「片っ端から捕まえて収容所送り」「餓死者の肉が市場で売られる」日本人が知らない悲劇のウクライナ史
プレジデントオンライン / 2022年6月1日 11時15分
■ウクライナは100の民族が住んでいる多民族国家
ロシアが一方的にウクライナに侵攻してから3カ月が過ぎました。なぜ停戦の合意ができないのか。その理由を知るために、ウクライナという国の複雑な歴史と、ロシアとの関わりをたどってみましょう。ここには地政学、言語、宗教、教育、経済などの要素が絡み合っているので、ほかの地域における紛争や民族対立を理解する手助けにもなります。
スラブ語で「クライ」とは「囲い」のことで、「ウ」は「傍」です。「ウクライナ」という言葉は、「国」あるいは、「地方」や「田舎」という意味なのです。この国は東部と西部で、成り立ちがまったく違います。言葉も宗教も住んでいる人たちのアイデンティティーも、まるで異なっているのです。
国土の半分は平野ですが、西へ行くほど山岳地帯です。ヨーロッパに近い西側ほど豊かなイメージがありますが、実際は逆なのです。ロシアが執拗(しつよう)に手に入れようとしたマリウポリを含むドネツク州など、東部が経済の中心です。
クリミアを除く人口は、4159万人(2021年:ウクライナ国家統計局)。民族の内訳は、ウクライナ人77.8%、ロシア人17.3%、ベラルーシ人0.6%。そのほかモルドバ人、クリミア・タタール人、ユダヤ人などとなっていて(2001年国勢調査)、だいたい100の民族が住んでいます。
■同じ歴史でも、ウクライナとロシアでこうも解釈が違う
882年、現在のウクライナを中心に、キエフ・ルーシ(キエフ大公国)という大国が建てられました。ロシア、ウクライナ、ベラルーシの元になった国です。
広大な国でしたが、小さな公国に分裂して争うようになります。その一つに、モスクワ公国がありました。キエフ・ルーシはモンゴル・タタールに攻められ、1240年に首都のキーウが落城します。その後、モスクワ公国が発展してロシア帝国に至った。というのが、ロシア人にとってのロシア史です。その歴史観では、ウクライナの大部分の領域は一貫してロシアなのです。
キエフ・ルーシが滅亡した際、キーウの西に当たるガリツィア地方のリヴィウへ移って建てられたガリツィア公国こそ、キエフ・ルーシの正統を継いだ国である。こちらは、現在のウクライナ政権の歴史観です。
ガリツィア公国は14世紀に、西側のポーランド王国に編入されます。18世紀からオーストリア・ハンガリー帝国の領土となり、第1次大戦後はポーランド領に戻ります。第2次世界大戦が終わってソ連に組み込まれるまで、ロシアの支配を受けたことがない地域なのです。
■「自分がウクライナ人かロシア人か考えることもなかった」理由
次に、言語について述べましょう。ロシアに編入された東部地域でウクライナ語が禁止され、ロシア語が強制されたのは19世紀。帝政ロシアが支配するすべての領域でロシア化政策を進めたためでした。出版物も学校教育も、ロシア語だけに制限されたのです。
民族という概念や自己意識が、まだ希薄だった時代です。よりよい職や収入を得るために、進んでロシア語を覚えようとするのは当然だったでしょう。以来100年以上が過ぎ、ウクライナ東部に住む住民のほとんどはロシア語を使うようになり、ウクライナ語は忘れられていきます。東部に住む人たちの多くは、日常生活において、自分がウクライナ人かロシア人かと考える必要に迫られませんでした。
西のガリツィア地方を支配するオーストリア・ハンガリー帝国は、各地の文化や自治を重視する方針で、多言語政策でした。ドイツ語やハンガリー語だけでなく、ポーランド語もチェコ語も、そしてウクライナ語も自由に使われていました。
この地域に住むウクライナ人は、自分たちはキエフ・ルーシという伝統ある国の正しい後継である。大国のロシアとポーランドに挟まれているせいで独立を果たせずにいるが、独自の民族であるという歴史観を培ってきたのです。
■宗教でも、ウクライナはロシアから独立
宗教はどうでしょうか。ウクライナでは、クリスマスが2回あります。ローマ・カトリック教会がグレゴリオ暦で祝う12月25日と、正教会がユリウス暦で祝う1月7日です。どちらも、2017年から国民の祝日となりました。このこと一つとっても、ウクライナでは宗教事情も複雑であることがわかります。
988年にキエフ・ルーシのウラジミール公が東方正教の洗礼を受けたことが、この地域におけるキリスト教の始まりです。その後、ロシアでもウクライナでも東方正教が広まっていきます。
1686年に東方正教会の筆頭権威コンスタンチノープル総主教庁が、ウクライナ正教会をモスクワ総主教庁の管轄に属すると決めて以来、ロシア正教会はウクライナ正教会を下部組織と位置付けてきました。しかし、2014年のロシアによるクリミア併合を機に、ウクライナでは正教会独立を求める声が高まり、2018年に大きな動きがありました。
「東方正教会」の筆頭権威であるコンスタンチノープル総主教庁が、「ウクライナ正教会を承認し、同正教会に対するロシア正教会の管轄権を認めない」と決めたのです。事実上の独立が認められたわけです。
しかしロシアは、この決定の背後にNATO(北大西洋条約機構)加盟諸国の意思が働いたと受け止め、強く反発しました。東西冷戦以降、コンスタンチノープル総主教庁は政治的にNATO加盟諸国と価値観を共有しているからです。NATOとロシアの代理戦争が、コンスタンチノープル系の正教会とモスクワ系の正教会の間で展開されたと見ることもできます。
さらに今年5月、モスクワ総主教庁管轄下に残ったウクライナ正教会も、ロシアとの訣別を宣言しました。ウクライナ戦争によって両国の正教会間の対立も深刻になっています。
