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米軍撤退でタリバン支配に逆戻り…アフガニスタンが「国際テロの温床になる」と指摘され続けるワケ

プレジデントオンライン / 2022年6月3日 17時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Oleksii Liskonih

タリバンが実権を取り戻したアフガニスタンは今後どうなっていくのか。中東調査会研究員の青木健太さんは「タリバンは表向きはテロ対策を講じると声高に主張しているが、実際には、テロ組織のアルカイダは現在もアフガニスタンに潜伏しているとみられている。将来、国際テロ組織の策源地となる危険性は否定できない」という――。

※本稿は、青木健太『タリバン台頭』(岩波新書)の一部を再編集したものです。

■タリバンの当面の目標は治安の安定や民心掌握

アメリカがアフガニスタンに軍事介入したのが九・一一事件の反動であったことを踏まえると、今後、アフガニスタンが再び「テロの温床」化するか否かを見極めることが国際社会の平和と安定にとっての鍵である。ターリバーン(タリバン)が実権を掌握したアフガニスタンが、将来、国際テロ組織の策源地となる危険性はどれくらい高いのだろうか。

そもそも、ターリバーンは1990年代に無秩序状態に陥った祖国を救うために生まれた政治運動であった。このため、ターリバーン自らが国外に打って出て、脅威を拡散させる姿は俄かに想像しにくい。2001年以降もターリバーンは、①外国軍の放逐、②イスラーム的統治の実現の2点を、公式目標として堅持してきた。

カーブル陥落を経て国の統治主体の側に立ったターリバーンは、既に目標①を達成しており、今後は目標②の実現に向けて、内部の問題を抱えながらも、邁進すると考えるのが妥当である。その具体的な中身は、治安の安定化、および行政サービスの再開を通じた民心掌握といったことだ。したがって、ターリバーンが思い描く「版図」は、原則的に、アフガニスタン国内に限定されている。

■20以上の国際テロ組織が潜伏するアフガニスタン

しかし、これはあくまでも外側の聴衆向けの説明であり、実際にはターリバーンとAQ(アル゠カーイダ、アルカイダ)は密接な関係を維持してきた。AQ以外にも、合計20以上の国際テロ組織が、アフガニスタンに潜伏していると見積もられている。これら国際テロ組織が、アフガニスタン国内で力を蓄え、他国に危害を及ぼす危険性は決して消失していない。

AQは、ソ連軍のアフガニスタン侵攻中にジハードに参加していたウサーマ・ビン・ラーディンとその同志たちによって1988年に結成された。ビン・ラーディンはソ連軍撤退後の1989年にサウジアラビアに帰国したものの、サウジアラビアは自国の政策に対して批判を強めるビン・ラーディンを国外追放した。

1991年の湾岸戦争に際して、サウジアラビアが、アメリカ軍の駐留を認めたことに反発したのである。これを受けて、ビン・ラーディンはスーダンに渡り、1996年にはアフガニスタンに本格的に拠点を移すことになった。

■アルカイダにとっては世界で唯一残った出撃基地

1996〜2001年までのターリバーンとAQは、互いに得るものがある利益重視の関係にあった。ターリバーンの観点からしてみると、国際社会から国家承認を受けられずに財政が逼迫する状況の中にあって、潤沢な資金と武器を供与してくれるアラブ勢力は歓迎すべき存在であった。

ターリバーンは、ビン・ラーディンに対してカーブル市内に住居を与え、1997年には南部カンダハールでの住居をあつらえた。一方のAQにとっては、サウジアラビアやスーダンから追い出された状況にあって、アフガニスタンが世界で唯一残った出撃基地となっていた。

AQのメンバーは、ターリバーン兵士に対して恒常的に、米、小麦、油、豆、および毛布やガソリンなどの高価な越冬用備品などを供与して歓心を買っていたという。ビン・ラーディンは対ソ連戦を義勇兵として共闘する中で、現地の言葉こそわからないものの、ターリバーンとの付き合い方を熟知していた。ビン・ラーディンはムッラー・ウマルとその側近に対して、手始めに車両を複数台提供するなどした(Linschoten and Kuehn, An Enemy We Created)。

もっとも、AQは、アメリカとヨーロッパを、「二大聖地の守護者」たるサウジアラビアに軍を派遣する「占領者」だと認識しており、欧米に対するジハードを目論んでいた。この点において、AQとターリバーンとの目標認識の間には大きな乖離(かいり)があった。少なくともターリバーンの構成員にとり、サウジアラビアにおける「占領」は重大な関心事項ではなかった。ターリバーンとAQは表面的には友好関係を築いていたが、「真の友人」とはなり得なかった。

