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大ヒットを出したのに左遷…「一番搾り」を生んだキリンの天才マーケターの知られざる栄光と挫折

プレジデントオンライン / 2022年5月25日 12時30分

永井隆『キリンを作った男』(プレジデント社)

1980年代末、大ヒットしたアサヒの「スーパードライ」の快進撃を止めるべく、キリンは新商品開発に乗り出す。社内政治や生産現場の反発にあいながら、天才マーケター・前田仁率いる開発チームは、いよいよ社内コンペの日を迎える――(後編/全2回)。

※本稿は、永井隆『キリンを作った男』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■生産現場からの反発

「一番搾り麦汁だけを使うビールを、前田チームが開発している」

そのニュースが駆けめぐると、たちまちキリン社内から反応があった。ただその大半は懐疑的、批判的な反応だった。

「君は、何のためにマーケティング部にいるのか、わかっているのか」

工場長や生産部門の幹部が集まる、全国工場長会議に呼ばれた舟渡知彦は、年輩の工場長からいきなりこう質(ただ)されたという。

「スーパードライに対抗する大型商品を作り、多くのお客様に喜んでもらうためです」

直近まで名古屋工場醸造課に勤務していた舟渡は、すかさずそう反論しようとした。まるでビジネス小説の主人公のように。

だが、現実はそう格好よくはいかない。大先輩の前で、若い舟渡は「はい……」と返事をするのがやっとだった。

すると工場長は勢いづいて語気を荒げた。

「こういう無茶な商品開発をマーケティング部の連中にやらせないために、君を送り込んでいるんだ! 君が率先して生産現場を苦しめてどうするんだ!」

別の工場長が続ける。

「仕込み係は二番搾り麦汁の最後の一滴まで、それこそ搾り取るように採っている。君は去年まで名古屋工場にいたんだから、その苦労がわかるはずだ」

■麦汁の一滴は血の一滴

その工場長の発言は間違いではなかった。ポタッ、ポタッ、としたたり落ちる滴(しずく)だって、年間を通して集めればかなりの量になる。

日本はビールの酒税が高いため、ビール会社の利益は薄い。ビール業界には「麦汁の一滴は血の一滴」という表現があるくらい、麦汁は無駄にしてはならないという考え方が染み込んでいる。「一番搾り」案に、工場が反発するのは当然だった。

工場に比べると、本社の生産部門の役員や幹部の反応は、比較的冷静だった。ただ、前田のプランに理解を示してくれるほどではなかった。

というのも、本社生産部門の役員や幹部はみな、「スーパードライ」の脅威を実感していた。

「思い切った商品を作らなければ、スーパードライを止められない」

という考えが、共通認識として行きわたっていた。

一方、工場は現場しか見えていなかった。いかに効率よく生産するか、1円でも2円でもどうやってコストダウンするか。それが彼らの仕事のすべてだった。商戦の激化や、ライバル社の商品の大ヒットよりも、内側に目が行きがちだった。

舟渡はその温度差に接し、少なからぬ戸惑いを覚えたという。ただ、この時の彼はもう工場の醸造技術者ではない。マーケティング部所属で前田仁の部下という立場だ。

舟渡は前田についていくほかなかった。

■運命の社内コンペ

前田チームの「一番搾り麦汁ビール」と、企画部とマッキンゼー混成チームの新商品。どちらを商品化するかを決める社内コンペが開かれた。

太田恵理子は、この時リサーチャーとして新商品の市場調査を担当していた。複数回実施した消費者調査と、社内テストの結果、前田チーム案の「一番搾り麦汁ビール」が「ぶっちぎりにスコアが高かった」と太田は証言する。

企画部・マッキンゼー混成チームの新商品は「キリン・オーガスト」という名前だった。

カタカナのネーミングから、若者がターゲットなのは明白だった。肝心のビールの中身はドライタイプで、よく言えば「スーパードライ」の大ヒットを受けた手堅い味。悪く言えば独創性に欠けていた。

それでも、デザインは非常にクオリティが高かった。日本広告史に残る超大物デザイナーが手掛けたとも言われている。その点でも、企画部・マッキンゼー混成チームの「本気度」は半端ではなかった。ちなみに広告代理店には博報堂がついていた。

