こんなメロンがあったなんて…銀座千疋屋を驚かせた「宮古島メロン」を沖縄のデパートが発掘できたワケ
プレジデントオンライン / 2022年4月28日 15時15分
■「東京にあるものを沖縄にも」と歩んだ50年
小さな島の狭い商圏に黒船のごとく新たな商業施設が続々と押し寄せてくる――。太平洋戦争終結後、米軍占領下に置かれた沖縄が日本本土に復帰したのは1972年。中小零細の地元企業は絶えず、本土や米系の巨大資本の流入にさらされてきた。
時代環境への変化対応と淘汰を繰り返し、県内の流通小売業界は、沖縄県民の胃袋とお財布と向き合いながら「東京にあるものを沖縄にも」と、本土並み、均質化を極めた、そんな“復帰後”だった。
コロナ禍を経て、頼みの綱の観光需要がはがれ落ちたタイミングでやってきた「本土復帰50周年」の節目。便利で快適な買い物空間が広がった一方で、多様な異文化とのミクスチャーに彩られた特異な生い立ち、内側から燃え立つような熱気や躍動を、街歩きの風景から感じにくくなった。
■沖縄の小売業界を牽引する“老舗”の挑戦
そんな、“沖縄色”が薄まりつつある小売業界の中で、転換期を迎えた注目すべき2つの老舗小売店がある。戦後の米軍施政権下にあった1950年代の沖縄で、海外からの舶来品を集めて顧客基盤を強固にした那覇市の「デパートリウボウ」と、本島中部・沖縄市にある「プラザハウス・ショッピングセンター」だ。
それぞれ、米軍人相手の商売から始まり、創業から約70年。生活必需品以上の価値提供を期待される小売店としては、もはや沖縄では希少な存在になった。だが脅威が増すごとに、この2つの店は根を深めるかのごとく、地域に根ざした売り場改革の方向性を鮮明にしている。
この土地で次の50年を生きる原動力、原風景を自ら掘り起こす側に回れるか。創業者が県民のために残した“遺産”を生かし切ろうと奮闘する、改革の最前線を取材した。
■新たな特産品「宮古島メロン」に注文が殺到
この1年の間に、宮古島の隠れた特産品「宮古島メロン」が、マンゴーに続く新たな高級フルーツとして急速に認知を広げた。地元の事業者らが5年ほど前から栽培方法の研究やブランディングに力を入れてきたのだが、その取り組みに光を当て、一段高いステージに引っ張り上げたのが、沖縄で唯一の百貨店、デパートリウボウだった。
今年3月下旬からの春シーズン、宮古島メロンは日照不足などの影響を受ける中、認知度アップの勢いに出荷量が追いつかず、リウボウや地元「島の駅みやこ」の店頭はすでに品薄の状態。相次ぐ予約注文に、店舗スタッフは冷や汗をかく日々が続いている。
■銀座千疋屋「こんな美味しいメロンに出会えるとは」
リウボウは、出店する菓子店と地元農家を直接つなぎ、オリジナルの商品開発に力を入れている。製造設備が不足する新規出店の菓子メーカーには、既存店舗とのOEM(製造委託)連携を橋渡しし、県産食材を使った生菓子のラインナップを増やすことを提案。県外の大手百貨店への催事出店や、インターネット販売なども後押しし、県産食材そのものの取り引きを拡大させる試みを増やしている。
最初の成功事例となったのが、<過労で倒れたケーキ職人が「お菓子YouTuber」として“伊勢丹デビュー”を果たすまで>でも紹介した「GOLDWELLキセキノスイーツ」のチーズケーキにのせた宮古島メロンだった。栽培技術と味の良さで評価の高い生産者・盛島健有さんがつくる青果にこだわる。リウボウ1階に工場兼店舗を構える同店が、過去1年間に仕入れた盛島さんのメロンは原材料・ギフト用合わせて約1000玉(1.2~1.5t)に上った。
さらに、リウボウとの接点から得た情報がきっかけとなり、昨年、銀座千疋屋(東京都)が初めて「宮古島メロンフェア」を開催。2回目となる今年3月には、前回より仕入れ量を増やしてパフェ(3080円)などを販売し好評を得た。同社の石部一保・統括仕入長は「夕張など有名産地に負けない美味しさに驚いた。こんなメロンに出会えるとは思ってもいなかった」と喜ぶ。
「少し前までは作ってもあまり売れなくて、安くして買ってもらうしかなかった。けれど近頃は、そんな心配をしなくてもよくなりました」と盛島さんはいう。
百貨店や専門店での取り扱いが、質の高さと美味しさを一気に広めるメディア効果を発揮。島内14あるメロン農家の売上高は2020年度の3000万円から21年度は5000万円に増加、生産者の収入アップにもつながった。
