「つらい思いをするのは母なら当然だ」産後の母親たちを追い込む"極端な母乳育児推進"の危うさ
プレジデントオンライン / 2022年6月2日 12時15分
■粉ミルクを与えるのが「先進的で合理的」だった1970年代
以前、私が病院に勤務していたとき、妊娠中の女性たちに「赤ちゃんが生まれてから気をつけてほしいこと」などをお話しする機会があり、質疑応答もしていました。ある日、一人の妊婦さんから「私はお腹の中にいる子供が生まれたら、母乳を止める薬を飲んで、粉ミルクだけで育てたいんです。母乳育児をすると胸の形がくずれると聞くし、粉ミルクは栄養たっぷりですから」と言われ、内心「1970年代の考え方? また反対側に揺り戻しがきたの?」と驚いてしまいました。そのときには、すでに粉ミルクよりも母乳がいいと言われていたからです。
粉ミルクは1917年に初めて国内で作られ、以降は改良を重ねながら、たくさんの母子を助けました。一方で母乳育児率は減少していき、第2次ベビーブームの1970年代に、粉ミルクの消費量はピークを迎えます。当時は子供の数が多かったこと、高度経済成長期には新しいものが注目を集めたこと、消費は美徳だと考えられていた時代の名残があったことなどが原因だったのではないでしょうか。赤ちゃんに粉ミルクを与えることは、母乳を与えるよりも先進的で合理的、栄養面でも優れていて、しかも母親の体型をよりよく維持できると思われていたのです。
■母乳には粉ミルクにない利点があり、母親にもメリットがある
ところが、その後、母乳には粉ミルクにない利点が多くあることがわかり、見直されました。母乳には免疫グロブリン、サイトカイン、成長因子といったさまざまな免疫物質が含まれているため、免疫機能が未熟な赤ちゃんにとって感染症予防に役立ちます。その効果は、衛生状態のよくない発展途上国だけでなく、先進国の中産階級においても約3倍も入院のリスクが下がるほど。また母乳は赤ちゃんの消化吸収能力や腎機能に最も適しています。しかも母乳は驚くことにオーダーメイドで、例えば早産児のお母さんの母乳には、早産児が必要とする成分が豊富に含まれているのです。
さらに母乳育児は、母親側にもメリットがあります。乳首に刺激が加えられることでオキシトシンというホルモンが分泌され、子宮の回復が促されるだけでなく、月経の再開を遅らせます。さらに母乳育児中に食事をとりすぎなければ、自然と体重が減少していくでしょう。
前述の女性は、おそらく自分の母親世代の会話から「粉ミルクのほうがいい」と思いこんでしまっていたのだと思います。子供にとっても母親にとっても、母乳育児はメリットが多いと伝えたところ、「母乳もあげようと思う」と話してくれました。
■1990年代後半から「極端な母乳推し」になっている
こうして1970年代に極端な「粉ミルク推し」へと振り切ったあと、母乳のよさが見直され、その反動からか1990年代後半からは反対に極端な「母乳推し」へと振り切っているように私は思います。
1989年、WHOとユニセフは「母乳育児成功のための10か条」という共同声明を発表しました。以降、世界的に母乳育児を推進する世論が高まり、日本でも医師、助産師、栄養士を中心に母乳育児の指導が行われるようになったのです。
この10か条を守って母乳育児普及と推進に取り組んでいる病院や産院を「BFH(ベビーフレンドリーホスピタル)」といいます。母乳育児の正しい知識が普及するのはよいことですが、こうした母乳育児推進に熱心な施設の一部では「もっと授乳をがんばらないと」「夜中にも授乳しないと」などと厳しく指導が行われ、つらい思いをしたというお母さんの話を聞くことがあります。
■ただ「頑張れ」と言うのではなく「支援」が必要
確かに母乳の分泌量を増やすには、プロラクチンというホルモンの値が高い産後すぐから、夜中も含めてたくさん授乳(頻回授乳)をする必要があります。特定の食品を食べることやハーブティーを飲むことなどは効果がないのです。
