祖国の台湾には入国できず、住居のある日本にも戻れない…「無国籍」の早大教授は羽田空港で途方に暮れた
プレジデントオンライン / 2022年6月27日 12時15分
※本稿は、陳天璽『無国籍と複数国籍 あなたは「ナニジン」ですか?』(光文社新書)の「プロローグ」を再編集したものです。
■1972年の“外交交渉”が、横浜中華街に波紋をもたらした
私はこれまでの人生の大半を「無国籍」と明記された身分証明書とともに生きてきた。中国人の両親のもと、横浜中華街に生まれ育ち、日本の文化も中華の文化も当然のように吸収し、自分の一部としてきた。
父は1950年代に留学生として来日し、母は1964年に、5人の子どもを連れて台湾から日本に移住した。二人は子どもたちの将来を見据え、日本を終の棲家と決め、仕事や子育てに奮闘する。家族たちが日本での生活に慣れ、生活も安定した頃、私は生まれた。
そんな小さな家族の命運を揺るがすであろうとは誰も知る由もなく、国家間では外交交渉が行われていた。
1972年、日本は中華人民共和国と国交正常化する一方で、中華民国(台湾)との国交を断絶した。当時、我が家も含め、日本に在住していた5万人ほどの華僑の多くは、それまで日本が認めていた中華民国の国籍を持って暮らしていた。しかし、この外交関係の変動により、日本が中華民国と断交するという。人々は動揺した。
「自分が持っている国籍がもう日本では認められなくなる。そうしたら、自分たちの財産はどうなるのだろう?」
「このパスポートはどうなるのか? 渡航の際はどうすればいいのだろう?」
■「無国籍で生きる」日本に住む華僑家族が下した決断
人々は不安を募らせた。また、さまざまな噂も飛び交った。
当時、中華民国国籍を証するパスポート(旅券)を所有していた人たちは、中国人として、いままでのように日本で暮らしていくために、中華民国国籍を維持し、国交のない国の国民として生きていくのがいいのか、もしくは、国籍を中華人民共和国に変更し、国交のある国の国民として暮らしていく方がいいのか、あるいは、日本に帰化し、日本の国民として暮らしていくのがいいのか、選択を迫られた。
1922年、中国の黒龍江省に生まれ、満州国時代を経験し、日中戦争、さらには国共内戦を潜り抜け台湾に渡った父、一方、湖南省に生まれ、国民党軍の将軍の娘であった母にとっては、どれも苦渋の選択だった。
結局、両親は悩みに悩んだ挙句、家族8人全員そろってどこの国籍も選ばず、「無国籍」として日本に暮らすことを選択したのである。それが、当時の家族の安全とアイデンティティ(帰属意識・自己同一性)を守る最善の方策だった。
■2万人を超える華僑が台湾の国籍を失った
日本での各種書類上では無国籍となったものの、私たちが日本における合法的な定住者(後に永住者となる)であること、そして、毎日の生活の中で、日本と中華の文化を基盤にして生きるということは、これまでと何一つ変わらなかった。
中華民国・内政部・戸政司で華僑の国籍問題を担当していた人によると、「当時、2万人を超える華僑が断交によって中華民国国籍を喪失することになった」という。その人たちの中には、後日、日本に帰化した人もいれば、中華人民共和国の国籍に変更した人もいた。
一方、日本の法務省民事局の資料によれば、1971年の時点で930人あまりだった無国籍者は、1974年には9200人あまりに増加し、1977年には、その数が2900人ほどに減少している。ここに見られる無国籍者の統計の推移は、華僑が要因になっていたと推察できる。
■「ないことが普通」疑問を抱くこともなかった
あれから約30年間、日本が発行する私の身分証明書には「無国籍」と明記されていた。海外に行く際は、法務省が発行する「再入国許可書」がパスポート代わりとなる。茶色いカバーの再入国許可書に、渡航先国のビザ(査証)と日本に戻ってくるための再入国許可が必須だった。
一方、台湾に行く場合は「中華民国護照」、つまりパスポートを使った。中国に行く時は、中華人民共和国が発行する「旅行証」を使う。海外渡航の際には、たくさんの証明書を持参し、行き先によって違う証明書を提出する。
私は、こうした面倒な手続き自体は誰もが行っているものだと思い、不思議に思うこともなかった。むしろ、再入国許可書や外国人登録証明書(2012年より在留カードに変更)に記されている「無国籍」という三文字の意味が理解できず、そのことを不思議に思っていた。
