由来すると言われています。

太夫たちの人柄も後世に伝えられていきます。人に物をねだらず、欲張らず、鷹揚でゆったりしているのが太夫の特徴でした。

それほど何もかも揃った人が本当にいたのだろうか? と思うかも知れませんね。確かに、これは一種の理想像だと思われますが、実在の太夫について語り伝えられ、それらが集合した像であることは確かです。

■「色好み」の日本文化

ここに並べた遊女の能力や人柄は、和歌や文章や筆など平安時代の文学にかかわること、琴や舞など音曲や芸能にかかわること、中世の能や茶の湯や生け花、漢詩、俳諧など武家の教養にかかわること、着物や伽羅や立ち居振る舞いなど生活にかかわることなど、ほとんどが日本文化の真髄に関係しています。

そしてこれらの、特に和歌や琴や舞などの風流、風雅を好む人を平安時代以来「色好み」と呼んでいました。「色」には恋愛や性愛の意味もありますが、もともとは恋愛と文化的美意識が組み合わさったもので、その表現としての和歌や琴の音曲を含むものだったのです。

遊女が貴族や大名の娘のように多くの教養を積んでいたのは、日本文化の核心である色好みの体現者となり、豪商や富裕な商人、大名、高位の武士たちと教養の共有、つまり色好みの共有を果たすことが求められていたからでしょう。これらの伝統的文化に遊ぶことこそが、彼らにとっての「遊び」だったのです。

しかし遊廓にはもうひとつの側面があります。それが売色です。色を好み趣味を共有する、その「色」の中には恋愛、性愛が含まれました。

性愛そのものは人類の存続を支えるもので、人の愛情の根幹を成すものです。恋愛は人間の精神にとって大切な感情です。だからこそ人権に価値を置く時代になれば、恋愛や性愛は力の不均衡、不平等のもとでは成り立たないのです。独立した人格を認め合い、尊敬し合う関係の中で初めて価値を持つのです。

遊女の物語の中には、客との間にまさに友情と言えるものを作り上げる話もあります。しかし遊廓の制度そのものはすでに述べたように、女性を、借金の抵当や担保として位置づける制度でした。

借金をするのはたいていの場合家族で、遊女たちの多くは家族のために借金を返し終わるまで、または最初に交わした契約の中にある年季の終わるまで、遊廓で客を取り続けます。稀に女性が芸能を楽しむために客として来る例外もありますが、ほとんどは男性で、茶屋を介して遊女の抱え主に金銭を支払います。遊女の抱え主は、借金のかたが逃げないよう、管理を怠りません。そしてこの制度は、幕府に公式に認定されていた「公娼制度」でした。

■女性が遊女になるのはどんなときか

これは女性の人生にとっては一時的な拘束ですので、決して奴隷制度ではありません。大いに稼げば早くやめることができますし、誰かが借金を全額払ってくれれば、すぐにでも遊廓を出られます。その後、吉野太夫のように結婚する人もいます。しかし一時的にせよ、自由を拘束されます。

では、そういう遊女たちを抱える遊廓はなぜ存在できたのか? その根本を考えると、女性が単独で働く場所が限られていることに気づきます。

江戸時代の農漁山村では家族全員で働きましたし、商家でも夫婦で働きました。都会でもほとんどの女性が何らかの仕事を持っていました。専業主婦という存在はありませんでした。質素でもこつこつと生活のために働く道は、女性にも開かれていたのです。

それでも遊女になる選択をしなければならない場合があるとしたら、それは一度に大きなお金が必要な時です。そういう時、自分が遊女になることで両親や兄弟が安心して暮らせるとしたら、情と思いやりがあるほど、その道を選ぶ女性はいたでしょう。

たとえ結婚したとしても、経済的貧困で家庭生活が成り立たなくなることもあり、そういう時は既婚者でも遊女になりました。身分に関わりなくそういう事態は起こり得て、江戸時代の初期の遊女には、お家取り潰しなどで職を失った武家の娘が多かったと言われます。

今は家を購入したり家族が病気になるなど、手元にあるお金で足りない時、正規の会社員であれば女性であっても銀行はお金を貸してくれます。借りたお金は給与から返していけばいいわけです。そこには企業の給与に対する「信用」があります。しかし江戸時代では、女性が大きなお金を借りる時、もっとも信用があるのが遊廓での働きだったのかも知れません。そこでは毎日、大きなお金が動くからです。