ただ、産後すぐのお母さんは大きなダメージを負っています。長時間の陣痛や出産で疲れ切っていたり、子宮が収縮するために下腹部痛があったり、産道や会陰の傷が痛かったり、帝王切開だった場合は腹部の傷口につらい思いをしたりと、人それぞれですが、元気いっぱいということは少ないでしょう。
ですから、ただ母乳育児を頑張るよう伝えるのではなく、病院の人員的な問題もありますが、お母さんが授乳しやすいよう医療者や周囲の人が支援することが大事です。例えば授乳時に子供を母親の胸元まで連れていく、適切な授乳姿勢を教える、搾乳の仕方や電動搾乳機の使い方を教える、必要な薬を投与する、などの対応が必要だろうと思います。
■「母乳育児をしないといけない」風潮の問題
周囲の支援があっても、心身ともに可能であっても、母乳育児をするかどうか、どこまで頑張るかは、当事者……つまりお母さんが決めることです。現在「母乳育児をしないといけない」という風潮が広まり、母乳を与えないと周囲の人から「よくない母親」「努力不足の母親」かのように言われたり、はっきり言われないまでもお母さん自身が気にしてしまいがちなことは問題です。
こうした状況下で、2015年には母乳が十分に出ないことに悩む女性に、安全性が確保されていない母乳をインターネット上で売る業者がいることが報道されて問題になりました。毎日新聞の記者が手に入れた「母乳」は、少量の母乳を水で薄め、粉ミルクで補ったものでした。50mlが5000円の価格で、細菌が通常の1000倍混入していたそうです(毎日新聞「<記者の目>偽母乳 ネット販売問題」2015年9月15日)。その後、厚生労働省が、インターネット等で販売される母乳に関する注意喚起を行っています。
安全性が担保されていない母乳を手に入れようとするほど、思い詰めるお母さんもいるのです。どんなに努力したとしても、十分な母乳が出ない女性がいるということは案外知られていません。そして「母としての自覚があれば母乳が出る」、「睡眠時間を削ったり、痛みに耐えたり、つらい思いをしても母なら当然だ」という間違った考えがお母さんたちを追い詰めているのです。
■母乳量が足りないなら、育児用ミルクなどを与えるべき
極端な母乳育児の推進には、もう一つ大きな問題があります。じつは「母乳育児成功のための10か条」の発表以降、「高ナトリウム血症」や「低血糖脳症」の報告が増えたのです(大橋敦他「日本小児科学会雑誌」2013 117(9)p1478-1482)。
母乳量が足りず、赤ちゃんが「脱水」や「高ナトリウム血症」になると、「播種(はしゅ)性血管内凝固症候群」「脳浮腫」「けいれん」「腎不全」「頭蓋内出血」「血栓塞栓症」「低血糖脳症」などの致死的合併症が起こったり、神経学的後遺症が残ったりすることがあります。また、ささいなことで不機嫌になったり(易刺激性)、傾眠や無呼吸発作、低体温などの急性症状が生じたり、発達障害や失明(皮質盲)などの後遺症が残ったりすることも。
ですから医療者は、お母さんの母乳が十分に出ていないときには赤ちゃんの状態を把握し、必要があればただちに早期新生児には水か育児用ミルク、それ以降の子には育児用ミルクを与えるべきです。
ところが、母乳育児を熱心に推進する一部の医療機関では、小児科医の「育児用ミルクを足すように」などという指示が実行されないことがあります。産婦人科の新生児室にいる生まれたばかりの子は常に全身状態をチェックされますが、よく黄疸が出ることがあります。そういった際には、小児科医が光線療法や哺乳量を増やすこと、直接母乳が飲めないなら育児用ミルクを何ml与えるようにと指示を出します。黄疸だけでなく前述のような深刻な状況になる危険性があるからです。しかし10か条を厳格に守ろうとするあまり、母乳以外のものを与えないと、赤ちゃんが危険にさらされてしまうのです。
また母乳は「完全栄養食」と言われがちですが、じつはそうではありません。母乳にはビタミンK、ビタミンD、鉄が多くないので、不足しているようであれば補う必要があります。ビタミンKが不足すると「新生児メレナ」や「新生児出血性疾患」、ビタミンDが不足すると「ビタミンD欠乏症」や「くる病」、鉄分が不足すると「母乳性貧血」などになる危険性があるのです。