1998年8月、AQはタンザニアとケニアのアメリカ大使館に対してテロ攻撃を仕掛け、合計300人近くが死亡する大惨事を引き起こした。これを受けて、アメリカは巡航ミサイル数十発をアフガニスタン東部と南東部にあるAQの訓練キャンプに発射した。

CNNのページ
写真=iStock.com/ollo
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ollo

■タリバン指導部の一部はアルカイダ思想に感化

日に日に、欧米からターリバーンに対する、ビン・ラーディン身柄引き渡し要求は強まった。しかし、ターリバーンにとってビン・ラーディンは客人であり、イスラーム教の観点からも、部族慣習法パシュトゥーン・ワリーの観点からも第三者に引き渡す選択肢は取り得なかった。国際社会におけるターリバーンの孤立は深まっていった。

ムッラー・ウマルをはじめターリバーン指導部の中には、AQ思想に感化され本来の目標認識を越えた「夢」を見る者も現れた。

1998年当時、ターリバーンからの攻勢に抵抗を続けた北部同盟のマスード司令官は、ムッラー・ウマルがある日電話をかけてきて、「われわれの目的は中央アジアを席巻することにある。黙って中央アジアへの道を開けてくれれば一切攻撃はしない」と伝えたという(髙橋博史『破綻の戦略』192頁)。当時のターリバーンは、クレムリンにカリフ制国家の旗を立てることを本気で夢想していたようだ。

九・一一事件の2日前、ジャーナリストを名乗るアラブ人2名が、マスード司令官を自爆攻撃によって暗殺した。ターリバーンとAQは、歩みを一つにして、タイトロープを渡り始めていた。

■禁止されていた自爆攻撃がアフガンで急増した理由

2001年12月にターリバーンが権力の座を追われた後、ターリバーンとAQの関係は、時を置いて徐々に再構築された。

例えば、ターリバーン内部で軍事部門を取り仕切っていたムッラー・ダードゥッラーは、2007年4月に行われ翌5月に配信された「アル゠ジャジーラ放送」のインタビューで、「彼(筆者注:ビン・ラーディン)は、常日頃から我々(筆者注:ターリバーン)と接触している」と述べるとともに、「イラクのムジャーヒディーンは兄弟であり、いつも連絡を取り合っている。我々は同じ目標を共有している」と発言している(Al Jazeera, May 13, 2007)。

こうしたターリバーンとAQとの密接な関係を推し量るうえで興味深い事例は、殉教者作戦(自爆攻撃)のアフガニスタンへの流入である。

アフガニスタンにおいては、1979年のソ連軍侵攻に始まり、1990年代の内戦の時代に至っても、自爆攻撃という手法は一切用いられてこなかった。現代のアフガニスタンで自爆攻撃が使用されるようになったのは、前述のアラブ人テロリストによるマスード司令官の暗殺事案が最初だといわれる。長らくアフガニスタンで禁忌とされた自爆攻撃は、2001年以降、時間の経過とともに増加傾向を見せた。2006年には年間140件以上の自爆攻撃が発生した(Williams, “Suicide Bombings in Afghanistan”)。

燃えている車
写真=iStock.com/mofles
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/mofles

アフガニスタンで自爆攻撃が行われるようになった背景には、イラクからの影響がある。イラクからアフガニスタンに「帰還」した外国人戦闘員は、ターリバーン兵士を訓練し、自爆攻撃はクルアーン(イスラーム教の聖典)によって正当化されると説き、これを推奨した。

■「異教徒を自爆攻撃すれば天国に行ける」

筆者は2012年10月、西部ヘラート州で、パキスタン国内で自爆攻撃要員になるために育成され、のちに洗脳から解けたある若者にインタビューした。

当時まだ年齢は10代だった同人物は、パキスタン西部の街クエッタに連行され、意識が朦朧とする「お茶」を飲まされた後に、異教徒に対して自爆攻撃を行い殉教すれば天国に行けると繰り返し洗脳されたと語った。訓練は1カ月程度のものもあれば、もっと長いものもあったという。教育に当たったのは外国人だったという。

その後、訓練の合間を縫って第三者の仲介があり逃げ出すことに成功し、父親が2カ月かけて元に戻してくれたという。かくして、ターリバーンはAQと表裏一体の関係を維持・拡大し、自爆攻撃も厭わない軍事組織となった。

ターリバーンが自爆攻撃を正当化した論理は、ジハードから説明される。本来、自殺はイスラーム教においても、パシュトゥーン・ワリーにおいても禁じられている。しかし、異教徒が祖国を「占領」する状況に直面し、ジハードが宣せられている中にあっては、何にも代えてジハードに参加しなければならない。

世界第1位の軍事力を誇るアメリカ軍に対して、ターリバーンは自動小銃を抱えるだけのゲリラ兵であり、軍事的劣勢は明らかである。そこで、ターリバーンは、アメリカ軍による空爆や夜襲攻撃への抵抗の手段として、いわば比例原則に基づき、自爆攻撃を採用した。

19世紀に大英帝国軍がアフガニスタンに攻め入り、アフガニスタン人を不当に拘束したことに対して、アフガニスタン人は外国人とその家族の誘拐によって対抗した。ジハードとバダル(復讐)の考えが、この背景にはあった。

もっとも、その正当化の論理がどのようなものであれ、ターリバーンが攻勢を仕掛ける過程では、彼らが掲げる大義とは裏腹に、巻き添え被害により多数の民間人が死傷した。

■「アフガン領土をテロ組織に使わせない」というドーハ合意

このように、ターリバーンとAQは事実上関係を今日まで維持しており、テロの脅威を過小評価することはできない。最近まで、アフガニスタン国内では、イスラーム共和国治安部隊の軍事作戦により、AQの属州「インド亜大陸のAQ」幹部のアブー・モフセン・ミスリー殺害(2020年10月)や、アブー・ムハンマド・タージキー殺害(2021年3月)をはじめ、多数のAQ構成員の殺害が確認されてきた。

AQ構成員の中には対ソ連戦以来、アフガニスタン国内に留まって現地の女性を娶り、現在まで生活を続けているものも少なからずいる。したがって、両者の関係断絶は容易でなく、また根深い問題である。

とはいえ、ターリバーンは2020年2月29日にアメリカと締結したドーハ合意に基づき、国際テロ組織にアフガニスタンの領土を使用させないことを明言している。バイデン大統領就任後の2021年2月16日にターリバーンが発出した「アメリカ国民への公開書簡」には、こうある。

青木健太『タリバン台頭』(岩波新書)
青木健太『タリバン台頭』(岩波新書)

アフガニスタン・イスラーム首長国は、アフガニスタンの領土を他国の安全を脅かすために使わせないことを公約した……(中略)……ドーハ合意締結から1年が経った現在、我々がアメリカ側に求めることはドーハ合意の遵守である。

(Emārat-e Islāmī-e Afghānistān, Sedā-e Jihād, February 16, 2021)

ターリバーンはこれ以外にも、ドーハ合意を遵守する立場を声明において繰り返し主張している。こうした背景には、アメリカ軍の撤退を2021年5月に控える中で、アメリカに合意を反故にさせないようにしたいという思惑もあっただろう。

しかし、ターリバーンによる実権掌握後も、「アフガニスタンの領土を他国に危害を加えるために使用させない」「ドーハ合意を遵守する」「他国の内政に干渉する意図はない」といった発言は、ターリバーン幹部から幾度も述べられてきた。したがって、ターリバーン指導部は、少なくとも表向きは、ドーハ合意遵守を貫くと考えられる。

■表向きはテロ対策を講じると主張しているが…

国連安全保障理事会に提出された2021年7月のモニタリング報告書によれば、AQはアフガニスタン15州で活動を続けており、「インド亜大陸のAQ」はターリバーンの庇護の下で南部カンダハール州、ヘルマンド州、およびニムルーズ州にて活動しているという。

また、同報告書によると、ETIM(東トルキスターン・イスラーム運動)はAQと連携し、数百人の戦闘員を擁しながら、北東部バダフシャーン州や北西部ファーリヤーブ州に潜伏している。同年8月下旬には、AQ幹部が東部ナンガルハール州に戻る様子が、ソーシャルメディア上で流布した。AQは、アフガニスタンに依然として潜伏していると見て間違いない。

ターリバーンは表向きはテロ対策を講じると声高に主張している。しかし、アフガニスタンを国際テロ組織の潜伏地とするようならば、外部者からターリバーンとAQは同一のものだと認定されても弁解の余地はない。アフガニスタンが再び「テロの温床」となるか否かは、ターリバーンが言行を一致させられるか、にかかっている。

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青木 健太(あおき・けんた)
中東調査会 研究員
1979年、東京生まれ。上智大学卒業。英ブラッドフォード大学平和学修士課程修了。2005年からアフガニスタン政府省庁アドバイザー、在アフガニスタン日本国大使館書記官などとして7年間勤務。帰国後、外務省国際情報統括官組織専門分析員、お茶の水女子大学講師を歴任。

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(中東調査会 研究員 青木 健太)

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