■地元商材のみを取り扱った売り場をオープン
県産フルーツに限らず、地元商材にこだわったリウボウの売り場づくりは、他の地方百貨店には真似のできない規模で、先行している。
「究極のローカライゼーション」を掲げて2018年に立ち上げた自社ブランド「樂園百貨店」と、2021年9月にオープンした「OKINAWA the RYUKYU」は、メーカーの消化仕入れや不動産収入に依存度を高めてきた従来型の百貨店ビジネスの真逆をいく、自主編集型ショップとして業界の注目を集めている。
■「真似されない仕組みをいかに作り上げるか」
コロナ禍においても売り場拡張を続け、商品数は当初の500点から約2000点にまで拡大。全体の約7割を沖縄県内の作家や企業による商品が占める。ベテランから若手まで、琉球菓子職人や伝統工芸の担い手の技が伝わる品々を表舞台に引き出し、オリジナルの商品開発に磨きをかけていく、その途上にある。
運営会社「リウボウインダストリー」の糸数剛一社長(62)はいう。
「生き残っていくためには、地理や歴史、県民気質、生活文化など自分たちの立ち位置を高いところから俯瞰して、どこで専門性を発揮できるのかを見極める。真似されない仕組みをいかに作り上げるかが勝負です」
だが、観光客激減の影響が長引き、経営の足元は盤石ではない。糸数社長は2020年、創業の地、旧デパートリウボウ跡地と建物を本土企業に95億円で売却するという大きな決断を下した。
「県民の皆さんにとって大切な百貨店は、どうしても潰すわけにはいかない。あらゆる方策を打って、なんとしてでも生き残りをはかっていく」――。創業家のDNAを預かる比嘉正輝会長と熟慮を重ね、“県民と共に”の精神を貫いた。創業者の遺産を不動産の形で受け継ぐのではなく、地域の文化創造を担う“百貨店業”として存続させる道を選んだのだ。
■本土百貨店とはルーツがまったく違う
デパートリウボウの興(おこ)りは、いわゆる呉服屋由来の「百貨店」とは異なる。終戦から3年後の1948年に米軍政府の許可を受けた「琉球貿易商事株式会社」として創業した。
激しい地上戦で市街地のほとんどが焼き尽くされた沖縄では、50万人以上のあらゆる世代が戦闘に巻き込まれ、更地状態からの復興を余儀なくされた。当初、物資は米軍政府からの配給で賄(まかな)われていたが、圧倒的に物が不足していた。闇ルートでの売り買いなどで市民の暮らしは安定せず生活の足場を固められずにいた。
リウボウ創業者は、戦前に自社船舶を持ち、船の燃料や黒糖、鰹節などを売っていた宮里辰雄氏(故人)。創業の翌1949年には、那覇市内に輸入物資を小売り販売する「琉貿ストアー」や、外国人向けの土産品専門店「リバティーハウス」を相次いでオープンさせ、自由経済化への道に先鞭(せんべん)をつけた。だが、異常インフレによる相場変動や、保有する輸送船が遭難するなど事業はすぐに行き詰まることになる。
■米軍統治下の中、アメリカ視察で受けた衝撃
この急場を救ったのが、のちに約40年にわたって経営を主導することになる宮里氏の長男・宮里辰彦氏(故人)だった。那覇市内の中学から飛び級で鹿児島県内の高校に進み、2・26事件直後の東京帝国大学に入学。日本興業銀行を経て、戦時下の軍需品生産を統括する軍需省に入省。その後、軍政府下の沖縄民政府に通訳業務で入り、30歳で琉球政府貿易庁総裁に就いた、生粋のエリートだ。
サンフランシスコ平和条約への署名で沖縄が日本から切り離されることが正式決定したのと同じ1951年、34歳の辰彦氏は初めて沖縄から米旅客機に乗り、硫黄島やハワイを経由してワシントン、ニューヨークなど米国主要都市を訪問、現地の商業や貿易の現状を視察している。
テレビや家電が家庭に普及する米国人の生活を目の当たりにした衝撃、南米や東南アジアなど訪問先の国々、沖縄系移民の暮らしの様子などを地元紙を通じて積極的にリポートした。世界との相対の中で、沖縄の置かれた状況を俯瞰して見ることができた、数少ない人物だった。
復興には、軍政府の管理によらない自由な商取引の仕組みが必要だと訴え、実践的な物価安定策を提案した辰彦氏。物価抑制の動きと市場へのダイレクトな影響をつぶさに分析し、沖縄経済の実情を米・琉・日本の各為政者に発信し続けた。
