1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 政治

「プーチンはロシアの未来を破壊した」GDPも平均賃金も5倍にした"繁栄"はウクライナ侵攻で終わりを告げた

プレジデントオンライン / 2022年5月13日 9時15分

ロシアのウラジーミル・プーチン大統領 - 写真=EPA/時事通信フォト

プーチン政権はロシア経済を大きく回復させた。だが、ウクライナ侵攻でロシア経済は危機に立たされている。外交評論家の河東哲夫さんは「今、プーチンは正念場にある。プーチンの繁栄を支えてきた柱を自ら崩したからだ」という――。

※本稿は、河東哲夫『日本がウクライナになる日』(CCCメディアハウス)の一部を再編集したものです。

■ソ連崩壊後に訪れた、暴力とカネが支配する世界

1991年ソ連崩壊後の30年間、モスクワの雰囲気はめまぐるしく変わってきた。当初、何でも統制の社会のタガが外れて、何でもありの混沌・混乱状態となったのが、原油価格上昇のおかげで次第に落ち着き、街は西側に近いしゃれた感じになっていく。「幸せになったソ連」。僕は当時のロシアをそう形容したものだ。

なぜソ連かと言うと、消費生活は見違えるほど良くなったが、統制の方はまた見違えるほど復活してきたからだ。話は少し戻るが、その過程を述べてみたい。

1992年1月2日、ソ連崩壊で全権を掌握したエリツィンが、それまで国が全部決めていたモノの価格を一斉に自由化したからたまらない。パンの値段が1日で2倍になることも珍しくない、ハイパー・インフレとなった。たった2年間でルーブルの対ドル価値は6000分の1に落ち込んだのである。

当時は僕も、ロシアで誰かを食事に招待した時など、何センチもの厚さの札束をいくつも袋に入れて出かけたものだ。

街の雰囲気は激変した。ソ連末期、流通を握ったマフィアがインフレを予期してモノを退蔵し、店には文字通り何もなかった。しかし、価格自由化後は街路に粗末なキオスクが林立し、アパートの一階には「商業店」なるものがやたら増えて、西側の安っぽい化粧品や装飾品を並べた棚の向こうに、口紅を分厚いバターのように塗りたくった女店員が座っているようになったのだ。それは何でもありの、暴力とカネが支配する世界。僕も、血だまりに横たわる死体のそばを車で通り過ぎたことがある。

■ソ連崩壊は改革にはつながらなかった

こんな状況だったが、インテリたちは、「やっと自由と民主主義の社会になった」として改革への期待に燃えていた。自分でベンチャー・ビジネスを始める意欲に燃えた青年も多かった。

そして混乱も3年ほど経つと、西側の資本がちらほらとスーパーやショッピング・センターを開き始めた。ソ連時代は顧客に微笑むことなどなかった女店員たちがぎこちないスマイルをしてくる。社会主義時代は、客にスマイルするのは気がある時だけだった。

やがてそのスマイルも自然なものになってきた頃、社会は落ち着いた、というか利権の再配分が終わって、その汚い傷にかさぶたがかぶさったような具合になった。ソ連崩壊は改革にはつながらず、ただの利権の取り合いで終わってしまったのだ。

■ルーブルが大幅に減価し、プーチン政権は誕生した

だから、計画経済をやめて市場経済に変えるのは、中国のように外国資本が一度に大量に流入でもしてこない限り、ほぼ不可能。例えば多数の国営企業の株を買い取れるほどの資力が民間にない。日本でも小泉政権の時に決まった日本郵政民営化で、株を市場で消化するのに何年もかかったことを思えば、それはわかるだろう。そして、カネがあったとしても、市場経済で企業を経営した経験のある者がロシアにはいなかった。

1990年代後半、エリツィンは国債の大量発行で偽りの繁栄を築く。しかし、1998年5月、インド・パキスタン間で核戦争の危機が高まったことで、高リスクのロシア国債は投げ売りされ、同年8月にはロシア政府は元利支払いを停止、デフォルトを宣言する。ルーブルは4カ月で3分の1以下へと値を下げ、モスクワ市内の高級レストランはがらがらになった。