貧困に立ち向かう時、女性はどう生きたらよいのか? どのような道があるのか? 江戸時代だけでなく、その多くが非正規雇用者である現代日本の女性たちも依然として同じ問題を抱えているのは、驚くべきことです。

■井原西鶴は女性をどう見ていたか

ところで『世間胸算用』で井原西鶴は、遊女ではないふつうの女性(地女)を辛辣に書いています。気持ちが鈍感で、物言いがくどくて、いやしい所があって、文章がおかしく、酒の飲み方が下手で、唄も唄えなくて、着物の着方が野暮で、立ち居振る舞いが不安定で、歩けばふらふらして、一緒に寝ると味噌や塩の話をして、ケチで鼻紙を一枚ずつ使うし、伽羅は飲み薬だと思いこんでいる、と。つまりこれをひっくりかえしたのが遊女でした。

香水のなかった当時、髪や着物に伽羅を焚きしめた遊女はとても良い香りがして、それだけで天女のような存在だったのですが、それだけでなく、人の気持ちに敏感で、物欲がなく、余計なことを言わずにさっぱりとした物言いをし、酒を適度に飲み、唄がうまく、着物のセンスが抜群で、素晴らしい手紙を書き、腰がすわって背筋の伸びた美しい歩き方をしたのです。実際に遊女は客の前でものを食べることと、金銭に触れること、また金銭の話をすることなどを禁じられていました。

■「遊廓言葉」の一部は後に上流階級の山の手言葉に

初期の遊女は三味線、唄、踊りも得意でしたが、すでに述べたように、次第に芸能の分野は芸者に任せるようになりました。その結果、吉原芸者は他のどこの芸者より優れた芸人になったのです。

しかし芸能をおこなわなくなった後も、遊女は和歌、俳諧、漢文などの文学的な能力があり、文人たちとそういう話もできましたし、着物の上に武家の女性のような打ち掛けをつけました。つまり正装をしていたのです。

また独特の語尾を持つ人工の遊廓言葉を話しましたが、その中で「ざんす」「ざいます」などは後に上流階級の山の手言葉になります。教養高く優れた人柄の遊女がたくさんいて、文学にも書かれました。

■「床上手」が意味していたこと

「床上手」ということも遊女の大事な要素でした。ここでは、井原西鶴『好色一代男』と『諸艶大鑑(好色二代男)』に登場する遊女を何人か見てみましょう。

野秋という遊女については、「一緒に床に入らなければわからないところがある」と書いています。肌がうるわしく暖かく、その最中は鼻息高く、髪が乱れてもかまわないくらい夢中になるので、枕がいつの間にかはずれてしまうほどで、目は青みがかり、脇の下は汗ばみ、腰が畳を離れて宙に浮き、足の指はかがみ、それが決してわざとらしくない、と。

もうひとつは、たびたび声をあげながら、男が達しようとするところを九度も押さえつけ、どんな精力強靱な男でも乱れに乱れてしまうところだ、と。さらに、その後で灯をともして見るその美しさ。別れる時に「さらばや」と言うその落ち着いたやさしい声。これが遊女の「床上手」の意味でした。

初音という遊女は、席がしめやかになると笑わせ、通ぶった客はまるめこみ、うぶな客は涙を流さんばかりに喜んだそうです。床に入る前には、丁寧に何度もうがいをして、ゆっくり髪をとかし、香炉で袖や裾を焚きしめ、横顔まで鏡に映して気をつけました。

世之介(『好色一代男』の主人公です)が眠っていると、「あれ蜘蛛が、蜘蛛が」と言ったので世之介は起きてしまいました。すると「女郎蜘蛛がとりつきます」と抱きついてきて肌を合わせ、背中をさすり、ふんどしの所まで手をやって「今まではどこの女がこのあたりをさわったのかしら」と言います。西鶴は、かけひきが類まれな床ぶりだ、と書いています。

■被差別民の客が来れば、衣装に「非人の印」を縫いつけた

「床上手にして名誉の好きにて」と言われた夕霧は、化粧もせず素顔で素足、肉付きはいいのにほっそりとしとやかに見え、まなざしにぬかりがなく、声がよく、肌が雪のようだったそうです。実は初期の遊女は髪にかんざしもほとんどつけず、多くの人が化粧もしませんでした。飾りが一切いらないくらいの、本来の美しさをめざしていたのです。

