1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

殺人犯を死刑に処すのは当たり前…そんな考え方に幸福学者が「不幸になるだけ」と反論するワケ

プレジデントオンライン / 2022年5月27日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/xefstock

凶悪な殺人犯にはどんな刑罰を与えるべきなのか。慶應義塾大学の前野隆司教授は「人は死んだらなにも残らない。ならば、加害者を許し、罪を償わせるべきだ。報復手段としての死刑は、社会の平和につながらない」という――。

※本稿は、前野隆司『ディストピア禍の新・幸福論』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■存続、廃止について答えが出ない死刑制度

誰もが最後は死ぬのなら、いま生きている期間は、いずれやってくる死を恐れながら監獄で待つのと大差ないのではないか。

誰だって、今日明日にも死ぬかもしれない。

わたしたちは、いつ死刑執行されるかもわからない毎日を暮らす虚(むな)しい存在なのではないか――。

死について考えるとき、関連する問題として、社会制度としての死刑の存在がある。

存続・廃止をめぐって世界中でいろいろな議論があり、日本でも世論が大きく分かれがちな問題、それが死刑制度だ。

■死刑の最大の目的は「犯罪抑止」

死刑が求刑されるような事件のニュースに触れて、感情的に「許せない」と感じる人は多いと思う。卑劣な犯罪が行われ、なんの瑕疵(かし)もない被害者やその家族らの映像が出てくると、なおさら「犯人を早く死刑にしたほうがいい」「こんな人間は生きている価値がない」という感情を掻(か)き立てられる。

しかし現代法では、死刑は「目には目を、歯には歯を」という復讐(ふくしゅう)のために行うのではない。犯罪抑止効果を最大化するのが刑罰の最大の目的である。

だから、死刑が求刑されるような犯罪が起きたときに、テレビの視聴者が「死んで償ってほしい」「犯人を殺してやりたい」というのを聞くとき、わたしは人類全体に対するいたたまれない悲しみと虚しさを感じる。なぜなら、復讐心は怒りの連鎖を生むだけだからだ。

■人間が生まれながらに持つふたつの本能

人間にはふたつの本能がある。それは、「怒り」と「共感」だ。人間は生き残るために、いわば「戦う本能」と「仲良くする本能」のふたつを維持してきた。

怒りの本能とは、自分に危害を加える者に対して怒り、戦い、もし仲間がやられたら復讐するモードのことを指す。

はるかむかしの人類を想像するとわかるだろう。凶暴な獣が目の前に現れたとき、戦わないとやられてしまう。だから、獣と戦う本能が人間には備わっている。

この本能は、現代においては「勝ちたい」という本能に転化される。子どもの頃も、大人になってからも、「他人に勝ちたい」と思う人は少なくないであろう。個人差はあるものの、力や暴力によって勝ちたいという本能のみならず、成績やスポーツで他人に勝ちたいという気持ちも人間には備わっている。社会を見ると、この戦う本能にドライブされて生きている人は多いように思われる。

一方、人間の脳には共感の本能も埋め込まれている。

目の前に現れたのが獣ではなく、もし人懐っこい犬だったらどうだろうか? 人間は犬とは仲良く暮らせることを学び、危害を加えたり憎んだりせずに済む。いや、場合によっては獰猛(どうもう)な獣とだってともに暮らすことができるはずだ。

ましてや相手が同じ人間なら、親が子どもを育てるときの本能のように、相手の気持ちになって共感したり、互いに労(いたわ)り合ったりできるはずだ。

■20万年前から人間は進化していない

話を戻すと、人間は被害者に共感することができるが、同時に加害者にも共感できる本能も持っている。

「この犯人は許せない」「この人間は心が歪んでいる」と憎むこともできれば、「未熟さゆえにこんな罪を犯したのだ」「親からの虐待や社会の激しい格差のなかで育ったから、こんなことをしてしまったのだ」と想像し、共感することもできる生き物なのである。