■欧米由来の商品が瞬く間に人気を集め…
父親が経営する小売業の危機も、そんな経済の軟弱地盤の上にあった。52年、体調を崩した父を助けようと、琉球政府商工局長への昇格を辞退して琉球貿易社への入社を決断する。
入社して8カ月後には、那覇市の繁華街に「OSSリウボウ(オーバーシーズ・サプライ・ストアー)」を開業。貿易実務の経験を生かしてアメリカやイギリスなど外国製に特化した衣料品、化粧品、装飾品を販売し、瞬く間に地元客の人気を集めた。
開業期の利益だけで赤字を補填して会社再建にめどをつけ、2年後の54年には国際通りの入り口(現在の県庁前県民広場の向かい)に店舗の拡張移転を果たす。ドル時代を通した消費拡大の波に乗って、その後、リウボウはライバルの三越や山形屋を圧倒する高収益性と無借金経営の礎を築いていった。
■リーバイスを日本で初めて売った「プラザハウス」
沖縄にはもう一つ、米軍統治時代の雰囲気を色濃く残す老舗小売店「プラザハウス・ショッピングセンター」がある。
那覇空港から車で50分の距離にある本島中部の街、コザ(現・沖縄市)。ここで、商売を通して米軍人らと“対等”な関係を築いたのがプラザハウスの経営を手がけた平良幸雄氏(90)だ。
20代から米軍基地内の建設会社に勤務。そこで培った語学力と海外で手がけた建設事業のビジネス経験を武器に、1960~70年代、外国人向け住宅で興した建設会社を軌道に乗せ、米国のファーストフード「A&W」や食肉輸入会社「イバノ」の買収も手掛けていた。
米軍の琉球司令部(通称・ライカム)にほど近い場所で1954年にオープンしたプラザハウスは当初、香港華僑のオーナーが経営していた。アメリカ型モールの建築様式が特徴で、欧米から直輸入した商品のセレクトショップ「ロージャース」や洋書店、レコードショップなどが軒を連ね、地元客の憧れの的になっていた。ハンバーガーや、Levi‘sのジーンズが日本で最初に売られたのはプラザハウスだったという。
■アメリカと沖縄を合わせた「琉米文化」の象徴にしたい
本土復帰後の1984年、平良氏は前オーナーが店を手放そうとするタイミングで店舗の買収を決断。沖縄ならではの「琉米文化」の象徴になると事業に価値を見い出し、継承に動いた。
基地周辺にある米国人の住まいは、芝生のある庭にテレビや電話、冷蔵庫までそろい、週末には社交パーティーに興じる将校らの上流文化が垣間見えた。
物質的な豊かさを手に入れ、暮らしを楽しむことがどれほど人々を明るく前向きな気持ちにさせてくれるか。見たことも感じたこともなかった幸福感を沖縄の人々にも届けたい――。そう渇望した平良氏のビジネスは、「住」と「食」の切り口に、さらに「衣」のファッションも加わり、地元民の暮らしのステージを引き上げるテコの役割を果たした。プラザハウスはコザの街の象徴になった。
■「外からの脅威と闘うのではなく、自分らしさをどう守るか」
「うちの会社の“人格”ってなに」「自分らしくないことはやめよう」
平良氏の娘で、現在プラザハウス社長を務める平良由乃氏(63)は、社員によくこんな言葉をかけるという。
「いくら売れている物でも、ここにあることに違和感を覚えるものだってある。他所で買えるものはここでなくてもいい。外からの大きな脅威と闘うのではなくて、自分らしさをどう守っていくか、ずっとそれを考えてきた」
プラザハウスは2014年、隣接地に開業するイオンモールに引き抜かれたテナント跡を活用して、“琉米文化”の継承をテーマにした写真展示とアンテナショップ「RYCOM ANTHROPOLOGY(ライカム・アンソロポロジー)」をオープン。19年には、コザの街に長年消滅したままだったミニシアターを誘致したほか、国内外や地元の食材を販売する自社運営のフードマーケットを開業するなど、地域コミュニティーの復活に動き出した。
そして今年5月、本土復帰50年に合わせて仕掛けるのが、沖縄にゆかりのある芸術家やクリエイターの創作活動を支援する「CREATORS HUB(クリエイターズ・ハブ)」の運営だ。録音・撮影・配信機材などをそろえたコワーキング型の共用スタジオを貸し出し、作品の展示や人材のマッチングだけでなく、商品開発から販売、PRなどをサポートしていく。
■沖縄を真剣にかっこいい島にしていく
