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「SNSやネットニュースは人間を不幸にしている」慶大の幸福学者がそう考える残念な理由

プレジデントオンライン / 2022年5月29日 12時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/AntonioGuillem

インターネットの普及は私たちの生活を根本から変えた。それは幸福なことだったのだろうか。慶應義塾大学の前野隆司教授は「すべてのテクノロジーにはいい面と悪い面がある。インターネットもまた、使い方を誤ると危険があることを理解すべきだろう」という――。

※本稿は、前野隆司『ディストピア禍の新・幸福論』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■幸せに生きていくためには、相手の気持ちを想像することが必要

以下は、わたしが遭遇した話だ。

ある会社の上司が、「あの部下は全然仕事をしない。あいつはダメだ。酷い部下だ」と怒っていた。そこで、当の部下に話を聞いてみた。すると、「あの上司はいうことがころころ変わるから結論が出るまで待っている」という。

このように、それぞれが自分の立場だけで状況を見ているから、いつまでもすれ違うことになる。恋愛も、国家間紛争も同じだ。

そうではなく、いったん相手の立場を想像し、実際に対話してみれば、「なんだ、そうだったのか」というような理由が互いにあることがわかってくる。

「部下はいまなにを考えているのか」「上司はいまどんな課題やトラブルを抱えているのか」と、相手の考えや気持ちを、感情に振りまわされずに考えられるようになる。

そうして相手の立場を考えられる想像力を活用すればするほど、自分の心に余裕が生まれるだろう。

「嫌な上司や同僚や部下がいる」と多くの人が嘆くが、根っからの悪人などいない。自分にとって「もともと嫌な人」はいないのであって、なにかの理由や背景によってそう見えているだけだ。

相手の気持ちを想像できることが、あなたが人とつながって幸せに生きていくために不可欠なのである。

■人は「欲求」によって世界を見る

他者の立場に立ち、他者を理解するとは、他者の「欲求」を想像することともいえる。

わたしたちは、それぞれの欲求によって世界を見ている面がある。水を飲みたければ水を飲み、お金持ちになりたければお金持ちを目指すだろう。

人は自分の欲求のフレームで世界を見ていて、そんな欲求のフレームが世界には数限りなく存在する。

すべての人がすべての人の欲求を想像し、それぞれの欲求をともに満たすにはどうすればいいかを考え、対話し、合意を得ることができれば、みんなが幸せな社会をつくることができる。

■だから民主主義は難しい

人間はむかし、民主主義というシステムをつくり上げた。すべての人の欲求や意見を尊重し、社会としての合意を形成するために、話し合ったり多数決をしたりして物事を決めることにしたのである。同時に、法という“飴と鞭のシステム”を設定した。良いことをした人は表彰し、悪いことをした者には罰を与えるために。

だが、民主主義は難しい。

なぜなら、多数決に従うと、同じ欲求を持つ者の数が多いほうが優勢になり、少数者の意見が顧みられなくなるからである。加えて、選挙(とりわけ直接選挙)は人気投票の面が強くなりがちである。

結果として人間はこれまで何度も独裁的な人物を代表者に選び、そのたびに大きな代償を払ってきた。

■「ルールを守らない奴は悪人」という思考停止

しかも、飴と鞭のシステムでルール化すればするほど、人間は自分の頭で物事を考えなくなっていく。

もちろん、みんなで幸せな社会をつくるための最低限のルールは必要だが、ルールを階層化・精緻化し過ぎると、人はロボットのようにルールに従って生きていればいいだけになっていく。

コロナ禍の日本では、夜間外出などに対して罰を科せられるかどうかという議論があった。当初、若い世代に「仕方ない」「あってもいい」という意見が多く見られたのは意外だった。

もしかしたら、自分で考えるよりも、誰かに強制的に抑制されたほうが楽だという傾向が強まりつつあるのかもしれない。

だが、厳しい言い方をすれば、ただそのままルールに従うことはなにも考えていないに等しい。

大局観なく、どこかの誰かが決めたルールに従うことを強要する社会をつくってきた結果、「ルールを守らない奴は悪人だ」という短絡的な思考をする者が増えてきたとはいえないだろうか。

■インターネットは「なんでもあり」ではない

実際、インターネットの掲示板やSNSを見ると、偏った考え方や短絡的な発言が溢(あふ)れている。SNS上での誹謗(ひぼう)中傷が原因で自殺したり心の病になったりする人が増えており、暴行事件による死傷者も出ている。サイバー空間は危険な世界になりつつある。

スマホのSNSアプリをタップしようとする指
写真=iStock.com/Victollio
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Victollio

世の中に自動車が登場した頃、当然ながら交通事故が多発した。そこで、「このままではいけない」と考えて免許制度をつくり、教育(教習)を受けなければ自動車に乗れないようにした。

実際に被害が多発しているインターネットも同じだ。いまは誰もがインターネットを自由に使っているが、本来はもっと注意深く使うための倫理的な情報リテラシーを共有するべきだろう。

インターネットを使う人は「他人を中傷してはいけない」「感情に任せて攻撃的な投稿をしてはいけない」などのリテラシーを学んで免許証が発行されるくらいのことになってもいいくらいだが、まだそれはない。

「そんなものは自由を制限するからいらない」というのは、「自動車事故が多くても仕方ない」といっているのと変わらない。

■すべてのテクノロジーは諸刃の剣である

もちろん、インターネットやSNSなどのテクノロジーにはポジティブな面もある。SNSがあるから無視されがちな小さな声も積極的に発信できるし、オンラインで他人とつながることが孤独を脱するきっかけになることもあるだろう。

