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200年前は一般客の参拝不可だった水天宮が、なぜか「安産・子授けの神社」として大人気になったワケ

プレジデントオンライン / 2022年6月8日 13時15分

水天宮 - 写真提供=筆者

東京・日本橋の水天宮に祀られているのは「悲運の幼帝」として知られる安徳天皇だ。なぜそうした神社が「安産・子授け」で有名になったのか。宗教社会学者の岡本亮輔氏は「水天宮は200年前に有馬家の屋敷神として建てられたが、活発な江戸東京の宗教市場に巻き込まれることで人気を集める“はやり神”になった」という――。

■江戸東京の人々が200年愛する「水天宮」

日本橋蛎殻町は、作家の谷崎潤一郎が少年時代を過ごした場所だ。この界隈を舞台にした小説「少年」は出世作となる。そして、この街のシンボルが水天宮である。

1911年に刊行された児玉花外『東京印象記』には、当時の水天宮の雰囲気が活写されている。白木造りの建物を中心とした境内にはチリ1つなく、清潔感が行き渡る。粋で艶めいた男女を集めるいかにも東京らしい神社であるという。

こうした雰囲気は、鎮座200年を機に全体が免震化された現在の境内にも引き継がれている。そして水天宮といえば、子宝や安産の祈願だ。縁起の良い「戌(いぬ)の日」ともなれば、多くの参拝客がつめかける。ここでは宗教市場という観点から、水天宮の流行の背景を探ってみよう。

江戸時代、各地の大名家は参勤交代を課され、本国と江戸の双方で暮らした。そのため、各藩は江戸にも屋敷を構え、それにともない各地の神仏が江戸に集まった。水天宮も、そうした遠国出身の神である。

■参勤交代にともなって久留米からやってきた神様

水天宮の発祥は九州の久留米藩(現在の福岡県久留米市)だ。9代目久留米藩主の有馬頼徳が、1818年、自家で祀っていた水天宮を三田赤羽の上屋敷に分祀した。この屋敷は東京タワーの足下付近にあった。現在、都立三田高校、港区立赤羽小学校、港区保健所などがある界隈だ。2万坪を大きく上回る邸内の一角に、水天宮の分社が建てられた。

「赤羽根向水天宮」
「赤羽根向水天宮」(『江戸の花名勝会』1863年刊を加工して作成/国立国会図書館デジタルアーカイブより)

こうした屋敷神はその家のプライベートな神であり、一般公開は前提としていない。だが江戸時代には、無数の神仏が突然に参拝客を集める「はやり神」現象がたびたび見られた。有馬家の水天宮も江戸庶民の評判を呼び、屋敷の塀越しにお賽銭が投げ込まれるようになる。その結果、日にちを限って、一般開放されるようになったのである。

時代が江戸から明治になると、水天宮も変化する。まず三田から青山に遷され、その後の1872年、有馬家の中屋敷があった現在地に鎮座した。前述の谷崎『少年』の語り手である「私」も通学していた水天宮近くの有馬小学校はその名残である。そして、現在の宮司も有馬家17代目当主が務められている。

■抽象的な最高神よりも悲運の幼帝

ある神仏が流行する理由の1つは、言うまでもなく、そのご利益や霊験にあるだろう。水天宮に祀られるのは、天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)、安徳天皇、建礼門院、二位ノ尼の四柱である。

安徳天皇
安徳天皇(『東錦絵百人一首』/国立国会図書館デジタルアーカイブより)

このうち、天御中主大神は古事記で最初に登場する神々のうちの一柱だ。天地開闢(かいびゃく)に関わる神ともされる。本居宣長や平田篤胤のように、天御中主大神を神々の最高位に位置づける見解もあるが、見方を変えると、最高神であるがゆえに具体性を欠き、日常的なご利益と結びつきにくい神とも言える。

一方、残りの三柱は実在の人物だ。安徳天皇(1178〜1185年)は、歴代天皇の中でもっとも短命な天皇である。平家の滅亡を決定づけた壇ノ浦の戦いで、祖母である二位ノ尼(平時子)に抱えられて海中に身を投じた。現在で言えば6歳くらいである。そして、安徳天皇の母親である建礼門院(平徳子)は生き延び、出家して平家一門と安徳天皇の菩提(ぼだい)を弔ったと伝わる。

「波の下にも都がございます」という祖母の言葉に導かれて入水した安徳天皇の最期は、『平家物語』というメディアを通じて広く流布された。民衆の心に訴えかけるのは、抽象的な最高神より、世の中の道理も分からないまま、幼くして亡くなった悲運の幼帝だろう。こうした由来から、水天宮は、船舶の守護や水難除けの神社として知られるようになる。

■皇室でも使用されたという安産守り「御子守帯」

およそ100年前のパワースポット・ガイドといえる高岡青原『神仏力くらべ』(木下真進堂、1926年)では、水天宮は「江戸第一等の大神」として紹介されている。具体的なご利益としては、梅干しの種を誤飲した子供に水天宮の護符を飲ませたら一緒に出てきた、難病が治癒した、短刀で無理心中を迫られた女性が水天宮のお守りを持っていたために命をとりとめたといった話が流布していたようだ。さらに蛎殻町には東京穀物商品取引所があったため、先物取引などを行う相場師や株屋の崇敬も集めていたという。

蛎殻町周辺地図
蛎殻町周辺地図(永島春暁編『改正東京名所案内』1890年/国立国会図書館デジタルアーカイブより)

しかし、なんといっても水天宮は子授け・安産で知られる。同社ウェブサイトでも、トップページの一番上に登場するのが御子守帯(みすずおび)である。この帯そのものが水天宮の安産守りだ。参拝時に鳴らす鈴から垂れ下がる「鈴の緒」をもらい受けた妊婦が、それを腹巻きにしたところ安産だったという江戸時代の逸話にちなむ。