長年、由乃社長自らが県内、国内外のファッション、アート分野のつくり手と密な交流を続け、信頼関係を育んできたからこそ関われる、プラザハウスオリジナルの領域ともいえる。
数年前、「人材募集・世界から」と発信したところ、オーストリア、フランス、イタリア、インドネシア、中国出身の人材が集まってきた。オフィスを潤す混ぜこぜのコミュニケーションから、懐かしくも新しい“沖縄の感性”の風が吹きはじめている。
「プラザハウスを、沖縄で培われる人々の感性を育てる拠点にしたい。沖縄を真剣にかっこいい島にしていきたい」
由乃社長が見据える先には、店舗周辺で近く予定されている、返還された米軍基地の跡地利用の行方がある。「これまでのような施設誘致の開発ではいけないと思う。沖縄の本来の自然が感じられる場所、長寿につながる食とか、沖縄の本質を取り戻すような街にしなくては」。そう語る言葉には、その一端を担う気概が感じられた。
■東京にいても「沖縄のことがとにかく自慢だった」
沖縄には、終戦直後、灰塵と化した故郷の土の中から必死になって商売の種を掘り起こし、自立を求めて土壌を耕した「第1世代」がいる。その基盤を受け継ぎ、ビジネスの骨格を整え育てたのが今の80~90代の「第2世代」。そして現在は、彼らの苦闘から生まれた“結晶”を枕に育った「第3世代」が、県内の主要企業で経営の舵取りを担っている。
糸数社長と由乃社長はまさに、その「第3世代」の代表格だ。それぞれ米軍統治時代の沖縄に生まれ、裕福な家庭環境から思春期にパスポートで海を渡り、そこで本土復帰の瞬間を迎えた特別な原体験がある。2人が手がける一貫した売り場改革の原動力は、この原体験に直結している。
「沖縄のことがとにかく自慢だった。マイナスなんて、ほとんど感じたことはなかった」
東京に移り住んだ当時の思い出を語る糸数社長からは、ためらいもなく“優越感”を表す言葉があふれ出てくる。地元の損害保険会社に勤める父親の仕事の関係で本土復帰を迎える直前の71年、小学校6年の時に沖縄を離れ、東京都文京区の中・高校を出て早稲田大学へと進んだ。
■外から沖縄を観察した経験が今に生きている
「都心の百貨店の食品売り場なんかにいくと、沖縄のマチヤグヮー(商店)で普通に買える缶詰やお菓子がインポートの高級品として高い値段で売られている。近くの海水浴場にいくと、みんなが真っ黒な海で泳いでいる。これにもかなり驚きました。沖縄はなんてすごいところなんだ、大人たちから聞かされていた本土のイメージとはまったく違うじゃないかと」(糸数氏)
外貨ドルが貴重で輸入品がなかなか手に入らなかった日本本土と比べると、沖縄はまるで異次元の世界だった。那覇の国際通りには、チョコレートやキャンディー、洋酒や貴金属、万年筆、ライターなど輸入品を扱う店が軒を連ね、「洋酒天国」「買い物天国」に沸いていた。
「沖縄の人たちの当時の平均的な生活自体はまだまだ貧しく、米軍施政権下にあって事件や事故でいろんな不利益を食らってた。それでも、親父たちの世代はアメリカ人と一緒に働いて、僕らなんかよりよっぽどしたたかに当時を生きた。アメリカであることの良い面と悪い面、強みと弱みの両方が分かっていたのだと思います。小学6年にして、外から沖縄のそんな立ち位置が全部見えた。自分は沖縄人なんだな、と思いましたよ」
「沖縄」を強烈に意識した実体験をベースにその後、米国ファミリーマートCEO、沖縄ファミリーマート社長を経てリウボウインダストリー社長を務める糸数社長は、地域に根ざした独自性の追求で、低迷していた各社の業績を上向かせた。
■「洒落心教えてもらった」すべての始まりは憧れから
プラザハウスの由乃社長にとっての“本土生活“の衝撃も、いまだおぼろげなく鮮明だ。基地の周辺は治安が悪く、娘の安全を考えた父親が一時的に熊本県内の私立中学に「留学」させた。本土復帰前年の1971年のことだ。「寮生活は芋掘りとたくあん漬けの思い出。沖縄での暮らしとのあまりの違いに、本当にびっくりしたんです」と由乃社長は振り返る。
パーティーに出かける母親の華やかな装いに憧れた。隣人の外国人から引っ越し祝いに贈られたのは、家族一人一人に名前が刺繍されたふかふかのバスタオルだった。米軍人だけでなく、商売のために沖縄に移住してきた民間の外国人らとの交流を通して、「洒落心を教えてもらった」という。