■「うさんくさくて陰険」片っ端から捕まえて、強制収容所送り
一方、西のガリツィア地方に住む人たちは、今日もカトリックの信徒がかなりいます。その多くはユニエイト教会(東方典礼カトリック教会)といって、やや風変りなカトリックです。
宗教改革に対抗する目的で16世紀に結成されたイエズス会は、東へ勢力を広げ、ポーランドやハンガリーからプロテスタントを駆逐したのち、ウクライナにも入って来ました。改宗を促すために、彼らは融通無碍(むげ)でした。ローマ教皇が一番偉いことと、三位一体の教義において聖霊が父だけでなく「子からも(フィリオクエ)」発出するという教義さえ認めればいいという姿勢で、正教の特徴である「イコン(聖画像)」を拝むことや、下級の聖職者が妻帯することも許したのです。こうして独自の教会が出来上がっていきます。
ソ連はこういった動きを、ソ連の正教会をひっくり返してくる、うさんくさくて陰険なやり方だと考えていました。見た目は正教そっくりなのに内実はカトリックで、指令はローマから来ているからです。ロシア語の「イェズイット」を辞書で引くと「イエズス会士」とある後に「ウソつき、ペテン師」とあります。
第2次世界大戦後の1946年、このユニエイト教会は、「自発的によくよく考えてみたら、自分たちは正教徒だったと思うようになった」と言い始め、ロシア正教会の一部になりますが、これは表向きの話で、実際はソ連の秘密警察の強い圧力による併合です。
言葉も宗教も違うため、ガリツィア地方では武装闘争を含む激しい抵抗運動が起きました。ソ連はKGB(旧ソ連国家保安委員会)と軍隊を送り込み、抵抗する人々を片っ端から捕まえて、次々と殺害するか強制収容所へ送りました。強制労働で短くて7年、長いと25年収容されました。それでも10年以上、反ソ闘争が続きました。この時代に多くのウクライナ人が海外(特にカナダ)に亡命し、ウクライナの民族運動の中心になっていきます。
ソ連崩壊の過程で、このユニエイト教会を再興する運動が展開されました。その後、ウクライナ国内でウクライナ民族主義と結びつき、反ロシア勢力の拠点となったのです。
■肉屋の店先に人肉がぶら下がっている
さて、ソ連の支配下に置かれたウクライナ東部が最大の悲劇に見舞われたのは、1930年代の初頭です。原因は、ソ連によって農業の集団化を強制されたことでした。
ロシアでは古くから農村が共同体で、土地の私有制がありませんでした。したがって、農業集団化が導入されても比較的スムーズに移行できました。ところがウクライナには土地の私有制があり、農民は自分の土地を耕して自活していました。そのため、ウクライナ農民はロシア農民に比べて個人主義的でした。
しかし社会主義体制のソ連では、個人が生産手段を所有することは許されません。土地は国有化され、農具や家畜を供出して国営農場または集団農場で働くことを強制されます。ウクライナでは激しい抵抗やサボタージュが起こり、例えば、集団農場入りが決まると自分の家畜を売ったり食べたりしました。その結果、この時期にウクライナは家畜の半分を失います。
時の最高権力者スターリンはこうした抵抗を、力で抑え込もうとしました。抵抗する者は逮捕してシベリア送りにします。特に、比較的裕福な農民は「農民の中のブルジョワジー」として、土地を取り上げ、収容所に送ったり、処刑したりしました。当然、労働意欲も生産量も低下します。
また、当時、ソ連は工業化を進めていました。都市部の労働者に食料を供給し、機械を輸入するための必要な外貨を稼ぐために、穀物を輸出していましたが、ウクライナが飢餓状態になっても、輸出のために小麦を徹底的に徴発しました。
結果として、ウクライナはあれだけの穀倉地帯であるにもかかわらず、400万人ぐらいの餓死者が出ました。私はモスクワに駐在していた1980年代の終わりに、歴史を見直す『アガニョーク(ともしび)』という雑誌に載った、当時のウクライナの衝撃的な写真を見たことがあります。それは、肉屋の店先に人肉がぶら下がっている写真です。食べるものがなくなったので、飢え死にした人間の肉を、人間が買って食べていたのです。こういう思いをさせられたのは、旧ソ連の中でもウクライナだけです。
この人為的な大飢饉(ききん)は、飢えを意味する「ホロド」という言葉と、疫病を意味する「モール」を合わせて、「ホロドモール」と呼ばれています。現在ウクライナの首都キーウには、「ホロドモール犠牲者追悼国立博物館」が建てられています。
ウクライナ人がロシアの侵攻に対して徹底的な抗戦を続ける背景には、こうした歴史と記憶の蓄積があるのです。次回は、第2次世界大戦から後のウクライナが見舞われた悲劇を振り返ります。
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作家・元外務省主任分析官
1960年、東京都生まれ。85年同志社大学大学院神学研究科修了。2005年に発表した『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)で第59回毎日出版文化賞特別賞受賞。『自壊する帝国』(新潮社)で新潮ドキュメント賞、大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『獄中記』(岩波書店)、『交渉術』(文藝春秋)など著書多数。
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(作家・元外務省主任分析官 佐藤 優 構成=石井謙一郎)
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