1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

NHK大河ドラマとはまったく違う…源頼朝が弟・義経の死に際して史実としてやったこと

プレジデントオンライン / 2022年6月18日 18時15分

源義経(1159~1189)の肖像画。(図版=中尊寺所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

源頼朝はなぜ弟・義経と決裂したのか。歴史学者の濱田浩一郎さんは「壇ノ浦合戦後の度重なる失態が原因だろう。頼朝は『弟は災いの種となる』と考えたのではないか」という――。

■頼朝が壇ノ浦の戦いで求めていたこと

源義経は、壇ノ浦合戦において平家を滅亡させました。義経は平家討伐の功労者といっても良いでしょう。しかし、彼は最終的には異母兄・源頼朝に疎まれ、死の淵に追い込まれることになります。それはなぜなのでしょうか?

1185年3月24日(旧暦)、義経軍は長門国赤間関の壇ノ浦において、平家を滅亡させます。平家によって京都から連行された安徳天皇はこの時、入水し、海中に没するのです。同じく京都から持ち去られていた三種の神器の一つである宝剣も水中に沈んでしまいます。

頼朝は西国に派遣していた異母弟の源範頼(のりより)に対し、「安徳帝と三種の神器を確保するため、よく考えて戦をしなければいけない」と書状で諭しています(鎌倉時代後期の歴史書『吾妻鏡』)。ところがそのもくろみを、達することはできませんでした。

■義経の度重なる失態

義経からの平家滅亡の知らせを鎌倉の頼朝が聞いたのが、4月11日のこと。翌日、頼朝は義経に捕虜を連れて上洛するよう命令を下します。

4月22日、頼朝のもとに侍所次官の梶原景時から書状が届きます。九州にいた景時は、義経の行動を非難する弾劾状とも言うべきものを主君に送ったのでした。

そこには、合戦の勝利を自分一人の手柄のように感じて奢(おご)る義経の様子が描かれていました。さらには「義経は、自分勝手に振る舞い、頼朝様の命令を守りません」(『吾妻鏡』)とも。景時からの手紙を見て、頼朝は眉をひそめたことでしょう。

義経は平宗盛や平時忠といった捕虜を連れて、西国から京都に入ります(4月26日)。上洛した義経は、朝廷より、院(後白河法皇)の親衛隊長とも言うべき、院御厩司(院の軍馬などを管理する厩(うまや)の長官)に任命されます。これには頼朝の推薦があったといわれています(平家物語で最も古い成立とされる『延慶本 平家物語』)。

『吾妻鏡』(5月5日)には、頼朝の義経に対する怒りの理由が書かれています。それによると、義経は、壇ノ浦合戦の後、九州に進出し、関東武士の処罰などの越権行為をしていたとのこと。九州のことは、範頼(頼朝の異母弟)が差配すると頼朝が命じていたにもかかわらずです。

5月7日には、京都の義経から「謀反の意思などない」と誓う起請文(きしょうもん)が頼朝のもとに届きますが、頼朝は怒りを鎮めることはなかったといいます。同日、義経は、平宗盛ら捕虜を連れ、京都をたち、鎌倉に向かいます。

ところが、義経は相模国酒匂宿(神奈川県小田原市)で足止めされ、鎌倉入りを禁止されてしまうのです。捕虜だけが鎌倉に連行されました(5月15日)。

その後、義経は鎌倉郊外の腰越(鎌倉市)にて、無実を訴える「腰越状」を書き、頼朝側近の大江広元に提出したといわれます。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、捕虜となった平家の総帥・平宗盛が腰越状を代わりに書いてやるシーンがありましたが、宗盛が代筆したということはありません。

源頼朝像
源頼朝像(写真=https://kyotoyear.files.wordpress.com/2014/08/p1050233.jpg/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

■腰越状は後世の創作とされている

腰越状は『吾妻鏡』だけでなく『平家物語』や『義経記』にほぼ同文のものが掲載されています。

そこには、義経は肉親の情に訴えて嘆願したものの、頼朝の怒りは収まらず、対面することは許されず、むなしく京都に帰っていったことが書かれています。

しかし、腰越状はその文体と内容に疑問が出されていて、後世の創作ではないかとする説が有力です。

さらに最新の説では、頼朝と義経は対面していたとする見解が出てきています。

『平家物語』には出てきませんが、より古態を存する『延慶本 平家物語』には、2人が対面した様子が記されています。そこには「打ち解けた様子もなく、会話は少なかった」と書かれています。会うことは会ったが、気まずい雰囲気であったことは確かです。

2人の間には、明らかに緊張関係が生まれていたわけですが、その理由は、これまで見てきた義経の振る舞いにあったと言えましょう。

■義経が鎌倉に対し挙兵した本当の理由

兄弟が会ったにしろ、会わなかったにしろ、義経は無事に京都に帰還していることから、頼朝と義経はこの時点では完全破局には至っていなかったことが分かります。完全破局していたならば、この時点で、頼朝は義経を捕縛または殺害したでしょう。

『吾妻鏡』には、鎌倉に入れてもらえず、京都に帰ろうとした義経(6月9日に東国をたつ)が「関東(頼朝)に恨みがある者は付いて参れ」と放言したと書いてあり、そのことが要因で、頼朝は義経に与えていた所領24カ所を没収したとされます(6月13日)。

しかし、義経が兄・頼朝に挙兵するのは、その年(1185年)の10月です。義経も6月の段階では、頼朝に対し、挙兵するほどの怒りは抱いていないのです。

義経が挙兵を決意した理由は『玉葉』(当時の貴族、九条兼実の日記)の10月17日の項目に書いてありますが、1つは前述の所領没収。2つ目は、10月に行われた刺客の派遣。3つ目は、伊予国に地頭が置かれて、国務を妨害されたことが挙げられています。

同年8月、義経は朝廷から伊予守(伊予国=現在の愛媛県の国守)に任命されていました(伊予守任命についても、4月に頼朝から申し入れがあったといわれます。頼朝は6月の時点では義経の伊予守任官を苦々しく感じていたでしょうが、朝廷との関係を重視する頼朝としては今更、任官をご破算にというわけにはいかなかったでしょう)。

刺客の問題は両者決裂後のことであるので、義経からすると、地頭を置かれて国務を妨害されたことが挙兵の大きな理由だったと思われます。

■ルールを守らないことへの怒り

では、なぜこんな嫌がらせを頼朝は行ったのか。

本来、伊予守に任命されたら離任すべき検非違使(けびいし)に義経は留任していたのです(義経は1184年8月、検非違使に任官。木曽義仲や平家討伐の恩賞でした)。こうした人事は異例で、その背後には後白河法皇がいたとされます。

検非違使は、京都の治安維持などを担う役割があります。留任となると、当然、京都にとどまることになります。ですが、源氏一門は、源範頼のように鎌倉に住むのが原則でした。頼朝も、検非違使を外れた義経は鎌倉に召喚すべきと考えていたはずです。

この人事は、義経が法皇と結んで鎌倉に帰ることを拒否したと言えます。よって、頼朝は伊予に地頭を置き、国務を妨害したのです。

頼朝が義経の鎌倉召還を望んでいたと書くと「頼朝は義経を本当は好ましく思っていたからではないか」と思う人もいるかもしれませんが、そうではありません。好き嫌いの問題ではなく、頼朝からしたら、原則は守れよということです。頼朝の意向を無視したから、義経は切られたのです。

■災いの種となる存在は消すしかない

義経は、壇ノ浦合戦後に、平時忠(平清盛の義弟)の娘を側室に迎えていました。これは、後白河院のみならず、平家の残党と義経が結び付く可能性も示唆しています。

将来のことを考えたとしても、義経は邪魔な存在になりかねません。頼朝としてはわが子・頼家(後の2代将軍)を後継者に考えていたわけですが、義経が生きていたら、そううまく事が運ぶかどうか。頼朝は先を見越して、そのことも心配していたのではないでしょうか。

範頼も、謀反の疑いをかけられて、流罪・殺害(1193年)されてしまいますが、範頼殺害の背景にも、頼朝の疑心があったのではないかと思います。義経も範頼も、頼朝からしたら、後継者であるわが子・頼家の邪魔になる存在だから消した、と私は考えています。

しかし、頼朝が義経に怒ったその発端は、壇ノ浦合戦後に、頼朝の許可も得ずに勝手な振る舞いをしていたことにあるでしょう。

そして最終的には、義経が鎌倉召還を拒否したことにより、将来の災いの種になることを危ぶみ、よって頼朝は義経を消すことを考えたのだと思います。

かぶと
写真=iStock.com/ozora1
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ozora1

■史実として書かれている義経の最期

頼朝に対し、挙兵するも味方する者は少なく、義経は最終的には奥州藤原氏を頼ります。頼朝は奥州の藤原泰衡(やすひら)に圧力をかけ、義経を討つように仕向け、1189年閏4月30日、ついにそれが実行されます。義経がいる衣川館を泰衡軍が襲撃したのです。

大河ドラマでは、義経の最期に主人公・北条義時が関与していましたが、そうしたことを示す史料はありません。義経の死の直前に義時がいたということも、もちろんありません。

義経の首は、奥州藤原氏の使者が鎌倉に届けます(同年6月13日)。首は黒漆の櫃(ひつ)に入れられ、酒に浸されていました。首実検をしたのは、侍所の関係者である和田義盛と梶原景時。義経の首実検を見る者は皆、涙を流したといいます。頼朝はその場にはいませんでした。

「鎌倉殿の13人」の第20回放送では、頼朝が義経の首が入った黒櫃を抱きしめ、涙するシーンが感動を誘いましたが、実際には頼朝は黒櫃さえも見なかったでしょう。

----------

濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。

----------

(作家 濱田 浩一郎)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください