東芝、ニコン…日本企業の社員たちから"軍事に使える技術"を盗んだロシアスパイの手口
プレジデントオンライン / 2022年5月24日 8時15分
※本稿は、北村滋、大藪剛史(聞き手・構成)『経済安全保障 異形の大国、中国を直視せよ』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
■ロシアスパイによるサベリエフ事件
――日本の技術が外国に盗まれる事件は昔からあったのか。
私は、2004年8月から警察庁外事課長を務め、外国によるスパイ事件の捜査とその前提となる情報活動を指揮してきた。外事課は外国人等による対日有害活動を摘発する部署だ。日本の重要な技術が盗まれていく実態を見たことが、経済安全保障の重要性に覚醒した原点だ。
――どのような事件があったのか。
例えば、東芝子会社の社員が、軍事転用可能なパワー半導体関連情報をロシアに漏らしていた事件があった。機密情報を在日ロシア連邦通商代表部員のウラジーミル・サベリエフという男に漏洩し、見返りに現金約100万円を受け取っていた。男の名前を取って、サベリエフ事件と呼ばれる。
漏れた情報は、パワー半導体という電流を制御する半導体素子に関するものだった。民生品に使われるもので、会社側は当時、「顧客に説明するための資料だ。軍事転用できるレベルではない」と主張していた。ただ、潜水艦や戦闘機のレーダー、ミサイルの誘導システムへの転用も可能だとされていた。いわゆる、「デュアルユース」(両用)技術だ。
通商代表部は日露貿易の発展などを所管する部署だが、サベリエフは、ロシアの情報機関である対外情報庁(SVR)の先端技術獲得部門に所属していた。つまり、スパイだ。通商代表部にはSVRの人間が勤務している。
■幕張メッセでの展示会で知り合い、居酒屋で会っていた
――サベリエフはどうやって情報を取ったのか。
社員とは04年4月、千葉市の幕張メッセで行われた電気機器展示会で知り合った。ブースで自社製品の説明員を務めていた社員に、「私はイタリア人で名前はバッハだ」と偽って接近した。「経営コンサルタントをしている。日本への会社進出にあたって来日した。協力してほしい」と巧みに距離を縮めた。その後も、東京都や神奈川県の居酒屋、ファストフード店で複数回にわたって接触していた。密会場所や日時は、サベリエフから指示されていた。
――居酒屋やファストフード店で接触するとは大胆だ。
ソ連邦が1991年に崩壊した直後は、SVRの前身であるソ連邦の国家保安委員会(KGB)の伝統がロシアにも残っていて、スパイ活動はもっと繊細かつ緻密だった。
例えば、「デッド・ドロップ・コンタクト」。埋没連絡法と呼ばれるもので、互いに会わずに情報を伝えることができる。政治、軍事などの情報が書かれた紙を空き缶の中に隠して、特定の場所に置き、相手が後で回収する、といったやり方だ。工事で環境が変わらない、神社や墓地といった場所が選ばれた。朝鮮労働党の地下党もかつて韓国で同様の手法を駆使して連絡を取りあっていた。違う空き缶を拾わないよう、あらかじめ、特定のジュースを指定することもあった。
「フラッシュ・コンタクト」という手法もあった。情報の入った容器を捨てると、すれちがいざまに相手がそれを拾うものだ。
■社員は「飲み代欲しさに断れなかった」と供述
いずれも、警察当局による監視をくぐり抜けるために行われてきた。
私が外事課長になったころには、ソ連邦崩壊後10年以上が経過して、こういうテクニックが使われなくなりつつあった。情報技術を駆使した他の連絡手段が発達したことが大きな原因だ。冷戦期に熟達したテクニックと長年対決してきた捜査員にとっては、飲食店で接触するというやり方が、あまりに無警戒に思えて信じられなかったようだ。サベリエフと社員が居酒屋を出て、駅まで並んで歩いているのには正直面食らった。
サベリエフは、当初、インターネットで入手できる公開情報を求める程度だった。社員が警戒しないレベルの情報から始め、徐々に要求をつり上げた。これは、スパイの常套手段と言って良い。やがて、半導体やその製造工程が分かる資料まで要求するようになった。社員は、会社から貸与されたノートパソコンを社外に無断で持ち出し、パソコンに保存された技術情報を、「コンパクトフラッシュカード」にコピーして手渡していた。
警視庁は2005年9月、社員に任意同行を求めて事情聴取を始め、事実が明らかになった。社員は「コンサルタントの仕事には必要ないと思われる資料を求められ、途中からおかしいとは思っていたが、飲み代欲しさに断れなかった」と供述していた。謝礼の現金は封筒に入れて手渡されていた。
サベリエフは、「社内ネットワークへのアクセス方法を教えてほしい」とも要求していた。ネットワークにアクセスして様々な情報を入手しようとしていたのだろう。むしろ、こちらの方が深刻な脅威とも言える。
■ロシアの情報機関員は各国で諜報活動をしている
警視庁は10月、解雇された元社員とサベリエフを東京地検に書類送検した。2人が東芝子会社に損害を与えた「背任」というのが、直接の容疑だった。サベリエフは書類送検される前の6月に帰国していた。
――逃げてしまったのか。
現行犯逮捕できれば良いが、なかなか難しい。東京地検は06年2月、2人を起訴猶予処分とした。「会社に与えた損害が小さい」というのが理由だったようだ。実際はともかく、会社側も「大ごとにしたくない。そのために、流出した技術は、あまり重要ではない、ということにしよう」という思いがあっただろう。
