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「人材」を採用しようとする会社に勤めてはいけない…就活生に『嫌われる勇気』の著者が話していること

プレジデントオンライン / 2022年7月5日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kazuma seki

就職活動ではどうやって会社を選べばいいのか。哲学者の岸見一郎さんは「ある会社に就職できなかったとしても、それはその会社が求める人材ではないと判断されたにすぎない。他者からの評価は、自分の価値とは関係がないことを知ってほしい」という――。

※本稿は、岸見一郎『孤独の哲学 「生きる勇気」を持つために』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

■交友関係を見直す絶好の機会

学生から、携帯端末を買い換える時、連絡先のデータを消去するという話を聞いたことがあります。常日頃メールや電話で連絡を取り合っている人であれば、相手からの連絡を待って、あらためて電話番号やメールアドレスを登録し直せばすむかもしれません。しかし、連絡がない相手とは、そこで縁が切れてしまいます。

この学生のようにあえてデータを消す人は少ないでしょうが、人と自由に会えなくなったのを機に、交友関係を見直すことができます。対人関係を見直すという言い方をすると差し障りがあるかもしれませんが、どうしても付き合っていかなければならない人は、多くはありません。

本当に大切な人、会いたい人であれば、対面できなくても何とかして連絡を取り、関係を保つ努力をするでしょう。オンラインなら顔を見て話すこともできます。

■自分の価値を他人の評価で測る人は孤独を恐れる

自分が会う人を選ぶ側に立っていれば選択したのは自分なので、そのために人からよく思われず孤独になってもやむをえないと思えます。しかし、視点を変えると、他の人も自分を会うべき人、会いたい人として選ばない可能性があります。

もちろん、「あなたとはこういう理由で会えない」とか、「あなたはどうしても会いたい人ではない」というようなことを面と向かっていう人はいないでしょうが、いつの間にか人と会う機会が少なくなったのに気づくことになります。

こうして、以前は自分が孤独になるとは思ってもいなかった人も、他者から選ばれないかもしれないと、孤独を恐れるようになります。一人でいることではなく、対人関係の中で自分が選ばれず、仲間外れにされる事態を恐れるのです。

また、自分の価値を他者からの評価で測ってきた人であれば、自分のまわりから人がいなくなると、自分は選ばれなかったのだと思って自信をなくしたり、自分の価値が下がったと考えたりするようになります。

■資源を持たない人は孤独を強いられるようになった

コロナ禍においては「つながりの格差」が生まれると考える人がいます。これは人に選ばれる「資源」を持っている人とそうでない人との格差です。資源を持っているというのは、人から会いたい、あるいは会わなければならないと思われる条件を備えているということです。その意味で資源を持っていれば、どんな状況でも人と会えますが、資源を持っていなければ、社会から孤立し孤独になるというのです。

コロナ禍の今は、人と会うか会わないかを決めなければならない場面があります。そこで、人からつながりを求められる人と、つながりを切られる人との格差が生まれている。「資源」を持っていない人は自分の意思とは関係なく孤立する。そこで、人とつながれる人とそうでない人の格差が生じたため、以前は孤独に生きることを自分で選択できたが、今は選択できることではなくなり、資源を持たない人は孤独を強いられる――というわけです。

問題は「資源」の内実、すなわち何をもって選ばれるかという基準です。人と会いたくない時は、先に見たように、会わない理由や誘いを断る方便が必要な時もありますが、人に会いたい時は、ただ単に会いたいから会いたいのであって、相手の社会的地位や年収、また外見のようなことを人に会う理由にしているとすれば、かなり奇怪であるといわなければなりません。

■“資源”を基準に付き合う人を選ぶことの落とし穴

契約などを結ぶため、にこやかに愛想を振りまいて会いたいといってくる人は、相手に資源があるからです。貯金の残高が少なければ、銀行員は近づいてきません。資源を持っていると判断した途端に態度を変えるような人を信じることはできません。

社会的地位や年収、また外見のような基準で人を選ぶ人、あるいは自分にとって付き合うことが有利であるかどうかを考えて会うか会わないかを決めるような人とは、付き合う必要はありません。

