「首相はうそつき」と言えば侮辱罪で逮捕される可能性がある…刑法改正につきまとう本質的な危うさ
プレジデントオンライン / 2022年6月22日 18時15分
■「侮辱罪の厳罰化」の何が問題なのか
ネットの誹謗(ひぼう)中傷対策として侮辱罪を厳罰化した改正刑法が、7月にも施行されることになった。
2020年5月に、フジテレビの恋愛リアリティー番組「テラスハウス」に出演していた女子プロレスラーの木村花さんがSNSで誹謗中傷されて自ら命を絶った事件をきっかけに、ネット上で人をおとしめる犯罪行為に対しあまりに刑罰が軽すぎるとの批判が急速に広がり、事件から2年という短期間で罰則を全面的に強化する法改正が行われた。
木村花さんの事件では、大量の誹謗中傷の投稿がネット上にあふれたにもかかわらず、侮辱罪に問われた投稿者はたった2人で、刑罰はいずれも9000円の科料のみ。「言ったもん勝ちで、あまりに理不尽」と訴えてきた木村花さんの母・響子さんは「やっと、という思い。誹謗中傷が犯罪だということを知ってほしい」と語った。
厳罰化は、無責任な誹謗中傷に対する抑止効果が期待され、「言葉の刃」の被害に苦しむ人たちを中心に歓迎されている。
■あいまいな「批判」と「誹謗中傷」の線引き
だが、一方で、拙速ともいえる法規制の強化がもたらすデメリットを危ぶむ声も少なくない。
もっとも大きな問題は、まっとうな批判と誹謗中傷の線引きがあいまいで、どのような表現が処罰の対象になるかが判然としないことだ。
このため、運用にあたって捜査当局の恣意(しい)的な判断が入り込む余地が大きく、侮辱罪での取り締まりが広がって、憲法で保障される表現の自由や批判の自由が脅かされかねないとの懸念が強まっている。
厳罰化というと、あおり運転などの危険運転がよく引き合いに出されるが、こちらは処罰対象が明示されているため、適用するかどうかの判断にあたって警察による裁量はほとんどない。このあたりが侮辱罪とは大きく違うところだ。
19年夏に安倍晋三元首相が札幌で街頭演説した際に一般市民が「安倍辞めろ」とヤジを飛ばしただけで警官に排除された事件(22年3月、「表現の自由侵害」で北海道警敗訴)は記憶に新しい。
だが、今回の改正刑法で侮辱罪の逮捕要件が大幅に緩和されたため、同様の事態が起きた場合に、排除だけでは済まなくなるかもしれない。「ちょっと警察署まで」と声をかけられ、「任意同行で事情聴取、そして逮捕」という、安っぽい刑事ドラマを見ているようなシーンが現実に起きかねないのだ。
■名誉毀損罪並みに強化された侮辱罪の罰則
厳罰化された侮辱罪をおさらいしてみる。
侮辱罪は、1875年に布告された讒謗(ざんぼう)律に由来し、新聞紙条例とともに当時の自由民権運動を弾圧した歴史をもち、1907年に制定された刑法に規定され、今日に至っている。
たとえば、「バカ」「キモい」「死ね」など抽象的な表現で、事実を示さなくても公然と他人を罵倒したり誹謗中傷したりした場合、被害者の告訴があれば、侮辱罪が成立する可能性がある。
ただ、罰則は、これまで「30日未満の拘留または1万円未満の科料」で、時効は1年という、もっとも軽い法定刑だった。これは、さまざまな表現を幅広く処罰対象とするため、その代わりに罪を極力軽くすることでバランスをとったからだとされる。
刑法には、侮辱罪に似た処罰に名誉毀損(きそん)罪がある。例えば「あの人は部下と不倫している」「あいつは前科がある」など具体的な事例を示して社会的評価を低下させた場合に適用される。その罰則は「3年以下の懲役もしくは禁錮または50万円以下の罰金」で時効3年と、侮辱罪に比べ、かなり重い。
ネットが社会インフラとなった現在、SNSを通じて匿名の誹謗中傷が一気に拡散するようになり深刻な被害が急増しているが、実際に刑事処分されたのは、20年で侮辱罪が30人、名誉毀損罪も179人にすぎない。
侮辱罪の立件がとくに少ないのは、ツイッター社などプラットフォーマーが情報を開示しないケースが多いため発信者を特定するのに時間がかかり、1年という時効の壁をクリアできないからだ。