ソ連邦崩壊後も、ロシアの情報機関員は外交官等を装って各国で諜報(ちょうほう)活動を繰り広げている。ロシアが日本の政治軍事動向だけでなく、日本の先端科学技術にも強い関心を示していたことが分かる。
企業は、外国からの工作への警戒心を怠ってはならない。外国人と接触する際の報告手順を作るといった対策が必要だ。今回の事件では、社員が社内情報を「コンパクトフラッシュカード」にダウンロードできてしまったことも問題だった。
■ニコンの研究員が光通信機器をロシア軍事関係者に渡した
――光学機器メーカーのニコンでは、機器そのものが持ち出される事件があった。
ニコンの研究員が軍事転用可能な光通信機器「可変光減衰器(VOA:Variable Optical Attenuator素子)」を持ち出し、在日ロシア連邦通商代表部の部員に渡したとして、警視庁公安部が2006年8月、2人を窃盗容疑で書類送検した事件だ。
ロシア側が通商代表部の肩書で近づいてきたのは、サベリエフ事件と共通する。この部員はロシア連邦軍参謀本部情報総局(GRU)に所属していた。ロシア軍の通信基盤技術の改善に利用することが技術情報入手の目的だったのだろう。
研究員はニコンに在籍していた05年2月、自分が中心になって開発していたVOA素子を持ち出し、ロシアの部員に渡した。VOA素子は、光ファイバーを流れる光の波長を制御する最先端機器で手のひらに収まる程の大きさだ。したがって、社外への持ち出しも容易だったのだろう。大量の情報を瞬時に送信するために不可欠の技術とされる光ファイバーと一緒に使うことで、ミサイルの制御や誘導に転用できる。ニコン社内でも機密扱いになっていた。
――どうやってミサイルの誘導に使うのか。
「有線誘導方式」というミサイルがある。ミサイル後部からワイヤーが伸びていて射手までつながっているものだ。ミサイルの先端にある赤外線センサーで感知した前方の画像を、光ファイバーで射手まで送り、破壊目標までミサイルを誘導する。そのために、VOA素子を使うことができる。
■やはり展示会で接近し、居酒屋などで密会していた
――ロシア側はどういう場を利用して研究員に近づいたのか。
04年春に都内で開かれた展示会で、研究員に「在日ロシア連邦通商代表部」の名刺を差し出して近づいた。その後、複数回にわたり、都内の居酒屋などで密会していた。
展示会で接触し、飲食店で密会を繰り返したのもサベリエフ事件と同じ手口だ。
部員は当初、論文などの提供を求めるだけだったが、やがてVOA素子そのものを求めるようになった。研究員はVOA素子をそのまま持ち出して部員に渡していた。VOA素子はロシアに運び込まれたのだろう。研究員は見返りとして現金計数万円をもらっていた。もちろん、研究開発にはこれとは比べようもない多額の資金を企業側は投入したと思う。
部員はやがて、ミサイルの命中精度を高める赤外線センサー技術の提供も求めるようになった。これに対し、研究員はサベリエフ事件が報道されたのをきっかけに不信感を抱くようになり、部員との密会をやめ、赤外線技術も提供しなかった。
――ロシアの部員はどうなったのか。
警視庁から出頭要請を受けた翌日、ロシアに出国してしまった。サベリエフ事件もそうなのだが、出頭を要請すると帰国するケースがほとんどである。
この事件も最終的に起訴猶予になった。
※本稿の説明は、当該事件当時の各種報道、警察白書の当該部分、警察庁警備局編集の『焦点』及び『治安の回顧と展望』の当該部分、外事事件研究会『戦後の外事事件 スパイ・拉致・不正輸出』東京法令出版(2007年)の当該部分、拙著『情報と国家』中央公論新社(2021年)の当該部分、当該事件の受任弁護側から開示されたと思料されるネット上の各種資料、その他研究者による事件関連論文等の公表又は開示された資料に基づいている。
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前国家安全保障局長
1956年12月27日生まれ。東京都出身。私立開成高校、東京大学法学部を経て、1980年4月警察庁に入庁。83年6月フランス国立行政学院(ENA)に留学。89年3月警視庁本富士警察署長、92年2月在フランス大使館一等書記官、97年7月長官官房総務課企画官、2002年8月徳島県警察本部長、04年4月警備局警備課長、04年8月警備局外事情報部外事課長、06年9月内閣総理大臣秘書官(第1次安倍内閣)、09年4月兵庫県警察本部長、10年4月警備局外事情報部長、11年10月長官官房総括審議官。11年12月野田内閣で内閣情報官に就任。第2次・第3次・第4次安倍内閣で留任。特定秘密保護法の策定・施行。内閣情報官としての在任期間は7年8カ月で歴代最長。19年9月第4次安倍内閣の改造に合わせて国家安全保障局長・内閣特別顧問に就任。同局経済班を発足させ、経済安全保障政策を推進。20年9月菅内閣において留任。20年12月米国政府から、国防総省特別功労章(Department of Defense Medal for Distinguished Public Service)を受章。2021年7月退官。現在、北村エコノミックセキュリティ代表。
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(前国家安全保障局長 北村 滋 聞き手・構成=大藪剛史)
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