暖かい晴れた日の午後、レストランで座っている 2 つの空ワイン グラス
写真=iStock.com/Sinenkiy
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Sinenkiy

その混乱がまだ収まらない1999年12月、エリツィン大統領はプーチンに権力を禅譲、プーチン時代となったのである。ルーブルが大幅に減価するところまでは、制裁を食らった後の今のロシアに似ている。後はプーチンが誰かに権力を禅譲すれば、歴史の一サイクルは回ったことになる。

■2012年、プーチンはロシアのWTO加盟をやり遂げた

まだサンクト・ペテルブルクで無名だった1997年、プーチンは博士論文を出した。その題名は、「市場経済形成下における鉱産業の再生・その戦略的方向」。要するに、国の富の基本である石油・資源部門を政府ががっちり押さえ、そこから上がる利益で賢い投資を行っていこうという、ソ連時代のブレジネフを髣髴(ほうふつ)とさせる内容のものである。

プーチンは大統領になると、この政策を早速実現する。サンクト・ペテルブルク市庁勤務時代からの側近、セーチンを使って、ソ連崩壊でばらばらになっていた石油・ガス部門をほとんど政府の下に集約してしまうのである。ソ連時代と違うのは、外国資本を恐れず活用して、製造業を改革しようとする姿勢、そして民営の中小企業を振興しようとする点である。だからプーチンは2012年、交渉を始めて18年も経っていたロシアのWTO加盟をやり遂げ、OECD加盟を次の目標にすえたのである。

■平均賃金は13年で5倍、消費生活はぐんと良くなった

このようなプーチノミクスは目覚ましい成果を上げた……ように見えた。

エリツィンから政権を引き継いだ2000年は、まだソ連崩壊と1998年のデフォルトの傷跡が生々しく、既に言ったように給料遅配、企業間の現物決済=物々交換は収まっていなかった。2000年のGDPはわずか2600億ドル程度しかなかったのである。ところがリーマン・ショック前の2007年にはGDPは1兆3000億ドル、つまり7年で5倍になり、まさに中国を上回る世界史上の一大奇蹟(手品)を成し遂げる。

平均賃金も2000年から2013年の間に5倍になり、プーチンの支持率を高止まりさせる消費生活は、別天地であるかのように良くなった。きらびやかで広大なショッピング・センターから、都心・郊外のそこここに点在する市場(いちば)、小型のスーパーまで。所得水準に応じて何でも買える。スマホでタクシーを呼べば数分でやってくる。地図検索もネットでできるから、会合の場所にもすぐたどりつける。電子書籍も普及したし、寿司さえも24時間のデリバリー・サービスがある時代。

だが、国民は知っていた。これが脆い繁栄であることを。僕はある時、タクシーの運転手に聞いてみた。「プーチン大統領、すごいね。あんた、収入何倍にもなっただろう」と。すると運転手は前を向いたまま、こともなげに答える。

「まあね。でも石油の値段がこんなに上がれば、誰だってこんなことできるさ」

夕方に車輪の後ろの男
写真=iStock.com/SVPhilon
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/SVPhilon

■「プーチンの繁栄」を支える柱を自ら崩した

今、プーチンは正念場にある。「プーチンの繁栄」を支えてきた柱を自ら崩したからだ。2014年3月のクリミア併合は、西側の経済制裁を呼び、それもあってロシア人の可処分所得は5年以上、概ね右肩下がりとなった。経済は停滞し、社会も沈滞する。ロシアの若者は、20年前には起業をめざす者が多かったが、その頃にはビジネス・スクールの学生でさえ大多数の者が「給料が高くてあまり働かなくてよい」国営企業への就職を希望する状況となっていた。