しかも、苦労して侮辱罪を立件したものの、大半は9000円の科料となるだけだった。
■「軽蔑の表示」があれば「何でもあり」
法定刑が被害の実態に見合わないという批判の高まりを受け、今回の改正刑法では、侮辱罪の罰則に「1年以下の懲役・禁錮もしくは30万円以下の罰金」を加え、時効を1年から3年に延ばした。
罰則に関する限り、名誉毀損罪に大きく近づいたといえる。
しかしながら、名誉毀損罪には、政治家や公務員を批判しても、公益を図る目的があり内容が真実であれば罰せられないという特例がある。真実と信じた相当の理由が認められる場合も同様だ。
これに対し、侮辱罪にはこうした免責事項がなく、今回の改正刑法でも盛り込まれなかった。刑事罰の対象となる表現は、「軽蔑の表示」が含まれてさえいれば「何でもあり」のままで、罰則だけが重くなったのである。
しかも、侮辱罪の法定刑に「懲役」が加わったことで、刑事訴訟法の規定により「住所不定」の場合などに限定されていた逮捕要件が取り払われてしまった。
このため、政治家を批判するつもりでSNSに投稿したら、「侮辱罪に当たる」として逮捕されてしまう事態が起こりうることになった。となれば、公人が自らへの批判を封じ込める手段として告訴するケースも想定される。
何か口走ったら拘束されるかもしれないという漠然とした恐怖は、普通の市民にとって無言の圧力となり、政治家や権力への正当な批判を萎縮させてしまうことが容易に推察される。
捜査当局が逮捕をほのめかすことで政治家に都合の悪い表現を逡巡するようになれば、民主主義の根幹が揺さぶられかねない。
厳罰化によって生じる言論抑圧の危険性がクローズアップされることになったのである。
■「首相はうそつき」は犯罪に当たるか…政府の説明は二転三転
侮辱罪の厳罰化をめぐって、国会では具体例を挙げながら論戦が繰り広げられた。
「『首相はうそつき。早く辞めれば』と言えば犯罪に当たるか」「三振したバッターやホームランを打たれたピッチャーに『給料泥棒!』と言ったら犯罪になるか」などの質問に対し、古川禎久法相は「犯罪の成否は、証拠に基づき捜査機関や裁判所によってなされる」と、正面から答えようとしなかった。
「閣僚を侮辱した人は逮捕される可能性があるか」との質問に対しては、二之湯智国家公安委員長が当初は「ありません」と答えたものの、次第に「あってはならない」と表現を弱め、最後は「逮捕される可能性は残っている」と答弁を変えた。
混乱の極みである。
あわてた政府は急いで統一見解を示し、この中で、公正な論評など正当な言論活動は処罰対象ではないとした上で、ヤジを含む表現行為については正当かどうか即座に判断するのは難しく、「現行犯逮捕は法律上可能だが、実際上は想定されない」と記した。
さらに、施行から3年後に表現の自由を不当に制約していないか検証することを改正刑法の付則に明記。検証にあたっては「公共の利害に関する場合の特例の創設も検討すること」とする付帯決議も行われた。
捜査当局の恣意的な取り締まりに一定の制約がかけられたが、検挙対象の不透明さは本質的に変わっておらず、危うさがつきまとう。
■有識者の間でも割れる見解
有識者の見解も割れている。
参院法務委員会の参考人質疑では、支持と批判の両極の意見が示された。
今井猛嘉・法政大教授は、木村花さんの事件を例に挙げてネットの誹謗中傷事件処理の適切性が問われていると指摘、名誉毀損罪との比較で侮辱罪の罰則が軽すぎるとして「法定刑の引き上げは正当である」と賛意を示し、「罰則の強化は時宜を得たもの」と評価した。
また、乱用的な運用に対する懸念も、侮辱罪に関する政府の統一見解を捜査機関に周知することを求める付帯決議により歯止めがかかるとの見方を示した。
一方、山田健太・専修大教授は、「刑事罰を重くしたために、民主主義が壊れることがあってはならない」と強調、「実際に捕まるかどうか以上に萎縮が生まれることが問題」と権力に対する「批判の自由」が損なわれる点を訴えた。
また、侮辱罪の適用対象の多くはヤジやデモなどの「大衆表現」であり、「恣意的に刑事罰の対象として取り締まられることは、表現規制の典型例になる」と懸念を示した。
衆院法務委員会の参考人質疑でも、趙誠峰弁護士が「表現の自由に与える危険が大きいということこそ、一番議論されるべき問題」と指摘した。
日本弁護士連合会(日弁連)は、「侮辱罪の法定刑引き上げは、ネット上の誹謗中傷に限らず、広く表現行為一般に対する規制を強化し、萎縮効果をもたらす」と、法定刑の引き上げそのものに反対する意見書を出している。
もし、今回の改正で、侮辱罪にも、名誉毀損罪のように「公人への批判は罰せられない」旨の免責事項が設けられていれば、表現の自由を脅かすという懸念はあまり大きくならなかったかもしれない。
■世界の「非刑罰化」の流れに逆行する日本
海外に目を向けると、侮辱罪や名誉毀損罪の「非刑罰化」が進んでいることがわかる。
国連の自由権規約委員会は11年、「表現の自由は個人の完全な発展に欠かせない条件で、透明性と説明責任の原則を実現するための必要条件であり、人権の促進および保護に不可欠」とうたう意見書を採択、「どんな場合であっても、刑法の適用はもっとも重大な事件に限らなければならない」として、名誉毀損を犯罪の対象から外すよう提起した。
実際、フランスは00年に侮辱罪や名誉毀損罪から懲役刑を除き、イギリスは09年に名誉毀損罪を廃止、イタリアは16年に侮辱罪を削除した。米国でも多くの州が名誉に対する罪を廃止している。
いずれも刑事事件ではなく、民事訴訟での解決を重視しようという動きである。
どんな表現が罪に問われるのかがあいまいなまま侮辱罪の厳罰化に進んだ日本は、こうした世界の流れに逆行しているといえる。
■誹謗中傷対策は侮辱罪厳罰化だけではない
ネットの誹謗中傷が、今や人権問題であることに異論はない。
侮辱罪の厳罰化は一定の抑止効果が期待されるものの、これだけで心ない投稿が一気に収まるわけではない。
被害を抑えるためには、プロバイダ責任制限法における発信者情報の開示要件をもっと緩和したり、侮辱罪の概念がない米国のプラットフォーマーから協力を得られる仕組みを整えたり、さまざまな手立てを講じる必要がある。
救済手段も、民事訴訟での損害賠償額を大幅に引き上げるなど、民事上の措置を拡充することが求められる。
山田健太教授は、ネットの誹謗中傷対策は既にさまざまな形で進んでおり、「今やネット空間は無法地帯でも野放し状態でもない」との認識を示したうえで、表現の自由の制約につながる法規制の強化よりも、それ以外の方策を充実すべきと論じた。
その通りだろう。
SNSの進展とともに、ネットの誹謗中傷をめぐる状況はより複雑化し、被害もより深刻になるかもしれない。それだけに、侮辱罪の運用は、きわめて慎重に行われなければならないし、表現の自由への影響を注意深く見守っていかねばならない。
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メディア激動研究所 代表
1955年生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒。中日新聞社に入社し、東京新聞(中日新聞社東京本社)で、政治部、経済部、編集委員を通じ、主に政治、メディア、情報通信を担当。2005年愛知万博で万博協会情報通信部門総編集長。現在、一般社団法人メディア激動研究所代表。日本大学大学院新聞学研究科でウェブジャーナリズム論の講師。著書に『「ニュース」は生き残るか』(早稲田大学メディア文化研究所編、共著)など。
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(メディア激動研究所 代表 水野 泰志)
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