1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. ライフ
  4. ライフ総合

NHK大河ドラマが史実通りとは限らない…源頼朝が大恩人・上総広常を殺した本当の理由

プレジデントオンライン / 2022年5月1日 18時15分

『大日本六十余将 上総介広常』(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

鎌倉幕府を開いた源頼朝は、味方だった大豪族の上総広常を殺している。歴史学者の濱田浩一郎さんは「NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、広常が大豪族であるがゆえに、頼朝の政権の脅威となっていることが殺害の要因として描かれていたが、それは史実とは異なる」という――。

■佐藤浩市の迫真の演技は視聴者をザワつかせた

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第15回「足固めの儀式」が放送された。その中において、源頼朝は豪族・上総広常に無実の罪を着せる。謀反を起こした見せしめとして、御家人がいる満座の席で、広常は頼朝の命を受けた梶原景時により討たれた。

広常演じる俳優の佐藤浩市さんの演技はすさまじかった。特に殺害されるシーンの目まぐるしく変わる表情(怒りの顔、哀願するかのような顔、おびえの顔、そして笑み)は、視聴者に鮮烈な印象を残したに違いない。

今回のドラマにおいて、広常は武骨者ながらもチャーミングなところがあり、主人公・北条義時と打ち解け、交流を深めている人物であった。それだけに、その死を悲しみ悼む視聴者が多かったようだ。

■源頼朝は本当に残酷な男だったのか

その一方で、広常をはめて殺した頼朝に視聴者の怒りの視線が向けられて「頼朝嫌い」がTwitterのトレンド入りするほどであった。

元々、頼朝は、歴史上の人物のなかで、人気のある方ではない。どちらかと言えば、不人気と言って良いだろう。

その一番の理由は、異母弟の源義経を追い詰めて、最終的には死に至らしめたことにある。幕末維新の話になるが、薩摩の大久保利通が盟友の西郷隆盛と袂(たもと)を分かち、西南戦争(1877年)で西郷を自刃に追い込んだことにより不人気であることと、どこか似ているように私には感じる。

「頼朝嫌い」「頼朝ひどい」の声が溢(あふ)れる中で、「源頼朝は本当に残酷だったのか」を検証するのは、少々気が重いが、進めていこう。

■千葉の豪族の力を借りて、鎌倉に入る

頼朝は治承4年(1180)8月に、平家方に対し挙兵。最初の戦こそ勝利するが、平家方の大庭景親(おおばかげちか)らの大軍とぶつかった石橋山の戦いでは敗北し、千葉県南部にまで落ち延びる。

その後、千葉常胤(ちばつねたね)、上総広常といった千葉の豪族の助勢を得て、頼朝は勢いをつける。そして、平家方の武士たちを次々に降参させた。そして、鎌倉に入り、そこを本拠とするのであった。

■鎌倉に入った頼朝が最初に行ったこと

元々、敵対していた武士を頼朝はどのように処遇したのか。本当に残酷な男ならば「許さん」とばかりに処刑してしまうであろう。いや、残酷な性格でなくとも、敵方を殺すことは当時の武将として、特別なことではない。

では、頼朝はどうだったのか。1180年11月17日、頼朝は鎌倉入りする。まず、初めにやったのは、敵方だった曽我太郎祐信(そがたろうすけのぶ)という武士の罪を赦しているのである(それと共に、部下の和田義盛を侍所別当=長官に任命している)。

鶴岡八幡宮
写真=iStock.com/brytta
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/brytta

■斬首するつもりだった男をゆるす

同月26日には、平家方についた山内経俊を助命している。

頼朝は経俊を初めは斬首するつもりだった。が、経俊の母・山内尼はかつて頼朝の乳母をしていた。その山内尼が泣きながら、わが子の命乞いをしたのだ。

頼朝挙兵前、経俊にも味方になるように、頼朝方から誘いがあった。しかし、経俊は誘いを断ったばかりか、使者に悪態までついたのだ。

乳母の子と言えども斬っても良かったかもしれない。だが、頼朝は経俊を斬らなかった。

経俊の先祖が代々源氏に仕えていたこと、経俊を斬れば山内尼が悲しむということで、罪を赦(ゆる)したのだ。

■義祖父と頼朝の浅からぬ因縁

伊豆国伊東の豪族・伊東祐親も平家方についたが、罪をゆるされた者の一人だ。

祐親は、娘を北条時政に嫁がせていたので(祐親の娘が、北条政子や義時を産んでいる)、政子を娶(めと)った頼朝とも縁戚関係にあった。

写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons
伝源頼朝像(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

祐親は捕縛され、三浦義澄(これまた祐親の娘婿)に囚人として預かりの身になっていた。義澄は政子が妊娠したという情報を得ると、頼朝に祐親の罪を赦して欲しい旨を言上する。すると頼朝は恩赦を決めるのだ。

しかし残念なことに祐親は、頼朝と対面する直前、自ら生命を絶ってしまう。恩赦の言葉を貰ったものの、これまでの数々の所業(頼朝に反抗したことなど)を恥じ、自殺したのだという。頼朝は祐親の死を悲しむと共に、その潔さに感嘆したと伝わる(『吾妻鏡』)。

さらに、頼朝は祐親の子・祐清を召して「お前の罪を許そう。褒美も与えよう」とまで言うのであった。祐清は「父は既に死にました。死んでから褒められても仕方ありません。私を死刑にしてください」と死を乞うのである。頼朝は仕方なく、祐清を処刑する。

■自分を殺そうとした人間を赦せるか

伊東祐親はかつて、頼朝を殺そうとしたこともあるほど、頼朝とは因縁があった(なぜ祐親が頼朝を殺そうとしたかの真因は分からないが、『曽我物語』などによると、頼朝が祐親の三女に手をつけ、子を産ませたことが原因だとされる)。

「頼朝残酷」「頼朝ひどい」と叫んでいる人に、私はあえて問いたい。

「皆さんは、自分を殺そうとした人を、これほどまでに許すことができますか?」と。

もちろん、頼朝もただ温情ばかりでもって、敵をゆるしたわけではないだろう。

そこには、寛大な所を見せたいとか、降参してきた者を有効活用したいとか、北条氏と縁戚にある者を処刑できないとか、さまざまな思惑もあったであろう。

しかし、そうであっても、自らと命のやり取りをした敵をここまで許すというのは、度量があると感じるのだ。

■上総広常がいなければ鎌倉幕府はなかった

では、ドラマで話題になった上総広常の殺害問題はどのように考えるべきなのだろう。

2万騎の軍勢を擁(よう)したという広常が頼朝に味方していなければ、頼朝挙兵は失敗していた可能性が高い。

その意味で、広常は最大の功労者であり恩人と言っても良い。そんな広常が1183年、頼朝の命令を受けた梶原景時によって、すごろくの最中に首を掻き切られ、殺害されてしまうのだ。

■頼朝はなぜ広常を殺害したのか

頼朝自身の言葉として後に後白河法皇に語ったのは「広常は、なぜ朝廷のことにばかり見苦しく気を遣うのか、我々がこうして関東で活動しているのを、一体誰が止めることができるでしょうかと言うような謀反心のある者でしたので、そのような者を家臣にしていては、自分まで好運を失うと考えて、殺害したのです」という理由説明が伝わっている。(天台宗の僧侶・慈円の史論書『愚管抄』に記載。これは、1190年、頼朝初上洛(じょうらく)の際に語ったとされる)

頼朝の言葉を信じるならば、京都・朝廷重視の頼朝、東国重視の広常との間に路線対立があり、それで頼朝が広常を粛清したと考えられる(もちろん、これは、「勝者」の言葉であり、実は広常粛清には別の理由があったかもしれないが)。

京都にいる木曽義仲討伐のために、頼朝は源範頼(頼朝の異母弟)を派遣することになるが、その軍勢派遣に広常が反対したことが、粛清の要因という説もある。

頼朝が大軍を西国に派遣するには、これに反対する実力者・広常を殺すしかなかったということである。

路線対立による粛清など、歴史上、枚挙に暇(いとま)がない。頼朝のみが過剰に非難されるいわれはないだろう。

ちなみに、ドラマでは、広常が大豪族であるがゆえに、頼朝の政権の脅威となっていることが殺害の要因として描かれていた。上記のような細かい要因は説明されていない。

三谷幸喜さんは「歴史劇だから歴史を描くことはもちろんですが、大河ドラマはまず“ドラマ”であるべきというのが、僕の考え」と話している。史実から想像を膨らませ、エンターテイメント性を考慮した結果が、頼朝を残酷な人間と描くという選択だったのだろう。

■人物を善悪で評価することはできない

私は本稿で頼朝を過度に弁護したいわけではない。

人間というものは、ある面をクローズアップすれば残酷な鬼にも見えるし、別の面を見つめていけば、仏や天使にも見える。

だから、例えば、上総広常や木曽義高の殺害、源義経を追い詰めたこと、義経の愛妾・静御前が産んだ男子の殺害を命じたことを連続して並べていけば、頼朝は血も涙もない冷血漢ということになろう。

一方、本稿で述べたように敵方を次々助命していることを見れば、温情ある指導者という見方が成り立とう(政敵を葬ったこともそれなりの理由があることも多い)。

善か悪か、鬼か仏かという観点でのみ、歴史上の人物を捉えることは、その人物の本質を捉えることをかえって阻害してしまう可能性があろう。

----------

濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。

----------

(作家 濱田 浩一郎)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください