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カネをかければ良いワケじゃない…音楽の殿堂「カーネギーホール」が84億円の改装に大失敗した理由

プレジデントオンライン / 2022年5月28日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/demerzel21

楽器の性能を最高レベルで引き出すための空間=コンサートホールとは、どのような音響科学に基づいて設計・建設されるのか。ニューヨークのシンボル「カーネギーホール」では、84億円をかけて改装したところ、音響が著しく劣化するという「事件」が起きたことがある。音響科学の専門家が徹底調査してわかったカーネギーホールの秘密とは――。

※本稿は、フランソワ・デュボワ『楽器の科学 美しい音色を生み出す「構造」と「しくみ」』(講談社ブルーバックス)の一部を再編集したものです。

■美しい音楽を響かせるコンサートホールの実力

「音楽を聴く」という体験は、録音技術の登場によって大きく変貌しました。それ以前は、それがプロの演奏会であれ、仲間内の腕前の披露の場であれ、必ず演奏者の目の前でじかに耳を傾ける以外に「音楽を聴く」ことは不可能でした。

レコードからCD、そして配信サービスへと、再生の形こそ変化・多様化していますが、現在の私たちの音楽体験の多くは、「録音された演奏」を通じてのものになっています。

しかし、いやそれゆえにこそ、「生で音楽を聴く」機会は貴重かつ重要になっています。クラシックでもロックでもポピュラーミュージックでも、そしてプロかアマチュアかにかかわらず、演奏家たちが奏でる音楽を直接、耳にできるコンサートやライブで体感できる感動や興奮は、音楽の魅力そのものといっても過言ではないでしょう。

そのような場を提供してくれるのが、コンサートホールです。本書で紹介しているさまざまな楽器たちの個性あふれる音色を美しく、そして大きく響かせ、私たち聴衆を楽しませてくれる音響空間です。

楽器の性能を最高レベルで引き出すための空間=コンサートホールとは、どのような音響科学に基づいて設計・建設されるのでしょうか。

ひと口にコンサートホールといっても、その形状からサイズまで、じつにさまざまなものが存在します。上演される形態も、いわゆるオーケストラを配置したクラシックのコンサートから、オペラや舞踊、演劇に各種アーティストのライブまで、きわめて多彩です。

どんな規模のどんな音が鳴らされるのかによって、コンサートホールの音響特性もさまざまに変化しますが、本書では主として、「フルオーケストラから小編成の室内楽までのクラシックのコンサートをおこなう空間」を想定し、室内音響学に関する話を進めていきます。

■音響技術者の知られざる仕事

「優れた音響空間」作りを担当する音響の専門家のことを「音響技術者(音響コンサルタント)」とよびます。

音響技術者は、建物としてのホールそのものを設計する建築家とタッグを組んでホールの設計・建設にあたります。さらに、壁面の音響効果に精通した内装の専門家を加えた三者からなるチームによって、コンサートホールは設計段階から緻密に作り込まれていきます。

カーネギーホール
カーネギーホール(写真=Photo by Chris Lee/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

音響技術者の仕事は、のちほど詳しく説明する残響時間や吸音率といった客観的なデータや物理法則に基づく一方、経験則にも大いに依(よ)るところがあり、きわめて主観的なものでもあります。「客観的でもあり、主観的でもある」とはどういうことでしょうか。

味覚の世界を例に、イメージを膨らませてみましょう。

たとえば、2種類の偉大なワインがあったとします。いずれも歴史があり、長く評価され続けている。そのどちらがより優れているかと訊ねられても、人それぞれに好みが分かれたり、あるいは甲乙つけがたいと評価されたり、結論を得ることはできないでしょう。おそらく、両者は「味が異なる」が、「どちらも優れている」と判断するしかないはずです。これが主観の部分です。

けれども、ワインの性質にも、客観的に評価できる部分があります。たとえば、どんな品種のブドウを使っているかとか、タンニンの量や熟成期間はどれくらいかといったものです。同じ品種のブドウでも、「ある地域の特定の土壌で育ったものにはこんな特徴がある」といった経験的な知識も蓄積されているでしょう。

■音響技術者の「審美眼」

音響についても、同様のことがいえます。

コンサートホールのサイズや形状、使われる天井や壁の材質などの客観的条件だけにとどまらない、演奏家や聴衆の好みによって左右される部分が存在します。

音響技術者の主観とは、それら演奏家や聴衆の好みを経験的に把握しつつ、音響技術者自身の評価基準(それは審美眼、あるいはセンスといってもいいかもしれません)を加えたものです。

このような評価の仕方は、音楽のみならず、文化一般についてもあてはまります。文芸であれ絵画であれ彫刻であれ、あるいは生活様式や作法一般にいたるまで、「A国の文化に比べてB国の文化のほうが優れている」などという絶対的な線引きは存在せず、両者はたんに「異なっている」だけなのです。

本書では、楽器の音色や音の密度、音の伸び方に関して、共鳴胴の容積や形、材質によって変化し、これら各要素の一つ一つが集まって、楽器の音質やサウンドプロジェクション(音響の質)に主観的なキャラクターを与えている、という話をしてきました。

その際、主観的なキャラクターとは、「演奏者の感性によってとらえ方が変化しうる」ものだと指摘しましたが、ここで「音響技術者の仕事がきわめて主観的なものでもある」といっているのは、まさにそのような意味においてです。

人間の感覚や感性そのものが本来、主観的であることから、音響技術者のセンスもまた、主観的にならざるを得ないのです。

■目指すは、聴き心地と居心地の良さ

音響技術者の仕事は、比較的最近になって確立した職業です。

音響設計に関する本格的な研究は、20世紀の初め頃にはじまったといえますが、特に、音響学の専門家で、マサチューセッツ工科大学(MIT)の教授でもあったレオ・ベラネック(1914~2016)の功績が大きく、1954年の著書『Acoustics(音響学)』はこの分野におけるバイブルの一つとされています。

室内音響学は、建築工学とデザイン科学のあいだに位置する学問領域といえます。

コンサートホールに関しては、ステージと客席が向かい合う従来の構造から、ステージを客席が取り囲むタイプが登場したことで、聴衆がオーケストラの中にいるような感覚を味わえるなど、コンサートの楽しみ方が広がりました。そのようなホールの構造を前提にして、作曲・演奏される楽曲も増えています。

音響技術者の目指すところは、聴衆と演奏家(作曲家や指揮者も含む)の双方にとって聴き心地と居心地の良さを実現することにあるのです。

■カーネギーホール改装事件…音響技術者の仕事の難しさ

さて、「聴衆と演奏家の双方にとって聴き心地と居心地の良さを実現する」音響技術者の仕事について詳しくお話しする前に、その難しさを象徴するエピソードを紹介しておきましょう。

音響学の世界ではつとに有名な「カーネギーホール改装事件」です。

カーネギーホールはご存じのとおり、ニューヨークを代表するシンボルの一つにもなっている名ホールで、建築家ウィリアム・タットヒル(1855~1929)によって設計され、1891年5月5日に落成を迎えました。

カーネギーホール
カーネギーホール(写真=Own work/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

初演にはピョートル・チャイコフスキー(1840~1893)自らが演奏し、以降、モーリス・ラヴェル、ジュディー・ガーランド、エディット・ピアフ、ウラディミール・ホロヴィッツ、ユーディ・メニューイン、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ、アイザック・スターン、デューク・エリントン、レイ・チャールズ、マイルス・デイヴィス、ビートルズ……などなど錚々(そうそう)たる面々がステージに立ち続けてきた伝説のホールです。

カーネギーホールがこれほどの名声を得た理由は、その豊かな音響にありました。しかし、1986年5月、5000万ドル(当時のレートで約84億円)もの資金をかけた大規模改装のために、30週間にわたって聴衆に対して扉を閉めたところから、悲劇が始まります。

同年12月、ホールの扉をふたたび開いた夜の演奏会で、その衝撃の事実が発覚しました。なんと、あの素晴らしい音響がひどく劣化していたのです!

■名音響は蘇ったけれど……

それは、アメリカン・バレエ・シアター・オーケストラの首席チェロ奏者だったジョナサン・スピッツが「スキャンダルだ!」とまで表現したほどの変わりようでした。改装以前のホールでも演奏経験のある彼によれば、改装後の音は「奥行きがなくなってボヤけている」というのです。

フランソワ・デュボワ『楽器の科学 美しい音色を生み出す「構造」と「しくみ」』(講談社ブルーバックス)
フランソワ・デュボワ『楽器の科学 美しい音色を生み出す「構造」と「しくみ」』(講談社ブルーバックス)

いったい何が起きたのか?――幾度かの否定を経て、ようやくホール側も重い腰を上げ、音質劣化の原因調査に乗り出しました。改装前の音響を取り戻すための試みの一環として、おもに高い周波数の音を吸収する目的で壁面にパネルを設置したところ、いくらかマシになったようですが、相変わらず以前の名音響にはほど遠いレベルでした。

大改装から9年が経過した1995年、意外なところから事態が動きます。変形してしまったステージを修復するために床板を剥(は)がしてみたところ、驚いたことに2層の異なる木材の下からコンクリート層が出てきたのです。このコンクリート層を取り壊してステージを作り直してみると……、見事に以前の音響が蘇ったのでした!

ところが、この話にはまだ続きがあります。

「コンクリート層を壊したことで、かつての名音響が蘇る!」――各新聞がセンセーショナルに書き立てたのに対し、音響学の泰斗であるレオ・ベラネックは、「ステージ下のコンクリート層は、1962年にはすでに存在していた」と証言したのです。それはすなわち、悪名高き大改装の前から問題のコンクリート層はそこにあった、ということでした。

■コンサートホールに“魔物”がすんでいる

結局のところ、何がどうなって以前の名音響に戻ったのか、明確な説明がつかないまま今日にいたっています。

この逸話だけでも、コンサートホールをめぐる音響科学の複雑さと実地検証の難しさがおわかりいただけるのではないかと思います。たとえプロでも手を焼いてしまう、そんな“魔物”が棲(す)んでいるのが、音響技術者たちが格闘する世界なのです。

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フランソワ・デュボワ(ふらんそわ・でゅぼわ)
マリンバソリスト、作曲家
1962年、フランス生まれ。1994年にレジオン・ヴィオレット金章音楽部門を史上最年少で受章するなど、世界的なマリンバソリスト、作曲家として活躍中。楽器史上初の完全教本『4本マレットのマリンバ』(全3巻/IMD出版)を刊行するなど、卓越した表現力で、作曲、執筆などを通じてマリンバソリストの地位を向上することに大きく貢献。慶應義塾大学で作曲法を指導しはじめたことをきっかけに在日24年目。前著『作曲の科学』では、バリ島でインスパイアされたアルバム『Gunung Kawi』を発表(ハイレゾ対応)した。本書読者のために特典付き最新アルバム『La legende de la foret』を特別公開。『天才音楽家のアート思考』音声配信中。公式ウェブサイト

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(マリンバソリスト、作曲家 フランソワ・デュボワ)

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