夕霧はさらに琴、三味線の名手で、座のさばきにそつがなく、手紙文が素晴らしく、人に物をねだらず、自分の物を惜しみなく人にやり、情が深かったそうです。また三笠という名の遊女は、情があって大気(おおらかで小さなことにこだわらないこと)、衣装を素晴らしく着こなし、座はにぎやかにしたかと思うと、床ではしめやかな雰囲気を作ります。誰にでも思いを残させ、また会いたいと思わせる人でした。

名妓たちの良さとしてとくに強調されるのは、下の者に対するやさしさでした。夕霧は八百屋や魚屋がやってきても決してばかにすることなく、喜ばせました。三笠は、客の召し使いや駕籠かきにまで気を遣い、禿(遊廓で修行中の少女たち)が居眠りをするとかばってやりました。

金山という遊女は、ある被差別民の客が身分を隠してやってきてそれが噂になると、衣装にあえて欠け碗、めんつう(器)、竹箸、という非人の印を縫いつけ、「世間はれて我が恋人をしらすべし。人間にいづれか違いあるべし」と言い放ったというから見事です。人権派の遊女、というところです。吉野の話はすでに冒頭で紹介しましたね。遊女の魅力は第一に人間的魅力だったのです。

■客と別れるための作戦

遊女は、ばかにされたらひっこまない、という強さも必要でした。客が他の遊女に惹かれた時は、ちゃんと理由を言って遊女の名誉を傷つけることなくきれいに別れる必要がありました。しかし時にはその遊女の欠点を探し(なかなか見つかりませんが)、それを理由に別れる客がいます。それを「口舌」と言い、卑怯なやり方です。遊女は自力で自分の名誉を守らなくてはなりません。

田中優子『遊廓と日本人』(講談社現代新書)
田中優子『遊廓と日本人』(講談社現代新書)

吉田という遊女は、ある客が口舌で別れようとしていることを見抜き、方法を考えました。吉田が座敷を出たところでおならの音がしたので、「これぞいい機会!」と客は喜びます。別れる理由にしようとしたのです。

しかし彼女が同じ廊下を歩いて帰って来た時、ふと立ち止まって迂回して座敷を回りました。客は「あれ?」と思います。さっきのは廊下のきしみだったのだろうか? 吉田は判断に困っている客に、「今日かぎり愛想がつきました」と自分から別れ話を切り出します。その噂は遊廓中に広まって客の方が面目を失ったのです。決着がついた後、吉田は「いかにも(おならの)こき手はこの太夫じゃ」と言い放ったのでした。

遊女は、誰にでも惚れているふりをするわけではありません。小太夫という遊女は客から、「惚れているという誓紙を書け」と言われましたが、言うとおりにしませんでした。

「あなたはたいへん良くしてくださるのですが、どういうわけか私はさほどに思えないのです。嘘をつくわけにいきません。惚れていない、という誓紙なら書きましょう」と言ったそうです。その後も二人はとてもいい関係が続きました。

やがてその客が遊廓通いはもうやめにする、という時、小太夫はその男性の紋を付けた着物を10枚作らせて贈り、遊女になった時から今日までのことを書きつづった「我が身の上」という文章を彼に捧げたのです。男として好きになれなくとも、嘘をつかず、世話になった恩は忘れず、長いあいだ別れの時の準備を怠らなかったのです。遊女と客の関係でも、男女の友情は可能だったのです。

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田中 優子 (たなか・ゆうこ)
法政大学 名誉教授
1952年神奈川県横浜市生まれ。法政大学社会学部教授、社会学部長、法政大学総長などを歴任。専門は日本近世文学、江戸文化、アジア比較文化。2005年紫綬褒章受章。著書に『江戸の想像力』(ちくま学芸文庫/芸術選奨文部大臣新人賞受賞)、『江戸百夢 近世図像学の楽しみ』(ちくま文庫/芸術選奨文部科学大臣賞、サントリー学芸賞受賞)など多数。近著に『日本問答』『江戸問答』(岩波新書/松岡正剛との対談)など。

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(法政大学 名誉教授 田中 優子 )

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