だが、これらのテクノロジーを使うことの弊害も存在する。すべてのテクノロジーにはいい面と悪い面がある。たとえば、原子力が諸刃(もろは)の剣であることをわたしたちは知っている。インターネットもまた、使い方を誤ると危険があることを理解すべきだろう。

SNSを頻繁に見ていると幸福度が下がる、とする研究結果もある。実際のトラブルに巻き込まれなくても、ネットのニュースやSNSの情報を見て、誰かを妬(ねた)んだりストレスを受けたり、場合によっては絶望を感じてしまう人も少なくない。

なんでもルールをつくって縛っていくと思考停止になるし、かといって最低限のリテラシー教育がなければ、自由という名のもとで、人間本来の「戦う本能」や欲望が野放しになる。

■カギになるのは「倫理観」

だから、飴と鞭で統治するのではなく、人々の「倫理観」を育成すべきだ。他者を理解する想像力やリテラシーを育む倫理教育が必要なのではないだろうか。

ここでいう倫理観とは、知識として「いい人になるべき」という規範を教えるのではなく、心から偽りなく「いい人でありたいな」と思うような人を育てるということである。上辺(うわべ)の知識ではなく、心からの実感を伴う体験である。

たとえば、怒りの感情を無理やり抑え込むとストレスになる。抑え込むのではなく、怒りは正義感から出てきたのか、利己心から出てきたのかを十分に吟味したり、その感情が出てきた自分を認め愛(いと)しんだり、どんな行動を取ることがベターか、どんな成長が自分には必要かを冷静にじっくり吟味したりして、論理と感性で理解すべきなのである。

俯瞰(ふかん)的・全体的に自分とまわりを見て、このケースでは怒るべきだったのか怒るべきではなかったのかを、腑(ふ)に落ちたかたちで実感する倫理観である。

■北欧でベーシックインカムの実験が成功したワケ

現在の世界で比較的うまくまわっている自由主義・資本主義のモデルは、北欧型の社会民主主義だろう。

個人が意見を自由に主張しながらも、みんなで高い税金を納めて教育費や医療費の無料化を実現していることには、国民の倫理観が関係しているというべきだろう。

彼ら彼女らは、高い税金が福祉や教育を通して自分たちに還元されることを理解し、国の政策を支持している。高い民度のもと、政府を信頼しているからこそ、高コストの大きな政府で秩序が保たれている。

ウェルビーイングの観点からも、北欧の国々が世界幸福度ランキングでつねに上位に位置することには、もちろん高福祉政策が関係している。

富裕層がより多くの税金を払うルールによって資源が適正に再分配された結果、困ったときの「社会的支援」が充実し、高福祉や医療の充実による「健康寿命」も増進されるなどして、国民の幸福度が高まったのである。

最近ではベーシックインカムの話題も世界中で言及されているが、2年間試験的に導入したフィンランド政府は、「主観的幸福度に効果があった」と結論づけている(Kela「Suomen perustulokokeilun arviointi」)。受給者の勤労意欲が低下することもなく、むしろ他者や政府に対する信頼が増したのだ。

■時代に合った倫理感がない日本

ただし、同じことを日本でやっても、似たような結果にならないかもしれない。「働かざる者食うべからず」ということわざを超え、まず働けない者などの弱者への寛容性を高める必要があるだろう。

制度導入に関する議論はあってもいいが、そもそも制度とマインド(民度、倫理観)は同時進行なのだ。先のフィンランドでは、そもそも他者や政府への信頼や、互いに想像し許し合えるマインドを持った国民が多いからこそ、ベーシックインカム制度もうまく導入できたのである。

日本においても、時代に合致した倫理観の醸成が必要である。知識を身につけるだけではなく、マインドとして腑に落ちたかたちで実感できる、純粋で偽りのない倫理観を育成する必要がある。

■「幸福学」が倫理観醸成に寄与できる

わたしが考える現代社会における倫理観醸成策のひとつは、「サイエンスとしての倫理学」だ。

前野隆司『ディストピア禍の新・幸福論』(プレジデント社)
前野隆司『ディストピア禍の新・幸福論』(プレジデント社)

たとえば、「利他的な人は幸せである」といったような、幸福学のエビデンスがこれに該当する。

従来は、哲学・思想や宗教が倫理観醸成を担っていた。大乗仏教では、一人ひとりが勝手に振る舞うのではなく、みんなの幸せを祈ることを説いた。ほかの宗教も同様である。しかし、宗教を信じる割合が逓減傾向にある現代社会では、「神様・仏様がいうように利他的になろう」では響かない人が増えている。

そこで、「あなたが幸せになるために、利他的になろう」と、幸福学の知見を用いた科学的な倫理学教育をすればいいのではないかという提案である。

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前野 隆司(まえの・たかし)
慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授
1962年山口県生まれ。84年東京工業大学工学部機械工学科卒業、86年東京工業大学理工学研究科機械工学専攻修士課程修了、同年キヤノン株式会社入社。慶應義塾大学理工学部教授、ハーバード大学客員教授等などを経て、2008年慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント(SDM)研究科教授。11年同研究科委員長兼任。17年より慶應義塾大学ウェルビーイングリサーチセンター長兼任。研究領域は、ヒューマンロボットインタラクション、認知心理学・脳科学、など。『脳はなぜ「心」を作ったのか』『錯覚する脳』(ともに、ちくま文庫)、『幸せのメカニズム 実践・幸福学入門』(講談社現代新書)など著書多数。

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(慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授 前野 隆司)

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