■育児用ミルクには「誰かが飲ませられる」メリットがある
では、育児用ミルクはどうでしょうか。じつは粉ミルク・液体ミルクには、母乳で不足しがちな栄養素があらかじめ調整されて入っています。ですから適切な量を与えていれば、何かの栄養素が不足することはありません。
他にも育児用ミルクには、母親がなんらかの理由で母乳を与えられない時でも、誰かが飲ませることができるという大きなメリットがあります。例えば、母乳育児中のお母さんが疲労で授乳できず、冷凍母乳のストックもない時、お父さんや他の家族が育児用ミルクを与えれば、お母さんはゆっくり休めるでしょう。
産後すぐの女性は、ホルモンバランスの変動や睡眠不足、疲労などによって「産後うつ」になり、場合によっては命を失うこともあります。母乳育児に一生懸命になるあまり、お母さんの心身の健康が損なわれないよう気をつける必要があるのです。
■母乳育児か、育児用ミルクを使うかはお母さんが選択すべき︎
母の体調や心理状態、赤ちゃんの全身状態、また社会的な事情や支援の多寡はそれぞれに異なります。だからこそ、母乳育児をするのか、育児用ミルクを使うのかは、それぞれのお母さんが選択すべきです。そして子供にとって育児用ミルクは、最善でなくても必要不可欠なもの、多くの場面で欠かせないものだといえるでしょう。
それなのに、今の産科で育児ミルクの話が出ることが少ないのはなぜでしょうか。「母乳育児に力を入れています」は売りにできますが、「育児用ミルクも躊躇(ちゅうちょ)なく飲ませます」というのは、現代ではよい印象にならないからかもしれません。
近年は、液体ミルクが発売されました。外出先で粉ミルクの調乳ができない時にも、災害時の備蓄にもよいですね。以前、SNSで「災害時こそ、道具の必要がなく衛生的にも優れている母乳がよいのだから、備蓄よりも母乳指導が優先」という意見を見かけました。どちらも同時に行えばいいようですが、まあ正論かもしれません。
■母乳育児にこだわりすぎて母子の健康を損なうのは本末転倒
でも、実際には母乳育児をしたくない、またはできない母子もいます。目の前に育児用ミルクがなくて困っているお母さんと子供がいるとき、その正論は役に立つでしょうか? 粉ミルクだろうと液体ミルクだろうと飲ませるのが一番正しいはずです。そして災害時だけでなく、日常生活で液体ミルクのような便利なものを使うことが非難されるべきではありません。健康な人でも階段ではなくエスカレーターやエレベーターに乗るのと同じく、個人の選択ですから、他人がとやかく口を出すべきではないでしょう。
他にもSNSでは「母乳育児の主役はお母様」という言葉を見たことがあります。しかし「育児」というからには主役は子供であり、母乳は子供が成長するための「一手段」であるだけだと私は考えます。目的は「子供が健やかに育つこと」であって、「母乳だけを飲ませること」ではありません。母乳育児にこだわりすぎて育児用ミルクを忌避し、母子の健康や家族関係を損なっては本末転倒です。ぜひ手段と目的を混同することなく、心身ともにストレスをためないで育児をしてほしいと思います。
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小児科専門医
1971年、東京生まれ。一般小児科、NICU(新生児特定集中治療室)などを経て、現在は東京都内で開業。医療者と非医療者の架け橋となる記事や本を書いていきたいと思っている。『新装版 小児科医ママの「育児の不安」解決BOOK』『小児科医ママとパパのやさしい予防接種BOOK』など著書多数。
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(小児科専門医 森戸 やすみ)
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