この独特の安産守りによって、水天宮は江戸東京屈指のはやり神となった。戌の日に特に多くの参詣客が集まり、境内に「子宝いぬ」が設置されているのは、犬のお産は軽く、多産であることによる。『神仏力くらべ』によれば、皇室でも御子守帯が使用されたという。

■“独占企業”がなければ宗教市場は活性化する

水天宮は江戸のはやり神から令和のパワースポットまで、200年にわたって参拝客を集め続けている。ここで注目したいのが、水天宮が置かれる社会経済的環境である。

この点で洞察を与えてくれるのが、R・J・バロー&R・M・マックリアリー『宗教の経済学』(田中健彦訳、2021年/慶應義塾大学出版会)である。同書の議論の前提や分析対象は基本的には欧米キリスト教であるが、現代経済学を駆使したユニークな宗教分析は多くの示唆に富む。

同書によれば、宗教活動と商取引は、いずれも「参加自由で繰り返す行動」が多い点で似ている。そしてその観点からは、神社や寺院といった宗教集団は儀礼や信仰といった「サービスを提供する団体」と見なせる。つまり、寺社は宗教製品を提供する企業であり、参拝客は各々の意思でそれを選択・消費する顧客なのである。

そして、同じ製品やサービスでも人気のあるものやそうでないもの、良いものや悪いものがあり、さらに市場そのものが活発な場合と停滞している場合がある。どのような条件であれば、良い製品とサービスが活発に流通する市場が形成されるのだろうか。

同書によれば、宗教市場では「国教」が重要な要素になるという。経済学の観点からは、国教は「宗教部門における政府主導の独占」であり、それがもたらすのは「質の悪いサービス」や「宗教への参加と信仰レベルの減少」である。なぜなら、国教として公的支援を受けられる宗教は、民衆の需要に必ずしも応える必要はないからだ。そして、国教の庇護下にある聖職者たちはエリート化し、民衆と乖離(かいり)する傾向にある。

一方、国教のような独占企業がなく、「宗教提供者間での競争」が活発になれば、宗教市場は活性化する。そしてその結果、良い製品やサービスが流通するというのである。

■江戸東京の“人気神”の多くは外様だった

それでは、宗教の経済学の観点から、江戸東京の宗教市場はどのように特徴づけられるだろうか。まず思い浮かぶのは、江戸時代、寺請檀家(だんか)制度によって、誰もがどこかの寺に檀家として所属するようになったことだろう。ある意味では、仏教が事実上の国教になったとも理解できる。

ただし、この政策の眼目は、寺院に民衆の戸籍管理を委託し、それと引き換えに檀家という経済基盤を与えることにあった。つまり、民衆統制のための行政上の施策であり、自家の葬儀や法要は所属寺院で行う必要はあったものの、民衆に特定宗派の信仰や教義を強制したり、所属寺院以外への参拝を禁止したりするものではなかった。その点で、北欧のプロテスタント、西欧のカトリック、英国国教会といった国教のあり方とは大きく異なる。

次に注目すべきは、徳川家康の入府以降、江戸東京が急速に発展したことだろう。開府当時の江戸には100軒ほどの茅葺の家がある程度で、現在の帝国ホテルや東京駅のあたりまで入り江が差しこみ、銀座も江戸前島(えどまえじま)という半島の突端に位置していた。これらを埋め立てながら、そこに外部からの人口を取り込むことで、江戸は発展してきた。

そして、外部から人や物が流入するのに合わせて、水天宮のような無数の神仏が到来した。現在でも芸能関係者からの信仰が篤い赤坂の豊川稲荷は大岡越前守によって三河から勧請されたもので、虎ノ門の金刀比羅宮は讃岐から分霊された。今は見る影もないが、江戸最大のはやり神である入谷の太郎稲荷は、水天宮の故郷である久留米藩に南接する柳川藩からやってきた神である。

「市内幾多の縁日中、其繁盛本社の右に出るものなし」と称された水天宮
「市内幾多の縁日中、其繁盛本社の右に出るものなし」と称された水天宮(『東京風景』1911年/国立国会図書館デジタルアーカイブより)

■市場が活発だとサービスが充実するのは宗教も同じ

宗教市場という観点から捉え返せば、各地の大名屋敷が並ぶ江戸の街には、各地の神仏が集結していた。浅草寺やとげぬき地蔵といった土着の神仏も含めれば、さながら神仏の見本市といった様相を呈していただろう。そして、それらの神仏を消費したのが、常に増え続けた人口なのである。

そうした活発な宗教市場の中にあって、水天宮は、民衆が共感と同情をよせる安徳天皇にまつわる由緒、立地の良さ、子授け・安産という生活に密着したご利益などさまざまな要因が絡み合って、今日まで廃れることなく“顧客”を集め続けてきたと言える。

現在も、水天宮では、御子守帯以外にも、各種のお守りや犬をモチーフにした縁起物、同社オリジナルのお食い初め用のセットなども用意されている。また、インスタグラムなどのSNSで日々の様子が発信される。こうした宗教サービスの充実も、同社が、活発な江戸東京の宗教市場の中心に位置するものだからではないだろうか。

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岡本 亮輔(おかもと・りょうすけ)
北海道大学大学院 准教授
1979年、東京生まれ。筑波大学大学院修了。博士(文学)。著書に『聖地と祈りの宗教社会学』(春風社)、『聖地巡礼―世界遺産からアニメの舞台まで』(中公新書)、『江戸東京の聖地を歩く』(ちくま新書)など。近刊に『宗教と日本人 葬式仏教からスピリチュアル文化まで』(中公新書)ほか。

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(北海道大学大学院 准教授 岡本 亮輔)

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