一方の前田チームは、「一番搾り麦汁だけを使った贅沢なビール」を提出。軽快なドライでも、重厚なドイツタイプでもない、「ピュアな味わい」を追求していた。

この時点の名称は「キリン・ジャパン」。デザイナーは「丸井の赤いカード」で名を馳せた佐藤昭夫と、キリンデザイン部の望月寿城が担当。広告代理店は電通だった。

社内コンペが開かれたのは、89年の年末。

「大一番」は前田チームの圧勝に終わる。僅差を予想した人があっけなく感じるほどのワンサイドゲームだった。

■プレミアムビールではスーパードライを止められない

コンペの結果を受け、すぐ経営会議が開かれた。その席上、前田チーム案「キリン・ジャパン」の商品化が正式に決定する。

 

ただ、ここで問題が持ち上がった。

「キリン・ジャパン」は、「ヱビス」のような高価格のプレミアムビールにするという。

一番搾り麦汁だけを使うと大幅なコストアップになる。前田チーム案にはその点で生産現場からの反発があった。

そのため経営会議で、コストが上がる分、商品価格を上げるという判断が下ったのである。

前田は会議に出席していたが、何も言えないまま、翌90年3月にプレミアムビールとして「キリン・ジャパン」を発売することが決定する。

「これでは勝てません。スーパードライを止める大型定番商品を作るのが、僕たちの目的だったはずです!」

会議の結果を持ち帰った前田に、さっそく舟渡が食ってかかった。舟渡は当初、一番搾り案には反発していた。ただ開発を進めるうちに考えを変える。一番搾り麦汁ビールのピュアな味わいに可能性を感じ、むしろ通常価格での販売を訴えていた。

価格の高いプレミアムビールは、販売量が限られる。サントリーの「ザ・プレミアム・モルツ」がプレミアムビール市場を創出するのはずっと先のことだった。

89年の時点では、プレミアムビールはまだ一般の消費者には浸透していなかった。

「ラガー」や「スーパードライ」と同じ通常価格で発売しなければ、大ヒットはない。

「前田さん、僕はこれから中茎さん(啓三郎専務、当時のビール事業本部長)のところに行って直談判してきます!」

そう宣言した舟渡を前田は止めた。

「やめとけ。とにかく、まず落ち着こう」

勝手な行動をとろうとした舟渡に、前田は怒らなかった。舟渡の考えをそのまま受け止め、むしろいつになく優しい眼差しで接していたという。

前田自身も通常価格で売るべきだと思っていた。そうしないと「スーパードライ」に対抗できないのはわかり切っている。だが、この時、前田は39歳。経営会議の決定を覆す力は持っていなかった。

その時、前田のマーケティング部第6チームが入るフロアのドアが静かに開き、大男が入ってきた。

「あっ!」

その男に気づくと、チームのメンバーが一斉に驚きの声を上げた。

その男は背筋をピンと伸ばし、前田のほうにズンズン迫ってくる。やがて前田の前にやってくると、前置きもなく言い放った。

「前田君、今日の経営会議の決定を、君はどう思う?」

この大男こそ、キリン社長の本山英世だった。

■「天皇」への直訴

本山は当時、「キリンの天皇」と呼ばれていた男である。

「社長、実は申し上げたいことがあります」
「そうか。では、二人だけで話そう」

そう言うと本山は踵(きびす)を返して出て行き、やはり背が高くスリムな前田があとに続いた。

「キリンは会議の多い会社」(89年当時の役員談)だったが、この時二人は、空いている部屋で立ち話をしたようだ。

直前に舟渡の「直談判」を止めた前田だったが、期せずして自身が経営トップに直談判することになった。

1925年8月生まれの本山は、この時64歳。ただ、戦争中に、陸軍士官学校で軍事教育を受けていて、柔道で鍛え上げられた体つきで、いつも背筋がピンと伸びていた。

本山と前田には以前から個人的な関係があった。前田の結婚式で仲人を務めたのは、何を隠そう本山である。本山が大阪支店長だった時、総務部に勤めていた前田の妻、泰子が本山の秘書役を担っていた。本山は泰子に「優秀な男と結婚したな」と言って目を細めたという。当時、前田自身も大阪支店に在籍していた。つまり、創設されるマーケ部に、前田を推挙したのは本山だったのだ。

ただ前田は「一番搾り」の開発にあたって、本山との個人的なつながりを利用してはいなかった。

この「直談判」の場でも、純粋に商品としてどうすれば売れるか、という話をした。前田も、そして本山も、会社の命運を左右する局面に、「私的な事情」を持ち込むような人間ではなかった。

開発責任者として「通常価格でなければ、スーパードライを止められません」と、前田はあくまで冷静に訴えた。ただし原価が高い商品は、その分を価格に転嫁しなければ損益分岐点が上昇する。そうなると、より大量に販売しなければならない。

前田仁氏(1998年撮影)
写真提供=キリンホールディングス
前田仁氏(1998年撮影) - 写真提供=キリンホールディングス

逆に言えば、数を売れば、多少原価が高くても採算は取れる。一方で思うように売れず、空振りだった場合、ダメージが大きくなる。

つまり、値上げせず通常価格で売るのは「危険な賭け」だった。

「すべての責任は、私が取ります」

前田は本山の前でそう断言した。ただ、当時39歳の前田に全責任を取れるはずもない。前田はこの時、「キリンの天皇」の前で、自分の覚悟のほどを示したのだった。

■却下されたプレミアム案

二人が話し合っている間、待ち受けるマーケティング部第6チームのフロアに、じりじりした空気が流れる。前田を待つ舟渡たちには、1秒が1時間のようにも感じられていた。

だが実際には10分も経っていなかった。

やがてドアが開き、いつものニヤニヤ笑いを浮かべた前田が入ってくると、いつになく張りのある声で次のように言った。

「通常価格で行くことになった。プレミアム案は却下だ」

それを聞いた舟渡は思わず小躍(こおど)りした。

数日後、本山は再び経営会議を招集すると、みずから議長役を務めてこう発言した。

「新商品の目的はスーパードライを止めることだ。だから通常価格で売ろうと思う。君たちはどう思うか」

どう思うかと聞かれても、「キリンの天皇」に面と向かって反対する者はいない。

この会議には企画畑のドンで、「キリン・オーガスト」開発を画策した「キリンのラスプーチン」も出席していた。彼もまたほかの役員と同じく沈黙を守った。

静寂が議場を包み込んだのを確認すると、本山は言った。

「では、通常価格で決定する」

経営会議が終わり役員会議室を出ようとする本山に、前田は起立して深々と頭を下げた。

前田もこの経営会議に末席で出席していたのだった。本山は前田を一顧だにせず、スタスタと通り過ぎていったという。

■自分の考えを捨てられるリーダー

前田チームの新商品は、プレミアムビールではなく、通常価格で発売することが決まった。しかし、肝心の商品名がまだ決まっていない。

「キリン・ジャパン」という名前を前田は気に入っていた。しかし、社内の評判はいまいちで、消費者調査でも好感度スコアは低かった。

一方、新商品の発売日は目前に迫っていた。「スーパードライ」に対抗する大型商品ゆえ、少しでも売りやすい時期に発売したかった。そこで、花見をはじめ、節目の宴会需要が高まる、春先の3月22日を発売日と決めていた。

もはや時間の余裕はなかった。一刻も早く商品名を決めなければならない。前田はチームのメンバーを帝国ホテルのスイートルームに集めた。

社内のメンバーはもちろん、フリーランスや電通所属のアートディレクター、デザイナーなど、プロジェクトに関係する全員が集結する。

「『キリン・ジャパン』じゃ、ダメですよ。前田さん」

会議の席上、外部のデザイナーがサラッと厳しい意見を言う。前田は特に反論もせず、ニヤニヤして聞いていた。

自分の意見や仮説が否定されても、前田は不快感を態度に表したりしなかった。自分とは違う意見であっても、飄々(ひょうひょう)とした態度で受け入れる。

前田はいつも自分を特別扱いにはしなかった。客観的に見て、自分の意見より周囲の意見のほうが正しいなら、躊躇なく採用する。前田はそういうリーダーだった。

■「一番搾り」が誕生した日

帝国ホテルのスイートルームでは、商品名をめぐって侃々諤々(かんかんがくがく)の議論が続く。有望な案が出るたび、前田は大きめのポストイットに書き、壁にペタペタ貼っていく。

しかし、議論は紛糾に紛糾を重ねる。太陽が沈み、とうとう深夜になったが、そのまま会議は続けられた。

この会議はのちに「暁の会議」と呼ばれることになる。

「このビールの特徴は『一番搾り麦汁だけを使った贅沢なビール』という点にある。だったらストレートに『一番搾り』ではどうだろう」

もはや夜も更け、明け方近くになった頃、誰かがふとそんなことを言った。すると前田がポストイットに「一番搾り」と書き、壁に貼る。

「たしかに『一番搾り』は最大の特徴だ。ただ、製法を名前にしたビールなんて前例がないよ」

寝不足の目をこすりつつ、早速反対意見を言う者がいた。

「『一番搾り』だと、まるで日本酒の名前みたいな印象だな……。たしかそんな名前の日本酒があったと思う」

あくびをかみ殺しながらそう言う者もいた。事実、新潟県新発田市の菊水酒造から、「ふなぐち菊水一番しぼり」という日本酒が販売されてはいた。ただ新商品はあくまでビールである。