ほかの動物にこんなことは到底できない。

いま目の前に危機が迫っている場合は、まず「戦う本能」が発動するだろう。凶暴な敵がやってきたときに「仲良くしよう」と思っていると自分の身が危うくなるため、先に戦う本能が発動するからだ。本能と本能とのせめぎ合いでは、怒りや「許せない」という復讐の感情のほうが先に出るだろう。

そんな、自分を守るために相手を敵として憎む本能と、みんなと仲良くしてコミュニティを安心安全に保つ本能――。どちらが発動するかで結果はまるで違うものとなるし、まるで異なる社会になるというわけだ。

いずれにせよ、わたしたちが狩猟・採集生活をしていた頃の本能が、現代社会でも変わることなく働いていることは間違いない。いってみれば、わたしたちは20万年前から進化していないのだ。

人類の進化のイラスト
写真=iStock.com/Man_Half-tube
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Man_Half-tube

だからといって、狩猟・採集時代の本能を、いまわたしたちは剝(む)き出しにすべきだろうか?

■「死」は誰にでも等しく訪れる

人間は死んだら終わりだ(いろいろな意見があるだろうが、少なくともいまの人生は終わりだ)。

それゆえに、子どもを殺された親が「犯人は死んで償ってほしい」というのを聞くたびに、わたしは憂鬱(ゆううつ)な気持ちになる。復讐心を掻き立てられても、問題は解決しないのに。

もちろん、わたしも子を持つ親のひとりであり、親が子を思う気持ちの深さが想像できないわけではない。ただ、人は死んでしまえばなにもなくなる。

死んでしまえば、加害者が自らの罪に苦しみ、後悔と罪悪感に苛(さいな)まれながらその行為を償うことはできないではないか。苦しくもつらくも、なんともないではないか。死んだら罪を償うことは不可能なのだ。その意味では、死ぬまで自分が犯した罪とともにある無期懲役のほうが、まだ償いになるかもしれない。

死んだら、「無」。それが現実なのだ。

墓の上に白いバラを置く男性
写真=iStock.com/PeopleImages
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/PeopleImages

被害者が亡くなっても、その家族や友人たちは生き続ける。その短い人生を生きるなかで、犯人の存在を世界から消去してしまいたい気持ちもあるだろう。もちろん、わたしもその親の無念を想像することはできる。

しかし、いずれすべての人は、遅かれ早かれ消えてなくなる。だから、「生きていることは死刑と同じ」だと比喩として述べてきた。今度は本物の死刑について述べているわけだが、両者を比べてみても、同じようなものなのではないだろうか。

つまり、死刑になってこの世からいなくなるのと、人生という死刑を生きていつか死ぬのは、同じようなものではないか。死んだあとの永遠の無に比べると、そこにたいした差はない。

■多くの国で「復讐」が禁止になった理由

現在、EUではすでに死刑制度を廃止している。理由はいろいろあるが、ひとつにはキリスト教の伝統が影響している。

キリスト教では、人間を裁くのは神である。法的には多種多様な罰が社会において用意されるものの、最終的には神が人間を裁くと考える。そのため、死刑制度によって人が人を裁くのは、おこがましい行為だという思想が根底にあるのだ。

また、仇(あだ)討ちはしないという合意もある。新約聖書には、「右の頬を打たれたら左の頬も差し出せ」と記されている。たとえ痛めつけられても、その報復を否定したイエス・キリストの言動が大きく影響しているのだ。

一方、日本では江戸時代まで復讐が許されていた。自分の家族が酷い目にあえば、その仇を討つのは当然のこととされていたのだ。世界を見渡せば、約3800年前の法典であるハンムラビ法典にも「目には目を、歯に歯を」と記されている。むかしは仇討ちが許されていたのだ。

だが近代以降、多くの国で復讐を禁止することが合意された。いまの日本人も、多くの人が「あの犯人は死刑にすべきだ」などと発言するものの、すでに報復行為はやめたことになっているのだ。

なぜだろうか?

