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佐藤優が明かす「プーチンが見誤った"民族意識"と"言語"の深い関わり」

プレジデントオンライン / 2022年6月4日 9時15分

2022年5月25日、ロシア・モスクワのクレムリンで行われた国務院議長会議の議長を務めるウラジーミル・プーチン大統領。 - 写真=SPUTNIK/時事通信フォト

ロシアのウクライナ侵攻のきっかけとなった、ウクライナ東部での親ロシア派武装勢力と政府軍の内戦。元外交官で作家の佐藤優さんによると、この内戦の引き金となったのが「言語」をめぐる政策だという――。(連載第12回)

■ウクライナ語が禁止された東部、自由に使えた西部

ウクライナの歴史は複雑です。ロシアの影響を大きく受けてきた東部と、伝統的に独立志向の強い西部では、アイデンティティーも異なります。今回は言語に焦点を当てて、近代史を見てみましょう。民族としてのアイデンティティーを形成するうえで言語は非常に重要な要素のひとつなのです。

前回も述べた通り、帝政ロシアに編入された東部のドンバス地域(ドネツク州、ルガンスク州)では、19世紀にウクライナ語が禁止されました。それから現在に至るまで、ウクライナ東部に住む住民の日常生活ではロシア語が使われてきました。

一方、西部のガリツィア地方を18世紀から支配したオーストリア・ハンガリー帝国は多言語政策でしたから、ウクライナ語が自由に使われていました。

第2次世界大戦で、ウクライナは二つに割れました。ソ連からの独立を助けると約束してくれたナチスドイツと共に戦う西部の兵士が、30万人。ソ連についた東部の兵士が200万人。ウクライナ人同士が殺し合いをしたのです。

1945年、ソ連がガリツィア地方を占領します。ナチスに加担した幹部は射殺され、兵士たちは極東に移住させられたり、シベリアの強制収容所へ送られたりしました。逃げ延びた人たちは、山の中にこもって反ソ武装闘争を展開します。

■ウクライナ語の使用を認めたが…「あの文字」は使ってはダメ!

戦後のソ連は、多くのウクライナ人が自分たちに銃を向けたのはこれまでのソ連の政策が良くなかったからではないかと反省し、ウクライナ政策を融和します。1954年、フルシチョフ共産党第1書記は、ロシアの国土だったクリミア半島をウクライナに移管しました。

フルシチョフはロシア人ですが、長くウクライナで暮らし、首相も務めた経歴の持ち主です。黒海の保養地として知られるクリミア半島の割譲は、ウクライナへの贈与でした。当時はソ連という国の中における領土の移動にすぎませんから、深刻な事態を招く原因になることなど、フルシチョフは想定していなかったのです。

ウクライナは地域によって使用言語が大きく異なる
出典=Kyiv International Institute of Sociology(KIIS)

融和策の一環として、ロシア語しか使えなかったウクライナ東部で、ウクライナ語の使用も認められました。ただし、問題がありました。

ロシア語には英語の「H」に当たる発音がなく、「Г(ゲー)」で表記します。これは英語だと「G」に当たる音ですから、「横浜」をロシア語で読めば「ヨコガマ」です。ウクライナ語には「H」の発音があって「Г(ハー)」と表記し、「G」にあたる音は「Ґ(ゲー)」です。

しかしソ連は「Ґ」という文字の使用を許さず、「Г」に置き換えさせました。それどころか、「Ґ」を使えばソ連に対する反逆と見なし、強制収容所へ7年も送ったのです。これに反革命罪が加わると、刑期は20年に延びます。

冬はマイナス40度になるシベリアの強制収容所での生活は、3年が限度。つまり「Ґ」という文字を使っただけで、死刑宣告と同じ罪を科されたわけです。ナショナリズムにおいて、言語がいかに重要かがわかります。

■ゴルバチョフが「あの文字」の使用を認めると…

ゴルバチョフの時代にペレストロイカ政策(政治・経済の立て直し)が始まると、ウクライナでは「Ґ」を取り戻そうという運動と、ロシア正教会に併合されていたユニエイト教会(東方典礼カトリック教会)の自立を認めてほしいという運動が起こります。ユニエイト教会は独自のスタイルに変容したカトリックで、ガリツィア地方で広く信仰されています。

代わりにペレストロイカを支持してもらえると勘違いしたゴルバチョフは、これらを認めます。ゴルバチョフは言語や宗教がいかにナショナリズムと関わっているのか、理解できていなかったからです。その結果、ウクライナ西部での民族意識はさらに高まり、ソ連からの分離独立運動が広がっていきました。

そもそもガリツィア地方ではソ連の支配を望まない気運が強く、反ソ武装闘争を続けるほか、亡命してカナダに移住する人たちもたくさんいました。現在も、カナダのエドモントン周辺には数十万人のウクライナ人が住んで、ウクライナ語を常用しています。カナダで最も多く話されているのは英語で、次がフランス語ですが、3番目はウクライナ語なのです。

ゴルバチョフのペレストロイカは、外国人のソ連訪問も緩和しました。ガリツィア地方への外国人の旅行も可能になったので、カナダに住むウクライナ系の人々は母国を訪れる際に、民族主義者への資金援助も行うようになりました。そのお金が、分離独立運動をさらに盛り上げる原資となったのです。

1987年12月8日、INF条約に署名するレーガン大統領とゴルバチョフ大統領
1987年12月8日、INF条約に署名するレーガン大統領とゴルバチョフ大統領(写真=White House Photographic Office/public domain/Wikimedia Commons)

■前置詞を巡って、ウクライナとロシアでバトル勃発

1991年のソ連崩壊によって独立したウクライナは、公教育を通じてウクライナ語の普及に努めます。ソ連時代はほとんどロシア語を話していた首都キーウの人々もウクライナ語を使うようになり、ウクライナ人としてのアイデンティティーを高めていきました。

言葉を巡って、ロシアとウクライナの確執は続きます。ウクライナは独立後、国名が「ナ・ウクライーネ」と書かれたロシアからの外交文書を受理しなくなりました。ロシア語の「ナ」という前置詞は英語の「on」に相当し、「ヴ」が「in」に当たります。

国家に対しては「ヴ」がふさわしく、「ナ」だと地方というニュアンスが強くなるためです。逆にロシアは、ウクライナが「ヴ・ウクライーネ」と書かれた文書を送ってくると、これはロシア語ではないと言って受理しませんでした。前置詞ひとつの問題ですが、ウクライナにとっては国のプライドに関わる対立だったのです。

■内戦の引き金になったのも、「言葉」

今回、ロシアがウクライナに侵攻する理由として挙げているのが、ドンバス地方のロシア系住民の保護ですが、その原因となるドンバス地方の内戦の引き金となったのも、「言葉」です。2013年に親ロシアのヤヌコビッチ大統領がロシアからの強い圧力を受けて、EUとの連合協定締結の署名を取りやめたことを発端に、反政府デモが盛んになり、2014年に追放されると(マイダン革命)、反ロ親米政権が発足し、ロシア語を第2公用語として使える現行制度の廃止を決定しました。

衝撃を受けたのは、東部のドンバス地域やクリミア半島に住む人たちです。ウクライナ憲法では公用語はウクライナ語と決まっていますが、2012年に「国家言語政策基本法」が施行されます。日常的にロシア語を使う住民が多く住む地域では、この法律にのっとり、ロシア語を第2公用語として宣言していました。

しかしロシア語が公用語でなくなれば、ウクライナ語で書類を作成できない公務員は失職する恐れが生じます。国営企業の幹部職員であっても、ウクライナ語が堪能でなければ職を追われかねません。

ハリキウ、ルハンスク、ドネツク州の東部3州やクリミアでは、市庁舎を占拠するなどの反乱が起きました。すると政府は、行政機関を占領しているのはテロリストだと言って、なんと空爆してしまったのです。当然、死者も出ました。これで東部地域の住民は、中央の政府が自分たちを同胞とみなしていないと考えるようになりました。

ウクライナ語のみ公用語にするという決定は、すぐに撤回されました。とはいえ東部地域やクリミアの住民の不信感が、それで収まるはずはありません。ロシア系住民が多くを占めるクリミア半島にはロシア軍が介入し、抵抗を受けずに占領します。ルハンスク州とドネツク州では、ロシアの支援を受けた武装勢力が一部地域を実効支配し、共和国と称して独立を宣言するに至りました。

■プーチンの「ロシア語を話す人はロシア人」という単純な理解

ウクライナ東部に住む人々は、自らのアイデンティティーがウクライナ人かロシア人か選択することを、初めて迫られました。ロシア人であることを選んだ人々の多くは、親露派武装勢力が実効支配する地域に移動しました。逆に自分がウクライナ人だと考える人々は、この地域から逃げ出していきました。

注意しておかなくてはならないのは、民族意識において言語は重要な位置を占めますが、同じ言語を使うからといって、民族的アイデンティティーが同一とは限らないことです。例えばアイルランド人は日常的に英語を用いていますが、イギリス人ではなくアイルランド人であるという強力なアイデンティティーを持っています。ロシアのプーチン大統領は、ウクライナでロシア語を常用する人を単純にロシア人と考えているようです。しかし、ロシア語を常用し、宗教も正教だが、ウクライナ人という民族意識を強く持っている人々がいます。こういう人々の気持ちをロシア人は理解しにくいのです。

今回の戦争は、このときに端を発しているといえます。民族のナショナリズムを隔てる分断線は、長い時間をかけて培われます。それは、たったひとつの文字や前置詞といった些細な問題でシンボル化され、いったんシンボル化されてしまえば、誰にも止められなくなってしまうのです。

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佐藤 優(さとう・まさる)
作家・元外務省主任分析官
1960年、東京都生まれ。85年同志社大学大学院神学研究科修了。2005年に発表した『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)で第59回毎日出版文化賞特別賞受賞。『自壊する帝国』(新潮社)で新潮ドキュメント賞、大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『獄中記』(岩波書店)、『交渉術』(文藝春秋)など著書多数。

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(作家・元外務省主任分析官 佐藤 優 構成=石井謙一郎)

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