それぞれの書類が示す、自分のバラバラな身分。それらが何を意味しているのか、長い間、私にはわからなかった。
■再入国許可がないと日本にも戻ってこれない
ある日、私は国境のはざまに立たされ、どの国にも入れない経験をした。21歳の春だった。
父と出席した韓国でのある会合から日本に戻ると、自宅に一枚のファックスが届いていた。フィリピンで行われる会議に出席してほしいという内容だった。
無国籍の私たちが海外渡航する際、行き先国に入国するためのビザがほとんどの国で必要となる。もちろん、日本に戻ってくるためにも、再入国許可がないと入国できない。だから外国に出かける前は、いつも緊張感に襲われる。
出発後の旅程をどうしようかと考えるよりも、まずは出発できるかどうかの方が肝心だ。ビザの申請は各国の大使館に直接出向かなくてはならない。それぞれの国の大使館職員に書類を提出し、身分証明書を見て私が無国籍だと知ると、いきなり眉間にしわを寄せ、態度が硬化する。
■「怪しくない」ことを示すための書類の山
たいていの場合、自分が「怪しい者」ではないことを証明するために、所得証明書や銀行残高証明書、所属する機関からの休暇証明書、妊娠をしているかどうかを含めた健康診断書、往復フライトの日程表、行き先国の機関発行の招聘(しょうへい)状など、たくさんの書類が必要になる。そして書類をそろえるために、区役所や銀行、病院などを何日もかけて駆け回ることになる。
出発までの限られた時間に手続きが間に合うか、時間と追いかけっこしながら感じるいい知れぬ不安感は、海外渡航する前にまず乗り越えなければならない試練である。そのすべての関門をクリアして初めて海外へ渡ることができる。そんな面倒な手続きなく、航空チケットとパスポート一つで海外へ出かけられる友人たちを、私はいつも羨ましく思っていた。
韓国から戻り、フィリピンに行くまであと10日しかない。急いで書類を集めビザの申請をした。この時、海外から戻ったばかりであったこともあり、再入国許可まで気にしていなかった。
■住んだことがなくても“祖国”だと信じていた…
出発の直前、ようやくビザが下りた。フィリピンへは父と母も一緒だった。ゴールデンウィーク明けだったこともあり、旅行客は少なく、空港はゆったりとした空気が流れていた。
出国ゲートの職員も、出入国ラッシュのピークを越え、一仕事を終えたという開放感からか、優しく声をかけてくれた。「いいですねー。連休明けに家族旅行ですか」。愛想の良い父は「はい。家内と末の娘を連れて会合なんです」と答えた。母も私もニコニコと相槌を打ちながらゲートを後にした。
フィリピンには3~4日ほど滞在した。帰国便が台湾経由だったこともあり、母が台湾に住む大哥(一番上の兄)に会いに行こうと、急に予定を変更した。当時、私の兄は、日本企業の台湾支社を任されていた。
昼過ぎの便で、台北に降り立った。飛行機を降りると生暖かい空気と人々が話すソフトな中国語が私たちを迎えてくれた。
私はこの頃、台湾へ行くことを「回台湾(台湾に帰る)」と表現していた。家族の中で唯一、日本生まれの私は台湾で暮らしたことがない。しかし、幼い頃から常に「中国人としてしっかり生きなさい」と親に教育され、しかも中華街にある橫濱中華學院に通っていた私は、違和感なく中華民国(台湾)を自分の「祖国」として受け止めていた。
■「ビザがないので」私だけが入れなかった
同じ無国籍でありながら、台湾に戸籍を持つ両親は、台湾が発行する身分証を持っていたため、すんなりと入国審査のゲートを通り過ぎていった。私の番になった。女性の入国審査官に「中華民国護照」を手渡した。彼女は私のパスポートを一枚一枚めくり、しばらくすると、彼女の口から思いもよらない言葉が返ってきた。
「妳沒有簽證所以不能入境(あなたは、ビザがないので入国できません)」
「啊? 我有台灣的護照、為什麼還需要簽證?(え? 台湾のパスポートを持っているのに、なぜビザがいるのですか?)」と聞き返した。「自分の国に帰るのに、入れないなんてあるはずがない」と思い、審査官の勘違いだろうと思っていた。しかし、入国審査官はただ頭を横に振るだけで、その態度は冷たかった。
粘ろうとすると、何人かの審査官が集まってきて、代わる代わる私のパスポートを覗き込み、同じように頭を横に振った。