それは家族の仇を討つために復讐すると、仇を討たれた者の家族が、その仇討ちを考えるからだ。

そうして、復讐が世代を超えて連鎖していくからである。復讐を認めたとたんに、わたしたちの世界は仇だらけの世界になってしまう。

■言い分と報復だらけの世界に平和は訪れない

わたしは広島で育った。

子どもの頃から原爆や戦争の悲惨さについて、また平和を希求する大切さについて教えられてきた。

なぜ広島の人や長崎の人、ひいてはすべての日本人は、人類史上はじめて2発の原子爆弾を人間の上に投下したアメリカに報復しないのか?

それは、日本人は恒久の平和を求めると合意したからだ。

広島の原爆ドーム
写真=iStock.com/clumpner
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/clumpner

「原爆を落としたアメリカを、わたしたちは永遠に許さない!」といっていたら、子孫末代に至るまで報復が連鎖するだろう。自分たちも相手も、いつまでも平和には生きていけない。

さまざまな説があるが、多くのアメリカ人は、原爆投下はそもそも日本が真珠湾を奇襲したからだと考えている。だが、日本にも真珠湾を奇襲した理由があった。互いに譲れない理由と言い分があるのである。

ならば、そんな言い分と報復だらけの世界で、どうすれば人類は平和に生きていくことができるだろうか?

■復讐はダメなのに死刑は存続する日本

答えは、相手を「許す」ことだ。

論理的に考えて、「相手を許したほうが平和な社会になる」から、わたしたちは報復を捨てたのである。日本では死刑制度が存続しているが、ほかの多くの社会では、被害者の仇を討つのではなく、加害者に罪を償わせるという考え方に変化している。

その「償い」とは、その人の存在を消去することではなく、「より良き人」に変えることだ。「犯人は心の異常によって酷い行為をしたので、刑務所で更生し、より良き人になったらまた世の中で生きていい」と考えるのだ。そうしたほうが、社会が平和で生産的な方向へ向かうからである。

だが、日本人の精神性には、いまだ仇討ち的な考え方が色濃く残っている。見かけは西洋の価値観を取り入れながら、内実はそうではないところに、日本社会の歪(ひず)みのひとつが現れているというべきかもしれない。

無意識の利他性とは逆の、無意識の残虐性である。

■「死刑にしろ」という人に足りないもの

「許せない」気持ちはわかる。しかし、人間は学習し、「許す」ことができる。

前野隆司『ディストピア禍の新・幸福論』(プレジデント社)
前野隆司『ディストピア禍の新・幸福論』(プレジデント社)

人間に埋め込まれたもうひとつの本能――「共感」をより重視しながら、仇討ちよりも調和の方向へと、人類は少しずつ進んできたのである。

わたしは後者の可能性を信じたいと思う。

いずれにせよ、立ち戻るべきは「死んだらなにもなくなる」という客観的事実である。報復しようが死刑にしようが、いずれわたしたちはみな、この世から消えてなくなる。

いずれ消えてなくなる命なら、なるべく早く憎しみと報復の連鎖を断ち切ったほうが、続く世代の人間は平和に生きられるのではないか。

本能に駆られて「死刑にしろ」と叫ぶ人は、死についての総合的・包括的な思索が不足していると考えられないだろうか。また、自分の生に対する総合的・包括的な思索も不十分というべきではないだろうか。

----------

前野 隆司(まえの・たかし)
慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授
1962年山口県生まれ。84年東京工業大学工学部機械工学科卒業、86年東京工業大学理工学研究科機械工学専攻修士課程修了、同年キヤノン株式会社入社。慶應義塾大学理工学部教授、ハーバード大学客員教授等などを経て、2008年慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント(SDM)研究科教授。11年同研究科委員長兼任。17年より慶應義塾大学ウェルビーイングリサーチセンター長兼任。研究領域は、ヒューマンロボットインタラクション、認知心理学・脳科学、など。『脳はなぜ「心」を作ったのか』『錯覚する脳』(ともに、ちくま文庫)、『幸せのメカニズム 実践・幸福学入門』(講談社現代新書)など著書多数。

----------

(慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授 前野 隆司)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください