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「国際友好の義務を果たす」そう言われてアフガンで戦ったソビエトの若者たちは精神を病んでいった

プレジデントオンライン / 2022年6月29日 15時15分

1988年05月15日アフガニスタン・カブール戦車から手をふるソ連軍兵士 - 写真=AFP/時事通信フォト

ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻(1978-89)では、「国際友好の義務を果たす」という政府の方針で、大量の若者が戦地に送り出された。やがて彼らは一人、また一人と、亜鉛の棺に納められ、人知れず家族のもとへ帰ってきた……。ジャーナリストとして初めてノーベル文学賞を受賞した作家による「戦争の記録」を紹介する――。

※本稿は、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著、奈倉有里訳『亜鉛の少年たち』(岩波書店)の「プロローグ」を再編集したものです。

■「バラバラの死体」殺したのは私の息子だった

ひとりで生きていきます……。これからは、ずっとひとりで……。

息子が人を殺したんです……いつも私が肉を料理するときに使っていた鉈(なた)で……。戦争からは帰ってきたのに、ここで人を殺してしまった……翌朝、あの子は帰ってきて、もともとしまってあった戸棚に鉈を戻しました。ちょうどその日、その鉈でカツを作ってあげたはずです……。しばらくして、テレビや新聞の夕刊に、市内の湖で釣り人が死体を発見したというニュースが報道されました……。バラバラになった死体が発見されたって……。

友達が電話をかけてきて私に、

「ねえ、新聞読んだ? プロの殺しかたですって……アフガンの手口よ……」

と言ったとき、息子はソファに寝そべって本を読んでいました。

その時点ではまだなにも知らなかったし、心当たりがあったわけでもないのに、ふとあの子に目がいったんです。母親の勘かしら……。

あ、犬が吠えてるでしょう。聞こえない? この話を始めると、犬の鳴き声がするの。走ってくる足音も……。いまあの子がいる刑務所に黒い大型のシェパードがいて……職員もみんな黒服で、黒ずくめ……。

ミンスクに戻ってきて、パンや牛乳を抱えてパンの売店や保育園のある道を歩いていても、まだ犬の鳴き声が聞こえる。耳を塞ぎたくなるような声が。そのせいで目の前がかすんで、車に轢かれそうになったこともありました……。

■「生きて帰ってくる!」生還を喜んだのもつかの間

息子のお墓に通う覚悟ならできていたんです……隣のお墓に入る覚悟も……。でもわからない……わからないわ、こんなものを背負ってどうやって生きていけばいいの。

たまに、台所へ行くだけで怖くなることがある、あの鉈がしまってあった戸棚を見るのが嫌で……。ほら、聞こえるでしょう?

なにも聞こえないって……ほんとうに?

いまあの子がどうしているのか、私にはわかりません。十五年後、どんな子になって帰ってくるのかも。判決は、重警備刑務所に十五年……。どんなふうに息子を育てたか、お話ししましょうか。

あの子が好きだったのは社交ダンスで……。二人でレニングラードのエルミタージュ美術館に行ったわ。一緒に本も読んだ……(泣く)。アフガニスタンにあの子を奪われてしまった……。

……タシケントから電報が来ました――「ムカエコウ、トウジョウキ○―××ビン……」。

私はベランダに飛びだして、思いきり大声で「生きてる! あの子が生きてアフガニスタンから帰ってくる! もうあの恐ろしい戦争のことなんか考えなくていいんだ!」と叫ぼうとして、気を失いました。

だから空港へは遅れてしまって、着いたときには息子の乗った便はとっくに到着していて、あの子は辻公園に寝転んで草を握りしめて、草の青さに目を丸くしていました。帰ってきたのが信じられないみたいで……。

だけど、まったく嬉しそうじゃなかった……。

■「何かがおかしい」言葉で表せない違和感

その夜、うちに近所のご家族が来ました。鮮やかな青いリボンを結んだ女の子を連れて。息子はその子を膝にのせて抱きしめて、泣きだしてしまった。涙がとめどなく流れて……。息子も、戦地では人を殺してきたんだもの……。そうと気づいたのは、あとになってからだけど。

入国の際にあの子は税関で外国製の水泳パンツを無理やり脱がされて没収されたそうです。アメリカ製品は持ち込み禁止だからって……。だからあの子は下着もはかずに帰ってきた。四十歳のお祝いに私にくれるはずだったガウンも、おばあちゃんにあげるはずのスカーフも取りあげられて。グラジオラスの花束だけは持ってきました。だけど、まったく嬉しそうじゃなかった。

朝起きたときはまだ普通にしてるの――「おはよう、母さん」って。でも夜になるにつれて表情に翳りがさし、目つきもどんよりとして……うまく言葉にできないけど……。はじめは、お酒は一滴も飲まなかった……。ただソファに座ってじっと壁を見つめていたかと思うと、不意に立ちあがって上着を掴んで……。

私はドアの前に立ちはだかって、

「ワーリュシカ、どこへ行くの?」

って訊いたわ。でもあの子はまるでからっぽの空間を見るような目で私を見て、出ていってしまった。

■「傷だらけの腕」息子は理由を話さなかった

職場から帰るのは遅い時間だった。勤め先の工場が遠いうえに、遅番だから。だけどベルを鳴らしても、あの子はドアを開けてくれないんです。声を聞いても誰だかわかってくれなくて。

そんなのっておかしいでしょう、友達の声ならまだしも母親の声を忘れるなんて。しかも「ワーリュシカ」って呼ぶのは私だけなのに。あの子はまるで絶えず誰かが来るのを予期して、怯えているみたいでした。新しいシャツを買ってきて、サイズを合わせてみようとしたとき――腕が傷だらけなのに気づきました。

「どうしたの、これ」
「なんでもないよ」

あとになってから知ったんです。裁判のあと……。訓練所(ウチェプカ)で何度も手首を切ったって……。

模範演習のときあの子は通信兵で、携帯無線機を木の上にいる兵士に渡すのが間に合わず、決められた時間内にできなかったそうです。それで下士官がトイレの汚水をバケツに五十杯汲ませて、隊列の前を通って運ぶよう命じました。あの子は運んでいる途中で気を失ってしまって、病院で軽い精神性ショックと診断されたその夜、手首を切ったそうです。

二度目はアフガニスタンで……奇襲の直前の点検で携帯無線機の故障が見つかったとき――予備のない部品がなくなり、隊の誰かが盗んだということになって……。犯人探しが始まると、隊長があの子を臆病者呼ばわりして、さもあの子が皆と一緒に行きたくなくて部品を隠したとでもいうように非難したそうです。

■帰ってきたのは私の知ってる“あの子”ではなかった

でも現地では隊内での盗みが横行していて、自動車はパーツごとに分解されて現地の店(ドゥカン)で売りさばかれていたんです。そのお金で麻薬を……麻薬や煙草や、食べものを買うために。彼らは四六時中飢えていたんです。

テレビでエディット・ピアフの番組をやっていて、あの子と一緒に見ていたとき、

「母さん、麻薬ってどんなものだと思う?」と訊かれました。

「知らないわ」と答えましたが、それは嘘でした。そのときはもう、あの子が麻薬を吸っていないかどうか気にかけていたんです。

その気配はなかったけど、現地であの子たちが麻薬をやっていたのは確かです。

「アフガニスタンではどうだったの?」と訊いてみたことがあります。

「うるせえ!」

あの子がいない隙に、アフガニスタンから届いた手紙を読み返しました。あの子の身になにがあったのか、その真相を知りたい、理解したいと思って。でもなにも特別なことは書いてありません。草の緑が恋しいとか、雪景色のなかに立っているおばあちゃんの写真を撮って送ってほしいとか。

でもあの子がどこかおかしいのは見ていてわかったし、感覚的にも伝わってきて……。帰ってきたのは別人でした……。あれは、うちの子じゃなかった。

歴史の古い写真の手書き文字
写真=iStock.com/bgwalker
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/bgwalker

■「軍隊に入れば立派になる」送り出したのは私だった

でも私は自らあの子を戦地に送り込んだんです。先延ばしにすることもできたのに。逞しくなってほしかった。軍隊に入ればもっと立派になる、強くなるんだって、自分にもあの子にも言い聞かせてた。アフガニスタンに行くあの子にギターを持たせて、お菓子を並べて壮行会をしました。あの子は友達を呼んで、女の子たちも来て……。私はケーキを十個も買いました。

一度だけ、アフガニスタンの話をしてくれたことがありました。夕食の前に……私がうさぎを料理していたら、台所に来たんです。ボウルの中は血だらけでした。あの子はボウルの血に指を浸して、その指を見つめました。まじまじと。そして独りごとのように言いました。

「腹をやられた奴が運ばれてきて……そいつに、撃ってくれって頼まれた……だから撃ってやった……」

指が血まみれでした……死んだばかりのうさぎの鮮やかな血で……。あの子はその指で煙草をつまみ、ベランダへ出ました。その晩は、それきりひとことも口をききませんでした。

■うっかり聞いてしまった息子たちの会話の中身

私は病院に行って医者に頼みました。息子をもとに戻してください、助けてくださいって。洗いざらい話して……あの子を検査して診てもらいましたが、神経根炎と診断されただけでした。

心理学者は悲しい男性兵士、PTSDとのセラピーセッション
写真=iStock.com/Motortion
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Motortion

あるとき家に帰ると、見慣れない若者が四人テーブルを囲んでいました。

「こいつら、アフガンから帰ってきたばっかりなんだ。駅で会ったんだけど、泊まるところがないんだって」

「じゃあおいしいパイを作るわ。すぐにできますからね」。私は不思議と嬉しくなってしまって。

その子たちはうちに一週間いました。数えたわけじゃないけど、ウォッカを三箱は飲んでいきました。毎晩帰ってくると知らない若者が五人いて、その五人目はうちの息子で……。

あの子たちの会話は、怖くて聞きたくなかった。でも、うちにいるんだもの……うっかり聞いてしまって……。

そのとき話していたのは、二週間続けて待ち伏せする任務につくとき、攻撃的になれるように興奮剤が配られたこと。だけどすべて口外してはならないということ。それから、どんな武器で殺すのがいいか……どのくらいの距離がいいか……。

あとになって思い出しました、あれが起きてしまったあとに……。それでよく考えてみて、ぞっとしたんです。それまではただ怖くて、「ああ、あの子たちみんな気が違ってしまったみたい。どうかしているわ」と思っていただけでした。

■「夢の中ではいたいけな子供」息子はもう帰ってこない

夜……あの子が人を殺すその前の晩に……夢をみました。私はあの子を待っているのに、いくら待っても帰ってきません。そこへ、あの子が運ばれてきて……。運んできたのは例の、四人のアフガン帰りの若者でした。そして汚れたコンクリートの床に放り出すんです。つまり、うちの床が剥き出しのコンクリートになってたんです……うちの台所が――まるで刑務所みたいに。

そのころにはもう、息子は通信工科大の予備科に通い始めていました。いい小論文も書いて。すべてがうまく運び、幸せそうでした。私も、もうあの子は大丈夫だと思うようになっていました。あとは大学に入って、いずれは結婚もして――と。

でも夜になると……私は夜が怖かった……あの子は安楽椅子に座り、じっと壁を睨むんです。そしてそのまま寝入ってしまう……。私は駆け寄ってあの子を抱きしめてあげたかった、どこにも行かせたくなかった。

最近、夢をみるの――あの子はまだ子供で、なにか食べたいってねだるんです……決まってお腹を空かせていて、両手を差しだして……。夢のなかのあの子はいつだって、いたいけな子供。でも現実の世界では、二カ月に一度の面会があるきりです。ガラス越しに四時間、話ができるだけ……。

年に二回の面会のときは、少しは手料理を食べさせてあげられます。あの犬の鳴き声が響くなかでだけど……。夢のなかでもあの犬が吠えて、あちこちから私を追いかけてくるんです。

■人を殺せるものなのか、わからなかった

私にアプローチをしてくれた人がいました……花束を持って……。その人が花束をくれようとしたとき、私は「近寄らないでください、私は人殺しの母親なんです!」と怒鳴っていました。

はじめのうちは知り合いに会うのも怖くて、お風呂場に閉じこもっては、このまま壁が崩れて生き埋めになってしまえばいいのにと考えていました。

外に出れば誰もが私を知っていて、みんながこっちを指差しては、「ほら、例のひどい事件の……あの人の息子がやったんでしょう。バラバラにしたらしいですよ。アフガンの手口で……」と噂しているんじゃないかという気がして。

だから外へ出るのは夜中だけにしたんです。夜行性の鳥にすっかり詳しくなって、鳴き声でわかるようになりました。

取り調べがあって……数カ月続きましたが……あの子は黙っていました。私はモスクワのブルデンコ軍病院を訪ねました。そこで、あの子と同じく特殊部隊(スペツナズ)にいた子たちを探し出して、事情を説明しました……。

「どうしてうちの子が殺人を犯すことができたんでしょう」
「つまり、それだけのことがあったんでしょうね」

なかなか腑に落ちなかったんです、息子がそんな……人を殺せるものだろうかって……。

■殺すことを何とも思っていない少年たち

ひたすら訊いて回って、ようやくわかりました。殺せたんだ、って。死ぬことについても訊いてみました……いえ、死ぬことというより、殺すことについて。でも殺人の話をしてもまったく抵抗感がないんです、血を見たことのない正常な人間なら殺人と聞いて必ず感じるはずのあの感覚を失くしてしまってる。

あの人たちは戦争を、人を殺す仕事と捉えていました。それから、やはりアフガニスタンを経験し、アルメニア地震のとき〔一九八八年十二月〕には救助隊とともに現地に行ったという若者たちにも会いました。アルメニアで恐怖を感じたかどうか、それが気になったんです。