「妳在台灣沒有戶籍、所以沒有簽證就不能入境(君は台湾に戸籍がないから、ビザがないと入れない)」
私は諦めざるを得なかった。そして心は傷ついた。
「『祖国』だと思っていた国に入境拒否されるなんて……、なぜ?」
■「日本には入れません、今から台湾へ帰ってください」
「国境」の向こうで、何が起こっているのか分からずに不安そうに眺める両親に、私が大きな声で、「我不能進去!(入れないって!)」と伝えると、母は少し驚きながら、「哎呀! 我打電話叫二姐去羽田接妳(あら~、二姐〈二番目の姉〉に羽田に迎えに行くよう電話しておくわ)」といって、両親は台湾へ、そして、私は一人日本に戻ることとなった。
数時間囚われていた失意と憤りから早く脱したいと思い、気持ちを切り替え日本に向かう便に乗った。羽田空港に到着し、飛行機を降りると少しでも早く家に帰ってお風呂につかり、休みたいと思った。空港には、両親から「天璽が一人で日本に帰った」という連絡を受けた姉が迎えに来てくれていた。
私は入国審査のゲートに足早に向かった。日本に永住する無国籍の私が入国するためには、再入国許可書と外国人登録証明書の提示が必要だ。それらを渡すと、入国審査官は怪訝な顔をして「後ろのベンチで待っていなさい」と指でゲートの奥の方を指した。私はまた「どういうこと?」と不安と憤りがこみ上げてきた。
1時間ほど待っただろうか、入国審査の列が終わると、事務室へと呼ばれた。部屋に入って座ると、入国審査官から「日本には入れません、今から台湾へ帰ってください」といわれた。「えっ?」。私は一瞬耳を疑った。
■「このまま空港で生活することになるのか」
「私は横浜に家がある永住者です。今、台湾に入れず、日本に帰って来たんです」と憤りを抑え、冷静なふりをして主張した。
しかし、審査官は、「再入国許可の期限が切れたまま日本を出国した場合は、永住資格もなくなるという決まりがある」ことを淡々と私に説明した。空港から出られず、「このまま空港で生活することになるのか」という不安が頭をよぎった。
無国籍である自分をこの時ほど肌で感じたことはなかった。祖国だと思い続けていた中華民国・台湾に入れず、一方、自分が生まれ育った日本にも入れない。「自分の居場所は?」「自分って、いったいナニジンなのだろう?」。アイデンティティは音を立てるかのように崩れ落ち、そして、自分を「箒で掃かれ、どこからも必要とされない埃」のような存在に感じた。
私はこの日以来、「回台湾」という言葉にも「日本に帰る」という言葉にも違和感を覚えるようになった。さらに、国境というものが本当に存在すること、そして、国籍や国というものが持つ、排他的な一面を思い知らされた。
その後、幸いにも、数日前に私が日本を出発する時に、私の出国審査を担当した審査官が私と両親を送り出したことを覚えていた。その審査官が確認すると、私を送り出す際、審査官の書類確認に不備があったことが発覚した。
結局、私は無事に日本に入国することができた。しかし「万が一、あの審査官が私を覚えていなかったら……」、そう思うと恐ろしくてたまらなかった。
■「まさか国連まで…」無国籍者の研究をはじめた理由
その日から長い間、自分が無国籍であることによって受けたショックを心の奥底にしまい込み、他人に言うことはなかった。言っても理解してもらえないだろうし、正直、どこか引け目を感じていた。だから、できるだけその話題を避けるようにしていた。
しかし、日々の生活の中で、自分が無国籍であることとどうしても向き合わなければならないことが多々あった。アパートの賃貸契約、銀行口座の開設など、身分証明書を確認しなければいけないときは、いつもしぶしぶ財布の奥から身分証を抜き出した。
「無国籍」と書かれた身分証を見ると、相手の表情が一瞬にして曇り、眉をひそめ、聞きづらそうに「あのー、無国籍って、どういうことですか……?」と聞かれた。そして、私が「信用の置ける人物」であることを証明するための追加書類、たとえば保証人が記された書類、銀行の残高証明書、在学証明書などを提示するよう求められた。
当時、国際関係学を学んでいた私は就職先を探している際、国家を超越した存在で、しかも無国籍者を支援・保護している国連なら理解してくれるだろうと思って採用試験に応募した。書類審査が通ったという通知を受け、心を躍らせながらニューヨークまで面接に行った。
しかし、私の考えが甘かった。国連からも「無国籍だと採用できないので、日本の国籍を取得してから再度応募してください」と断られてしまったのだ。
「まさか、国連まで……」私は国というものを基盤にして成り立っている社会の現実を思い知らされた。無国籍者であるということは、余分な労苦と努力、そして忍耐をともなうものだった。そこで受けた悔しい体験は、後に私を無国籍者の研究、さらには無国籍者の支援へと導く原動力となった。
■国内、国外、家庭内、無国籍になる事情は1つではない
無国籍の人々について調べ、当事者に会って話を聞いていくと、無国籍になった原因や置かれている状況はさまざまであることを知った。
無国籍者は、国籍を持たず、いずれの国とも法的なつながりを持っていない。そのためどの国にも国民と認められておらず、また国民としての権利と義務を有していない。身分証明書上に「○○国籍」と記されていても、実際にはその国の国民としての権利を享受できない、事実上の無国籍の人もいる。
私のように、住んでいる国の合法的な居住権を持っている無国籍者もいれば、どこにも登録されず、居住権すらない無国籍者もいる。居住権がない場合、まるで透明人間のように扱われ、存在すら認めてもらえないということが起こっている。
無国籍となる原因は国々の情勢、国際関係、そして個々人の経歴によって異なる。
旧ソ連や旧ユーゴスラビアなどのように、国家の崩壊、領土の所有権の変動によって無国籍になった人もいれば、私のように外交関係の変動が原因で無国籍となった人もいる。
また、国際結婚や移住の末、国々の国籍法の隙間からこぼれ落ちて無国籍となった子どもたちも存在する。日本の場合、具体的にはかつて沖縄に多かったアメラジアンや、1990年代以降に増えたフィリピンやタイからダンサーとして来日した女性と日本人男性との間に生まれた婚外子がそうだ。
■国籍の「ない」人間をあぶりだすのは難しい
ほかにも、ロヒンギャなどのように民族的な差別の結果、無国籍となった人々、そして行政手続きの不備など、無国籍者が発生する原因は実に多岐にわたる。
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は、主に難民の支援をしていることで知られているが、無国籍者の支援も活動範疇に入れている。
UNHCRの調査では、世界には無国籍者が、2016年は1000万人、2018年は390万人、2020年は420万人いると推計している。この数字からも分かるように、統計の取り方に差異があったり、データの集計が徹底しておらず、正確な人数は判明していない。「無い」ものを見つけたり、証明するのは至難の業なので当然といえば当然だ。
また、UNHCRは現在、2024年までに無国籍者をなくすためのキャンペーンを行っている。そのためにも、1954年の「無国籍者の地位に関する条約」と1961年の「無国籍の削減に関する条約」への締約を各国に呼び掛けている。ちなみに日本にも無国籍者は暮らしているが、日本はこのいずれの締約国でもない。
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早稲田大学 国際教養学部 教授
1971年横浜中華街生まれ。72年、日中国交正常化、日華(台)断交により生後間もなく無国籍となる。筑波大学大学院国際政治経済学研究科修了。博士(国際政治経済学)。ハーバード大学フェアバンクセンター東アジア研究所、同大学法学部東アジア法律研究所研究員。日本学術振興会(東京大学)特別研究員、国立民族学博物館准教授を経て、早稲田大学国際学術院国際教養学部教授。NPO法人無国籍ネットワークの代表理事も務める。華僑・華人問題をはじめ、移民・マイノリティ問題、国境・国籍問題に取り組んでいる。著書に『無国籍』(新潮文庫)、『無国籍と複数国籍 あなたは「ナニジン」ですか?』(光文社新書)、共編著に『パスポート学』(北海道大学出版会)などがある。
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(早稲田大学 国際教養学部 教授 陳 天璽)
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