否定的な意見ばかりが続いたのち、開発チームで紅一点の福山紫乃がこう言った。

「私は素敵な名前だと思います」

これをきっかけに、「一番搾り」に好意的な意見が続く。帝国ホテルの窓から目を刺すような朝日が差し込む頃には、反対する者もいなくなっていた。

こうして、新製品の名前は「一番搾り」に決まる。

89年の12月、年の瀬の出来事だった。

■突然の左遷と社内の権力闘争

「一番搾り」はヒットし、前田ら開発チームは、当時の本山英世社長から社員表彰(社長賞)を受ける。発売翌年の91年6月のことだった。

前田仁は、この時41歳。働き盛りのサラリーマンが手にした栄光だった。

受賞によって、前田仁の名前はキリン社内で有名になっていく。

しかし、当の前田は「一番搾り」発売直後の90年3月末、急に人事異動の対象になり、ビール事業本部マーケティング部第6チームのリーダーから外された。しかも、異動先は経験のないワイン部門だった。

当時、キリンのワイン事業は規模が小さかった。存在感の薄いワイン部門に、花形のビール新商品開発チームのリーダー前田を異動させる人事は、誰の目にも「左遷」とうつった。

なぜ、前田は左遷されたのか。

当時の事情を知るキリン関係者は、次のように語る。

「社内コンペで前田に敗れた『キリンのラスプーチン』が、前田さんへの嫉妬から人事部を動かし、左遷させたと聞いています」

また別の関係者は、次のように証言する。

「当時、営業部とマーケティング部は険悪な関係だった。そのマーケティング部で頭角を現していた前田さんを、営業部が切ったそうです」

どちらも事情に通じた関係者の証言だが、いずれにしてもはっきりした証拠はない。

ただ、証言からは、キリン社内の権力闘争が見え隠れする。

■「人には旬がある」

一方、前田をかばう動きもあったようだ。のちにキリンの役員を務めた別の関係者は、次のように証言する。

「前田さんは当初、ビール事業本部の外部組織である外食事業開発部に異動するはずでした。

『ビアホール・ハートランド』や『DOMA』『シラノ』など、飲食店舗の開設においても前田さんは手腕を発揮していました。ただ、前田さんの才能がもっとも活きるのはマーケティング、それも新商品の開発であるのは明らかです。

しかも、外食事業開発部に異動すれば、マーケティング部のあるビール事業本部から外に出ることになります。その場合、再びマーケティング部に戻るのは難しくなってしまう。

そうなったら、不世出のマーケター前田仁も一巻の終わりです。

前田さんへの処遇に危機感を覚える役員もいました。ビール事業本部の重鎮だったある役員が、前田さんの外食事業開発部への転出を阻止しようとします。その結果、前田さんはビール事業本部内のワイン部門になんとか留まることができた。

こうした攻防が、おそらくは本人も知らないところで繰り広げられていたのです」

前田にとって痛かったのは、後ろ盾の桑原が「ポスト本山」レースから実質的に外れ、力を失っていたことだった。

ビバレッジ在籍時の前田仁氏。
写真提供=キリンホールディングス
ビバレッジ在籍時の前田仁氏。 - 写真提供=キリンホールディングス

「人には旬がある」

アサビール社長を務めた樋口廣太郎はよくそう言っていた。

当時の前田はまさに「旬の人」だったが、キリンはその前田を外してしまったのである。さらにその後、子会社へと飛ばされてしまう。

戦後のキリン最大のヒット商品「一番搾り」を開発した前田が、マーケティング部に最年少部長として返り咲き、発泡酒の「淡麗」「淡麗グリーンラベル」、第3のビール「のどごし」、缶チューハイ「氷結」といったヒット商品を連発するのは、もう少し先の話になる。

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永井 隆(ながい・たかし)
ジャーナリスト
1958年、群馬県生まれ。明治大学経営学部卒業。東京タイムズ記者を経て、1992年フリーとして独立。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動をおこなう傍ら、テレビ、ラジオのコメンテーターも務める。著書に『サントリー対キリン』『ビール15年戦争』『ビール最終戦争』『人事と出世の方程式』(日本経済新聞出版社)、『国産エコ技術の突破力!』(技術評論社)、『敗れざるサラリーマンたち』(講談社)、『一身上の都合』(SBクリエイティブ)、『現場力』(PHP研究所)などがある。

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(ジャーナリスト 永井 隆)

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