私はそこにこだわるようになっていました。彼らは死を目の当たりにしてなにを感じるのか。でもやっぱりなにも恐れないし、かわいそうだとも感じにくくなっているようでした。

手足のない人……潰された人……頭、骨……。まるごと地中に埋まってしまった小学校……教室……。授業中、席に着いたまま土の下に消えていった子供たち……。

それなのに彼らが思い出すのは、まったく別のことばかり。上等な酒の貯蔵庫を掘り起こしたとか、どんなコニャックやワインを飲んだとか。「またどこかで地震でも起きないかな、起きるなら暖かい土地で、ブドウの木が育つ、いいワインがとれるところがいい」なんていう冗談さえ飛ばして……。

あの子たちはまともなんでしょうか、精神に異常はないんでしょうか。

■本当に裁かれるべきは誰なのか…

「俺は死んだあいつを恨む」って、最近あの子が手紙に書いてよこしたんです。五年も経つのに……。

当時なにがあったのかと訊いても、答えてくれません。わかっているのはただ、殺した相手は――ユーラという青年でしたが――アフガニスタンで金券(チェーキ)〔国外で働くソ連市民の給与支払いに用いられていた券〕をたんまり稼いだと吹聴していたということだけです。

でも、じつは彼はエチオピアに准尉として勤務していたんです〔一九七七~八八年のオガデン戦争〕。アフガニスタンの話は嘘でした……。

裁判では弁護士のかただけが、「被告は精神を病んでいます」と言ってくれました。「被告席にいるのは罪人ではなく病人です。このかたには治療が必要です」と。

でも七年前のそのころはまだ、アフガニスタンの真相は知られていませんでした。みんな英雄扱いで、「国際友好戦士」と呼ばれていました。でもうちの息子は殺人犯……。現地でやっていたことを、ここでやってしまったからです。向こうでやれば記章や勲章がもらえたことを……。

なぜあの子だけが裁かれたのでしょう。あの子をあそこに送り込んだ人間は裁かれないのに。人殺しを教え込んだんですよ! 私はそんなこと、教えていません……(声を荒げて叫ぶ)。

■“英雄”の母親たちが背負うもの

あの子は料理用の鉈で人を殺して……翌朝、その鉈を持ち帰って戸棚に戻しました。普通のスプーンやフォークのように……。

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著、奈倉有里訳『亜鉛の少年たち』(岩波書店)
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著、奈倉有里訳『亜鉛の少年たち』(岩波書店)

両足を失くして帰ってきたお子さんの母親を、羨ましく思ってしまうんです……。たとえその子が飲んだくれて母親を罵ったとしても……世界を恨んでいたとしても。獣のように暴れて母親に殴りかかってきても。

ある母親は息子の気が狂わないように女性を買っているそうです……。一度なんて、自ら息子の相手になったこともありました、その子がベランダの手すりによじ登って十階から飛び降りようとしたからです。

私はそういうふうになったっていいんです……。ほかの母親がみんな羨ましいんです、息子を亡くしてしまった母親さえも。私はきっと、お墓のかたわらに座って、幸せに思うでしょう。お花をお供えするでしょう。

犬が吠えているのが聞こえますか? 追いかけてくるのが。私には聞こえるんです……。

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スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ ジャーナリスト
1948年ウクライナ生まれ。国立ベラルーシ大学卒業後、ジャーナリストの道を歩む。綿密な聞き書きを通じて一般市民の感情や記憶をすくい上げる、多声的な作品を発表。戦争の英雄神話をうち壊し、国家の圧制に抗いながら執筆活動を続けている。2015年ノーベル文学賞受賞。邦訳作品に『戦争は女の顔をしていない』『ボタン穴から見た戦争――白ロシアの子供たちの証言』(岩波現代文庫)、『完全版 チェルノブイリの祈り――未来の物語』『セカンドハンドの時代――「赤い国」を生きた人びと』(岩波書店)など多数。

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奈倉 有里(なぐら・ゆり)
翻訳者
1982年東京生まれ。ロシア国立ゴーリキー文学大学卒業。東京大学大学院博士課程満期退学。博士(文学)。著書に『夕暮れに夜明けの歌を――文学を探しにロシアに行く』(イースト・プレス)、『アレクサンドル・ブローク 詩学と生涯』(未知谷)、訳書にミハイル・シーシキン『手紙』、リュドミラ・ウリツカヤ『陽気なお葬式』(以上新潮クレスト・ブックス)、ウラジーミル・ナボコフ『マーシェンカ』(新潮社「ナボコフ・コレクション」)、サーシャ・フィリペンコ『理不尽ゲーム』『赤い十字』(集英社)など。

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(ジャーナリスト スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ、翻訳者 奈倉 有里)

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