モスクワを歩いていると悪いことも目についた。ソ連時代からのインフラや建物のメンテナンスが悪く、ソ連崩壊後のがさがさして貧しい感じが残っている。そしてヨーロッパ風の瀟洒(しょうしゃ)な店で買い物をしている連中と、そこで警備員をしているような人たちの間の格差がひどい。

今度のウクライナ侵攻に対する西側の制裁は本格的で、ロシアの富の根幹である原油と天然ガスの価値を奪い、ルーブルを大きく減価させただけでなく、ドルでの取り引きを禁じることで、ロシアを世界経済からほぼ切り離した。

プーチンはロシアの経済回復という自分の(石油価格の)功績を濫用し過ぎて西側の決定的反発を招き、ロシア社会をも敵に回す瀬戸際にある。

■「ロシアの経済を変えたい」青年たちは欧米に移住するだろう

毎年ロシアのビジネス・スクールで教えていた頃、25名ほどの学生の中には必ず3名くらい、ロシアの経済を変えたい、意味のある人生を送りたいと思っている者がいた。そういった学生は、ロシアに対しても西側に対しても、その可能性と限界をちゃんと見ていて、着実な人生設計をしようとする。そうした学生は、「西側に出て数年働き、経験を蓄積したらロシアに戻ってくる」と言ったものだ。

西側の投資銀行、あるいは大手コンサル、会計事務所のモスクワ所長には、そのようなバリバリの西側帰りのロシア青年がなっていることが多い。彼らは、1990年代混乱期の頭でっかちインテリとは違って、腰が低く、相手には実力本位で接し、現実本位で動く。西側企業が軒並み撤退した今、彼らの多くは欧米に移住するだろう。

■タクシー運転手「ここでもやっていけることがわかってきた」

そんなエリートでなくても、健全なビジネス・マインドがずいぶん浸透してきたなと思う時があった。2015年3月、僕はモスクワでタクシーに乗った。運転手は50がらみの実直そうな風采のあがらない男。

河東哲夫『日本がウクライナになる日』(CCCメディアハウス)
河東哲夫『日本がウクライナになる日』(CCCメディアハウス)

「俺、事業やってたんだ。ゴミからポリプロピレンを再生する事業で、共同経営者の1人。40人雇ってた。いい事業で、環境にやさしいんだ。でも工場が火事で駄目になった。銀行融資? 借りてたら、(金利が高過ぎて)すぐ駄目になっただろうよ。税金は透明だった。パソコンで納税できるようになったしな。ものづくりは、ロシア人の夢なんだ。石油を掘って、売った代金で何かを輸入して売って稼ぐ。こんなんでやっていけないことは、子供でもわかる。あんたここの大学で教えてるって? 学生は外国に出たがってるかい? そうでもない? そうだろう。ここでもやっていけることがわかってきたんだ」

……「ここでもやっていける」、これは本当に希望を与えてくれる言葉だった。でも、ウクライナ侵略はすべてを元の木阿弥にした。プーチンはロシアの未来を破壊した。

----------

河東 哲夫(かわとう・あきお)
外交評論家、作家
1947年、東京生まれ。東京大学教養学部卒業後、1970年、外務省入省。ソ連・ロシアには4度駐在し、12年間を過ごしてきた。東欧課長、ボストン総領事、在ロシア大使館公使、在ウズベキスタン・タジキスタン大使を歴任。ハーバード大学、モスクワ大学に留学。2004年、外務省退官。日本政策投資銀行設備投資研究所上席主任研究員を経て、評論活動を始める。東京大学客員教授、早稲田大学客員教授、東京財団上席研究員など歴任。著書に、『遙かなる大地』(熊野洋の筆名によるロシア語小説、日本語版、草思社)、『意味の解体する世界へ』『新・外交官の仕事』『ワルの外交』『米・中・ロシア虚像に怯えるな』(いずれも草思社)、『改訂版 ロシアにかける橋』(かまくら春秋社)、『ロシア皆伝』(イースト新書)、『よくわかる大使館』(PHP 研究所)他。

----------

(外交評論家、作家 河東 哲夫)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください