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「鉄砲に対して丸太棒で応戦」中央集権国家・琉球王国が薩摩軍の侵攻に大敗を喫したワケ

プレジデントオンライン / 2022年6月1日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ColobusYeti

沖縄は、かつては日本や中国・明と交易する「琉球王国」であり独自の文化が発展した。志學館大学の原口泉教授は「琉球には弓や矢といった武器がなく、『ノロ』という女神の祈願が戦う術だった。そのため鹿児島藩(薩摩藩)の琉球侵攻では大敗を喫することになった」という――。

※本稿は、原口泉『日本人として知っておきたい琉球・沖縄史』(PHP新書)の一部を再編集したものです。

■琉球貿易の利権と奄美大島の領有を狙う鹿児島藩

1592年と1597年に、日本の関白豊臣秀吉は朝鮮に侵攻した。1591年、島津家第16代当主の島津義久は、秀吉の命令と称して、尚寧王に7000人の10カ月分の兵粮米を供出することを求めた。当時琉球は経済的な余裕がなく、その半分しか納めなかった。

島津氏の要求の背景に、秀吉との戦いや朝鮮出兵などで多大な軍役負担を強いられていたことがあげられる。島津氏は財政の立て直しのために、琉球を支配下に入れて琉球貿易の利権を得ようとしていたのだ。さらに島津氏は、当初兵粮米をなかなか納めなかった琉球に対し、奄美大島の割譲も要求した。奄美大島の領有も目論んでいたのである。

■琉球王国は最後通牒に応じず、1609年に侵攻開始

1603年に江戸幕府が開設された。その前年に、仙台藩領内に琉球船が漂着したが、幕府の指示により、手厚い保護を受けて翌年琉球に送還された。その後鹿児島藩は琉球に対し、徳川家康への謝恩使の派遣を繰り返し要求したが、王府はこれを拒絶した。琉球王国は明との関係を第一に考えており、これ以上日本の影響力が大きくなるのを恐れたのである。しかしこの拒絶は、島津氏が琉球を侵攻するための格好の口実となった。

鹿児島藩による琉球侵攻は、明の冊封使の来琉(1606年)により一時見送られていたが、その3年後の1609年、島津氏は「家康に出兵の許可を得た。使節を派遣すれば、出兵は行わない」とする最後通牒をつきつけた。秀吉・家康によって北進の道を阻まれた戦国の雄、島津氏の牙が南に向けられたのである。琉球王国はこの最後通牒に応じず、戦端が開かれた。

■明の使者が警告するも「恐れるに足りない」

1606年に来琉した冊封正使の夏子陽は、倭人(薩摩軍)の侵攻に備えるべきだと説いた。ところが、法司等官(三司官)の答えに夏子陽は愕然とする。「この事(侵攻)の噂は数年前からあって未だはっきりしていない。琉球の国には霊神があって頼りになるから、恐れるに足りない」

夏子陽は説いた。「倭は残忍でどん欲な心を持っている。軍備を強化しなければならない」。夏子陽は鉄匠を連れてきて武器を作らせ、防御を固めた。倭が来れば、固い備えがあるので、戦意を消失するであろうと言い残して帰国した。文禄・慶長の役(1592~93、1597~98年)で、豊臣秀吉の唐入り軍と4年間も戦ってきた明国からすれば、王国の危機意識の薄さを心配したのであろう。

夏子陽は、琉球は神威が支配する社会であると見抜いている。また『使琉球録』の中で、自分の考えに「夷人(琉球人)」が深く感銘して予防策を取ったと明皇帝に復命したことを記している。

この77年後(1683年)に来琉した尚貞王の冊封正使の汪楫の『使琉球雑録』にも、同様の記述がある。「琉球では弁才天という六臂の女神の霊異が特に著しく、皆が祀り敬っている。かつての明の使節(夏子陽)が国に城郭がなく、兵甲が少ない状態で外侮をどうやって防ぐのか? と尋ねると、女神がいるから大丈夫だと答えたが、その後、倭が忽ち攻めてきて殺掠甚だしく、王と王相を(人質に)取って連れ去ること久しい」。

沖縄
写真=iStock.com/kn1
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kn1

■弓や矢という名前さえ知らず、戦う術はノロの祈願

しかし、王府も警戒はしていた。『喜安日記』によると「去冬(侵攻の前年)徳之島へ与那原親雲上を派遣した(親雲上は位階の一つ。以前の位階である「大屋子もい」が転じたもの。なお、琉球王国ではペーチンあるいはペークミーと呼んだ)。しかし生け捕られてしまった」とある。与那原は「御立願の御使」であった。

薩摩軍側の従軍日記「琉球渡海日々記」に、徳之島深山の山狩りで、薩摩の隊長(「琉球入番衆主取」)が、「余儀無き人」をからめとったところ、三司官のうち謝名(じゃな)の婿(むこ)で、黄鉢巻の位を持つ人であったと記している。

『喜安日記』には、「昔よりこの国は、弓箭(弓と矢)という名をだも聞かず、夢にも知らざる」とあり、ノロ(神女)の祈願が琉球の戦う術であったことがわかる。

■沖永良部島の「馬鹿島」で起きた粟ガユの戦い

沖永良部島の正名(まさな)集落はかつて「バーシマ(馬鹿島)」と呼ばれていた。当時は隆起サンゴ礁の台地上のため暗河(くらごう)のある水源地の住吉に水を貰いに行っていたのだが、不名誉な呼び名が定着してしまったのは水不足の土地であったからとも思われる。そのため、明治31(1898)年に農商務次官に就任し、農業振興に生涯を捧げた前田正名(まさな)にあやかろうとして村名を変えたのだ。なお、現在の正名集落は、奄美一番の高収益の農業経営で表彰されている。

村名の由来については、水不足であったということ以外に、もう一つの説が伝えられている。それは琉球侵攻の戦いにまつわる笑い話である。正名集落の者が、攻めのぼってくる薩軍の足を熱い粟ガユでただれさせようとしたところ、かえって薩軍の食べ物になってしまったという。粟ガユは、悪霊払いの霊力を持つと信じられていたノロたちの呪術であったのであろう(『名瀬市誌』)。

■海賊として活躍した奄美島人も刀狩りで無力化

また徳之島秋徳の戦いで、掟大八兄弟は丸太棒で戦ったが鉄砲には無力であった。奄美大島と徳之島での激戦を聞いた沖永良部と与論の世の主は、戦わずして降参するしかなかった。

「得能氏記録・琉球征伐記」は徳之島の激戦を記録している。「島民厳ク拒キ戦フ、薩軍コレト戦ヒ、数百人ヲ討殺シケレバ、島人大ニ恐レテ皆従服ス、永良部島ノ者トモハ薩軍ノ威風ヲ聞ケルニヤ、薩軍着船スルト等ク、草ノ風ニ偃カ如ク従ヒケリ」という手柄話である。

総大将樺山久高も斬首数百(三百余人)としている。この樺山が沖永良部島で、「一戦にも及ばず馬鹿者共」と言ったと「琉球入ノ記」は記している(『薩藩旧記雑録』後編四)。講談調の脚色があり、疑わしい部分もあるが、一面の事実は伝えていると思われる。樺山家では後世、戦没者の供養を続けている。

長徳3(997)年の何年か前、南蛮人(奄美島人)が大宰府管内の諸国を襲撃し大隅国人400人が略奪された(『日本紀略』、『小右記』、『権記』)。古代・中世の奄美人が勇猛な武者海賊であったことを鑑みれば、その後の尚真王の中央集権化のための武装解除(刀狩り)が、いかに徹底したものであったかが窺える。かつて奄美人が九州を攻撃していた時代と、薩軍の侵攻を受けた時代には大きな隔たりがあるのだ。

一方で、薩軍の戦死者はわずかであった。「味方ハ多くも亡び申さず候。やうやく雑兵一、二百人ほども戦死仕候由」と「惟新公御文抜書」は記している(『旧記雑録』後編四。惟新公は島津義弘を指す)。

■薩摩軍の捕虜となった琉球王国の官僚

徳之島で捕虜になった、琉球から派遣された貴人がいたのだが、その義父は三司官謝名親方鄭迥(じゃなウェーカタていどう)であった。薩摩に抵抗した謝名親方の最期は壮絶であった。

原口泉『日本人として知っておきたい琉球・沖縄史』(PHP新書)
原口泉『日本人として知っておきたい琉球・沖縄史』(PHP新書)

謝名は「閩人(びんじん)三十六姓」の一族で、外交・貿易業務を担う集団である久米村(クニンダ)の中から選ばれて三司官になった官僚であった。尚寧王(在位1589~1620)のときには三十六姓も六姓になっていたので、夏子陽は改めて2人に賜姓して梃子入れした。

外交・貿易は琉球の存立基盤であるため、久米村のトップは「王相」という王府長官になった。謝名もまた然りである。朝貢関係の官吏である謝名親方が、大和の要求を拒絶し続けたのは当然だ。島津氏の外交僧である大慈寺の龍雲や広済寺の雪岑(せつぎん)、坊津の商人鳥原宗安の度重なる交渉――徳川氏への聘礼と日明国交回復の仲介――も奏功しなかった。

■最期は釜茹での刑ではなく斬首刑だった

鹿児島で忠誠を誓う起請文提出を拒否した謝名は、釜茹での刑に処せられたが、道連れに薩摩役人を引き込んだという。しかし『喜安日記』によれば、釜茹での刑は誤伝である。『喜安日記』には、「(1611年)9月16日申時計、首を刎ねられけるとぞ聞えける」とある。

謝名は斬首刑であったが、大正9(1920)年の後日談が琉球館跡にある(現在は鹿児島市立長田中学校が建てられている)。琉球人の亡霊の噂がある所から、首無し遺骨33体が発見されたのだ。その中に謝名の遺骨も混じっていたかもしれない。供養をしたら、亡霊の噂も消えたという。

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原口 泉(はらぐち・いずみ)
志學館大学教授
1947年、鹿児島県生まれ。東京大学文学部国史学科卒。同大学大学院修士課程修了、博士課程単位取得。鹿児島大学法文学部教授を経て、同大学名誉教授、志學館大学教授、鹿児島県立図書館館長。専門は日本近世・近代史、薩摩藩の歴史。NHK大河ドラマ「翔ぶが如く」「琉球の風」「篤姫」「西郷(せご)どん」の時代考証を担当。著書に『世界危機をチャンスに変えた幕末維新の知恵』(PHP新書)、『龍馬を超えた男 小松帯刀』(グラフ社)ほか多数。

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(志學館大学教授 原口 泉)

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