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「本当の恐怖は下船後にあった」ダイヤモンド・プリンセス号の乗客・医療者が直面した"日本という病"

プレジデントオンライン / 2022年6月1日 12時15分

2020年2月24日、横浜港の大黒埠頭客船ターミナルに停泊するダイヤモンド・プリンセス号 - 写真=AFP/時事通信フォト

「東日本大震災以来の、とんでもないことが起きている」。2020年1月、横浜を出港した豪華客船、ダイヤモンド・プリンセス号は、未知のウイルスである新型コロナウイルス感染症の船内感染に直面。夢の航海は一転して豪華客船ごと全員隔離の前代未聞の事態に。次々感染が広がり倒れる乗客。苦闘する船員、災害派遣医療チーム(DMAT)。混乱を極める政府・行政の対応。そのとき船内で、本当は何が起きていたのか。重厚な取材にもとづく臨場感あふれる筆致で「真実」を描き切ったノンフィクション『命のクルーズ』から特別公開する──。(第1回/全2回)

※本稿は、高梨ゆき子『命のクルーズ』(講談社)の一部を再編集したものです。

■2月19日水曜日、上陸許可証が届いた

午前中、PCR検査で陰性が確認された乗客の第一陣が下船を始めた。2020年2月5日から14日間にわたった検疫期間を終え、計443人が久しぶりに陸地を踏んだ。続く20日には274人、21日は253人が解放されることになる。

9階の部屋に滞在していたある日本人夫婦の部屋には、前日、ドアの下に紙が差し入れられていた。「下船に関する情報」というタイトルの文書である。

それには下船の手順が書かれてあった。パッキングした荷物に所定の番号が振られた色つきのタグを付け、下船当日朝7時までに部屋の外に出しておく。該当するタグの色や番号がアナウンスされたら客室を出て、エレベーターで4階に降りる。出入り口は船の前方を使う。出発時間は午前10時45分だった。

横浜検疫所長のサイン入りで、「検疫法第5条第1号に基づき本邦に上陸を許可された者であることを証明します」などと書かれた上陸許可証も届けられた。

乗客の下船は21日まで3日間にわたって行われる。第1陣の乗客は、検温などのチェックを受けたあと船を下りた。税関や荷物の発送手続きを終えると用意されたバスに乗り込み、横浜などの駅で解散となった。

自宅に戻ったあとも、電話による健康観察が続くことになる。一応「陰性」の結果が出たとしても、偽陰性の場合もある。実際に、帰宅してから陽性となった人も7人確認されることになった。

■言葉の暴力

そのころ、済生会横浜市東部病院の山崎元靖は、近しい医療関係者のSNSに、ダイヤモンド・プリンセスについて批判的な書き込みが増えていくのを実感していた。

今回対応に当たることになった災害派遣医療チーム「DMAT」について、感染症には素人のDMATがやっているから、感染制御もろくにできていないんじゃないか──という厳しい声が多数上がっていた。

書いた当人は、山崎が、まさにその船内で支援に参加していたとは知らなかったのかもしれないが、それによって山崎は「友情まで引き裂かれたような」心境に陥った。

「最悪のダメージを受けた。やろうと思ってできることと、できないことがあるでしょう。それを度外視した批判がSNSで広まって、自分の親しい友人、知人にまで反応が広がっていった」

船が大黒埠頭(ふとう)に着岸した当初から支援活動に参加した山崎も、内心ではずっと葛藤を抱えていた。えたいの知れない新型ウイルスに、自分自身も感染してしまうのではないか。家族にうつしてしまうのではないか。感染の不安は常につきまとっていた。

それ以上に、自分が出動させたほかの隊員に何かあったらどうなるのか。最悪の場合、死んでしまったりしたら、自分の責任ではないのか──。結局、活動には参加していたわけだが、「行かせてよかったのか」というプレッシャーは常に感じつづけることになった。

■予想以上の精神的ダメージ

山崎は、2月6日と7日の2日間にわたる患者の搬送に加え、船内での支援活動にも8日から9日の1泊2日で参加していた。船内では薬剤班のリーダーとして、2000人もの乗客が求める常用薬を仕分けして、一人一人届けるという重大ミッションの初動を担った。

この経験は山崎に、予想以上の精神的ダメージを与えていた。

「まだわからないことが多かったウイルスに対するこわさも、もちろんある。でも、えたいの知れない新型ウイルスと闘っているということよりも、それ以外のことのほうがつらかった。微生物学的な闘いよりも、社会的、心理的な闘いのほうが、何倍もきつかった」

社会的、心理的な闘い──。それはどういうことなのか。

薬剤班として完全徹夜の作業を終え、疲れきって船を下りた山崎たちを待ち受けていたのは、薬が届かない現状を、メディアを通じて訴える乗客の不安といらだち。それに、乗客の求めにこたえてすばやく薬を届けられないことへの非難──。

否定的な報道の嵐であった。

「いまだに薬が届けられていません!」
「積み込んだ薬はいったいどうなっているんでしょうか?」
「何をやっているのか。早く配布しろ」
「できないとはなにごとか」
「論外だ。ここは先進国なのか」
「アメリカ政府も批判しています」

こうした批判の声も、おそらく支援活動に携わった個々人を攻撃するつもりはなかっただろう。しかし、山崎は、メディアを通じて聞こえてくる非難が、すべて自分に向けられているかのような錯覚にとらわれた。当時の船内の現場を知れば、どう見ても「負け戦」にならざるをえない状況とわかる。冷静に考えて、あの状況で即座にすべての問題解消などできるはずがない。それなのに──。

「なんで俺が、ワイドショーに非難されなきゃいけないんだ」

一睡もせず、薬やリクエストフォームの山と必死で格闘して、それでもやり玉に挙げられる。しかも、日本だけでなく世界各国から厳しい目を向けられる。

「俺は世界中の、70億人から非難されているんじゃないか」

そんな恐怖感を拭(ぬぐ)えなかった。

地震や台風被害といった従来の「災害」では、DMATはいわば「窮地を救ってくれる英雄」的な受け止め方をされることが常である。今回も困っている人たちを支援する活動に変わりはないのに、この逆風はどういうことなのか。

■予想外の「追い打ち」

追い打ちをかけたのが、神戸大学教授の岩田健太郎が2月18日にYouTubeに公開した「告発動画」だった(のち20日になって削除)。

ダイヤモンド・プリンセス号船内の感染管理の杜撰(ずさん)さを指摘したこの動画は瞬く間に拡散し、広く知られるところとなったが、実は、岩田自身は動画のなかで、決してDMATそのものを糾弾(きゅうだん)していたわけではなかった。むしろこんな気遣いも見せていた。

「DMATの人を責める気持ちはさらさらなくて、(中略)それは専門領域の違いでしかない。(中略)リスク下に置かれ、防ぐチャンスを奪い取られてしまっているという状況です」

ただ、それは、感染対策の甘さをストレートに訴える内容のインパクトにかき消されるように、ほとんど伝わらなかった。むしろ影響が大きかったのは、以下の部分かもしれない。

「彼らも医療従事者ですから、帰ったら自分たちの病院で仕事をするわけで、そこから院内感染が広がってしまうわけです。これはもう大変なことで──」

山崎も含め支援に参加した当事者自身が、まさに気にかけていたことでもあった。しかし、医療関係者の間で名の知れた感染症の専門家が、実際に現場に足を踏み入れて、「アフリカや中国に比べてもまったくひどい感染対策だと思いました」と断じたことは、ダイヤモンド・プリンセスの支援に医師や看護師を派遣した病院をはじめ、国内の幅広い医療関係者に、大きな波紋を広げた。

■職を捨てる覚悟で救助に参加

「告発動画」が公開されたのと同じ18日には、DMATとして船内で活動した看護師一人の感染も判明していた。以降、船に職員を派遣する病院はなくなった。

高梨ゆき子『命のクルーズ』(講談社)
高梨ゆき子『命のクルーズ』(講談社)

検疫官の感染などで、かねて船内活動を不安視していた災害派遣精神医療チーム「DPAT」も、この日を契機に撤退を決めた。

DMATは活動の見直しを余儀なくされ、薬剤班など一部が船外に移された。

DMAT事務局は、やむなくすでに支援に参加したことのある同じメンバーに頼み込んで、二度、三度と来てもらったほか、事務局職員が出ずっぱりでカバーし続けるしかなくなった。

たとえば、滋賀県内の病院から参加していた松原峰生は、2月22日までのつもりでいたのを1週間延長した。延長は所属する病院から決して快く認められたわけではなく、「辞める覚悟」の決断であったという。

■2月20日木曜日、隔離病棟の朝

乗客だった石原美佐子(仮名)は、ダイヤモンド・プリンセス号を下船し、夫と病院に入院することになった。2人とも陽性だったのだ。

隔離病棟の個室で主に患者の相手をするのはテレビだった。船内にいる間、ほとんど見られなかった日本の番組を自由に見られるようになり、クルーズ船のことや新型コロナのことが国内でしきりに取り上げられているのをようやく実感することができた。

テレビをつけ流していると、アナウンサーがこんなニュースを伝えた。

新型コロナウイルスの集団感染が確認されたクルーズ船の乗客で、日本人の80代の男女2人が20日、死亡しました。クルーズ船の乗客乗員で新型コロナウイルスの感染者が死亡したのははじめてです。

パクパク、パクパク──。心臓が高鳴った。それでも、気づけば目が離せなくなる。血圧が急上昇する。

この日は、船内に派遣された厚労省と内閣官房の職員計2人の感染も新たに確認されたことが報じられた。

「テレビは見ないほうがいいですよ」

看護師に勧められ、テレビからの情報はシャットアウトすることにした。

静かになると船での隔離生活が思い出され、これからのことも気になって、夜眠れなくなった。ひとりで考えごとをしていると、うつ病になってしまいそうだった。

看護師に頼み、売店でおもしろそうな本をみつくろって買ってきてもらう。それを片端から読んだ。娘にも適当な文庫本を送ってもらった。病室の窓際にずらりと並ぶほどの本。ほとんどが、読みはじめれば夢中になれるようなミステリーだった。不思議と、あとになって何を読んでいたのかまったく思い出せない。

■下船後の乗客が送った「孤独な入院生活」

1カ月近くにわたる孤独な入院生活を支えてくれたのは、隣室の夫の存在と、看護師との交流だった。

朝になると、夫がいる隣の病室からカーテンを引く音が聞こえる。姿は見えないけれど、それが目覚めの合図だ。すぐにスマホで電話をかけて、「おはよう」とあいさつするのが日課になっていた。

看護師たちは手厚く寄り添ってくれた。退院しても、この病院にはあらためてお礼を言いに来たいと思うほどだ。感染が各地に広がる前で、医療従事者にも余裕があった。

美佐子には特に症状がなく、薬を飲むこともなかったから、体温、酸素飽和度といった体調の管理や検査のほかは、食事を運んだり部屋の掃除をしたり、日常の世話が主になる。看護師はそのたびに個人防護具を着けてやってきて、必ず何か話しかけてくれた。

「大丈夫? 寝られましたか?」
「退屈しちゃって大変でしょう?」
「少し運動したほうがいいですよ。その場で足踏みするだけでも、結構いいから」
「この辺りには温泉施設があって、みんな車で遊びに来るんですよ」
「クルーズ船ってどんな感じ? 乗ったことないから教えて」
「私も去年のいまごろ、ほかの感染症にかかってここに入院していたんです。大丈夫。元気になりますよ」
「今度、新しい担当者が来るけど、いい人だから安心してくださいね」

自宅から手作りの生ジュースを持って来て、差し入れてくれた看護師もいた。

「これ飲んだら元気になるから」

ブルーベリーやヨーグルトが入っていて、口にするとほんのり甘ずっぱかった。隔離生活のなかで、とても貴重なほかの人との接点。ふだんなら何でもないやりとりが救いになった。

■初の死亡者

神奈川県庁の対策本部にも、感染した乗客に初の死亡者が出たというニュースが流れた。搬送調整の助っ人に入っていた山崎元靖は、テレビ画面にくぎ付けになった。

「自分たちが入院先を調整した患者さんかもしれない……」

実際そうかどうかは定かでない。それでも、ざわつく心を鎮めるのに時間がかかった。

2月9日に船を下りてから山崎は病院勤務に戻ったものの、合間を見ては県庁の対策本部に顔を出し、陽性が判明した人を入院先に振り分けるチームに加わっていた。

重症者のための病床には限りがある。患者をトリアージして、受け入れる病院のなかから、重症治療ができる高度医療機関に運ぶべきかどうか、どの地域かを判断しなければならない。診察どころか顔を見ることさえできないなかで、わずかな情報だけが頼りだ。短時間にすべて完璧にできればいいが、実際それは不可能に近い。

新型コロナウイルス感染症は、軽そうに見えた人が急激に悪化する場合があると、この間の経験から誰もが感じはじめていた。恐ろしい不安定要素を抱えながら、乏しい判断材料をもとに手探りで対応せざるをえなかった。

亡くなった患者は、別の病院なら救うことができただろうか。それはわからない。救急や災害の現場では、瞬時に判断を下さなければならない場面に次から次へと追われるのが常で、躊躇(ちゅうちょ)していては前に進めない。それは宿命でもある。

トリアージは、場合によっては一人の患者の運命を左右する瞬間なのだ。ニュースを聞きながら、山崎はその重みをかみしめていた。ほかの仲間も、同じだったろう。救える命は、必ず救う。救いたい──。そのために、もっとできることはないか。

■うっすらと見えてきた「敵」の正体

関係者はこのころ、判断の指標となる手がかりをつかんでいた。

それは、藤田医科大学の施設にまとめて患者を送りはじめた18日のことである。自衛隊中央病院に続き、患者を「塊(かたまり)で」搬送する話が実行されようとしていた。

藤田医大は名古屋に隣接する愛知県豊明市にあるが、この年4月、岡崎市に新しく藤田医大岡崎医療センターを開院予定で、その建物を、陽性だが症状のない人や濃厚接触者の待機施設として提供した。18日夜に出発した第一陣の陽性者24人とその家族8人の計32人を手はじめに、最終的に100人以上が運ばれることになるが、このうち1割ほどは、岡崎に着くとすぐに肺炎の疑いで別の病院に転送されている。

山崎は、かねて親交のある藤田医大救急総合内科教授の岩田充永から、受け入れ態勢についてあらかじめ相談されていた。

「うちも患者さんを受けることになったんですけど、どうすればいいですかね。岡崎医療センターではまだ診療はできないんですよ」

岡崎医療センターは病院の建物ではあるが、開院前なので厳密に言えばまだ「病院」ではない。のちに一般化するコロナ療養のために自治体が借り上げたホテルのような「宿泊施設」の扱いであり、「入院」と同等の医療を提供できるわけではなかった。

しかも運ばれてくる人たちは、横浜で綿密な診療や検査をしているわけではないから、病状の詳細はわからない。移動しているうちに具合が悪くなるおそれもある。愛知県内ではまだ一人も感染者がいなかっただけに、受け入れ側の緊張感は高まっていた。

ただ、未経験ゆえに実感が伴わない面もあり、岩田自身は内心こんな思いでいた。

「ただの風邪だろ……。騒ぎすぎだよ」

しかし、山崎らは、元気そうな様子から急激に重症化するという見たこともない経過をたどる患者に遭遇してきた。自衛隊中央病院の救急医で一等陸佐の竹島茂人から聞いた最新情報も、それを裏付けるものだった。

「特に症状がなくても、CTを撮ると肺炎になっている患者さんが結構いるんですよ」

■救急医が発見した「酸素飽和度」という指標

自衛隊中央病院は、15日から受け入れた多くの感染者に胸部のCT撮影をしていた。一般患者と動線を分けるために使った救急の入り口付近に、たまたまCT検査室があったという事情もある。その結果、これといった自覚症状はなく、見た目には元気そうでも、実は肺炎が進んでいる例が少なくないとわかってきた。

当時はまだ、新型コロナウイルス感染症の臨床経過は不明なことが多く、貴重な情報だった。すぐにでも実戦に活用しない手はない。岩田に事情を説明し、山崎は提案した。

「酸素飽和度を測って、悪くなりそうな人を見分ける指標に使ったらいいんじゃないか」

船内や岡崎医療センターで画像検査はできないが、酸素飽和度ならどこでも簡単に測れる。指先に挟むだけの小型の医療機器・パルスオキシメーターを使えば、動脈中に流れる血液の酸素濃度を推定でき、肺の機能がどの程度か調べられる。数値が93以下だと呼吸不全の疑いがあると判断できるのだ。

パルスオキシメーターの使用場面
写真=iStock.com/DisobeyArt
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/DisobeyArt

「決めちゃいましょう、岩田先生。岡崎に着いたら全員、サチュレーション(酸素飽和度)を測って94より下だったら、目立った症状がなかったとしても問答無用で病院に送るってことで」

山崎は、岩田と現場同士の判断でそう決めた。そこは救急医ならではのあうんの呼吸だった。ことは急を要する。とにかく、できることからやるしかないのだ。

■「何をしても悪くとられる…」

第一陣が到着した19日未明、岩田は酸素飽和度94%を下回った4人は、見た目に元気そうでも病院へ回した。一人は酸素飽和度70%だったが、まったく自覚症状はなかった。転院先での画像検査で、全員の肺炎が確認された。

「何もせずにそのまま宿泊施設に入れていたら、朝までに急激に悪化して、手遅れになって助けられなかった人もいたかもしれない」

山崎は胸をなでおろした。

ところが、それがのちに「無症状が条件だったのに重症患者を紛れ込ませた」などと、一部でネガティブな受け取り方をされることになる。

「いいことをしたのかよくないことをしたのかわからない。何をしても悪くとられてしまう。仕方ないけど、やるせない」

そんなことを思いながら、山崎は活動を続けた。

(後編に続く)

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高梨 ゆき子(たかなし・ゆきこ)
読売新聞論説委員
読売新聞論説委員。1992年、お茶の水女子大学卒業後、読売新聞社入社。山形支局、東京本社社会部、医療部などに勤務。編集委員を経て現職。群馬大学病院の腹腔鏡手術を巡る一連のスクープにより2015年度新聞協会賞受賞。2017年刊行の『大学病院の奈落』(講談社)で日本医学ジャーナリスト協会賞特別賞受賞。

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(読売新聞論説委員 高梨 ゆき子)

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