由乃社長は20代、東京の専門学校で彫金を学び、ジュエリー製作会社などに勤務。憧れのデザイナーに師事し、海外での創作活動や、アクセサリー、インテリア雑貨などの企画生産業務に携わった。自ら商品を買い付けに1年の3分の1以上、海外を飛び回る。現役凄腕バイヤーとして特別な存在感を放っている。
本土復帰後のリウボウやプラザハウスは、「本土並み」へと向かう目標の先頭を切って、外のものを沖縄へ集め、“日本回帰”をリードしてきた。
だが、次の50年は逆方向のベクトルを駆動させる役割を負う。アジア太平洋のキーストーンである沖縄で生まれる文化や商材を、日本本土や海外へ届ける。つくり手と直接つながり、商品開発、文化創造の根本に関わっていく。「メーカー」となることに、新たな役割を見出すことができる。
■小売業界はもう選ぶ立場ではなくなっている
その一方で、両社には新たな“期待と課題”も突きつけられている。
それは、「人」の育成だ。
生産者と消費者の直接取引がかなうネット通販市場が拡大、冷凍技術の進化や商流の多様化も進む中、これまで物流コストの障壁に埋もれ隠されてきた島々の希少で美味しい、おもしろい商材にもスポットが当たるようになってきた。
それと同時に、こだわりの素材と情熱あるつくり手を求めて、原材料や素材獲得の綱引き合戦が始まろうとしている。「売ってあげる」「買ってあげる」、「だから安くして」がまかり通る流通小売業界のヒエラルキーは、早晩覆ることになる。たくさんの選択肢の中から“出口”を選ぶのは、今や小売り側ではない。逸品を極めたつくり手、生産者のほうだ。
だからこそ、つくり手のポテンシャルを見極め、いかに自社に引き込むかがバイヤーである社員の手腕にかかっている。つくり手の思いに迫り、ものづくりの苦悩を分かち合い、探求やまない好奇心と意欲を社員に求めていくことは、従来の「人材育成」の考え方だけでは導き出すことができない難問。地域に愛される“高質な”小売店を残していけるかどうかの肝は、生産者との信頼関係の構築に、社内からどれだけの運動量と熱量が生まれてくるか、勝負の分かれ目はまさに、この一点にある。
■“ちむどんどん”な沖縄らしさを取り戻す
米国型の暮らしを先取りした沖縄には、その結果現れた課題も先行して山積している。「世界一の長寿」はなだれ落ち、肥満県トップ、食料自給率は低水準の全国平均37%からさらに10ポイント低い。
破壊された島の環境を耕しなおし、食料、エネルギーの自給率を高めていく営みそのものが、この島嶼に生き、訪れる者を豊かにし、未来の賢明な消費者を育てる「原風景」をつくることにつながる。
自ら“琉米文化”を織り成したリウボウとプラザハウスには、時代承継に耐えうる社会像を描く義務がある。沖縄の復帰前後の熱を根っこに宿した経営トップだからこそ手掛けられる、一世一代の変革。糸数社長、由乃社長には、常に視界に世界市場をとらえ、英語が堪能という共通点もある。
2人が両輪となって、空になった「黒船」の戻りコンテナにどんな沖縄を載せるのか。その鍵は、かつて思春期に「沖縄のことがとにかく自慢だった。マイナスなんて、ほとんど感じたことはなかった」と胸がわくわくした気持ち、“ちむどんどん”に、ヒントがあるのかもしれない。
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Polestar Communications取締役社長
1978年、沖縄県生まれ。2006年沖縄タイムス社入社。編集局政経部経済班、社会部などを担当。09年から1年間、朝日新聞福岡本部・経済部出向。16年からくらし班で保育や学童、労働、障がい者雇用問題などを追った企画を多数。連載「『働く』を考える」が「貧困ジャーナリズム大賞2017」特別賞を受賞。2020年4月からPolestar Okinawa Gateway取締役広報戦略支援室長として洋菓子メーカーやIT企業などの広報支援、経済リポートなどを執筆。同10月から現職兼務。
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(Polestar Communications取締役社長 座安 あきの)
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