交友関係においても、会うか会わないかを何かの基準に照らして決める人は、もしも相手にその基準に適う条件がなくなったと判断すれば、何のためらいもなく関係を切るに違いありません。そのような人に選ばれなかったとしても、そのことで孤独になったと考えなくていいのです。

人と会う時に、会いたいという以外の理由を必要とするような人は、エラい人から会いたいといわれたら、約束を平気で反故にするでしょう。

他者に依存的な人は、自分が選ばれないことに絶望するかもしれませんが、自立した人であれば、外的な条件で選ぶような人に選ばれなくても孤独であるとは感じないでしょう。

■他者からの評価は自分の価値とはまったく関係がない

ローマ皇帝のマルクス・アウレリウスが、次のようにいっています。

「絶えず波が打ち寄せる岬のようであれ。岬は厳として立ち、水の泡立ちはその周りで眠る」(『自省録』)

まず、他者からの評価は、自分の価値とは関係がないことを知らなければなりません。だから、人からよく思われなくていいのです。たとえ仲間から外されることになったとしても、その仲間に属する条件を欠いていたというだけのことであり、自分の価値はいささかも減じません。

このことを私は就職活動をする若い人たちに話してきました。就職できなければ意味がないと思う人もいるでしょうが、会社に入るために自分の魂を売り渡すようなことをしてはいけないと私は考えています。

つまり、他ならぬ「この私」を採用してほしいと思うことが大切で、会社に合わせる必要はないのです。ある会社に就職できなかったとしても、それはその会社が求める人材ではないと判断されたにすぎません。そもそも、「人材」を採用しようとするような会社は、「個人」を見ていないのです。他の誰にでも代替可能な「モノ」としての社員が必要なだけです。

個人間の評価であれば、なおさら気に留める必要などありません。自分のことをよく見ている人もいれば、そうでない人もいるというだけのことです。

■正しく判断するためには孤独である覚悟が必要

次に大切なのは、自分の置かれている状況で何をするのが必要なのかを正しく判断できることです。その判断のためには、知性が必要です。正しく判断するためには、孤独である覚悟も必要です。

三木清は次のようにいっています。

「すべての人間の悪は孤独であることができないところから生ずる」(『人生論ノート』)

人からよく思われたい人、孤独を恐れる人はいうべきことをいわず、するべきことをしません。

孤独を恐れる人は、職場の不正を知ってもそれを告発しないかもしれません。あるいは、不正までとはいわないにしても上司や同僚の主張がおかしいと思っても、あえて異を唱えようとしないかもしれません。職場の和を乱すようなことや、何よりも上司や同僚からよく思われないことを恐れます。そうなると、職場に悪が蔓延(はびこ)ります。他者からどう思われるかを恐れず、いうべきことをいえば、孤独になるかもしれませんが、悪は蔓延(はびこ)りません。

通路を歩く人
写真=iStock.com/AlexLinch
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/AlexLinch

■怖いことを怖いといわせない社会は怖い

自分が人からどう思われるかということと、正義や理に適っていることのどちらを優先させなければならないか――それは自明のことだと思うのですが、悪を告発すれば、人からよく思われないばかりか、不利な立場に置かれてしまうのが現実です。

新型コロナウイルスへの感染を恐れて休場を申し出た力士が、そのような理由で休場するのは認められないと相撲協会からいわれ、引退を余儀なくされました。同じく感染対策を理由に結婚式への出席を拒んだために、親戚同士がいがみ合うようになったという話も耳にします。あるいは「感染が落ち着いてきたから、リモートワークはしないで出社するように」と会社からいわれたら、断ることは難しいでしょう。「コロナと結婚式とどちらが大事なのか」と迫る親戚と今後も長く付き合わないといけないとしたら、無下には断れないかもしれません。出社を断れば、仕事を失うはめに陥るかもしれません。

たしかに現実的には正義や理を貫くのは困難なことがあります。しかし、生命の危険を冒してまで他者の意向を忖度(そんたく)しなければならないのかは考えなければなりません。怖いことを怖いといわせない社会は、コロナウイルス以上に怖いです。

■なぜ「病気で入院中」を隠してしまったのか

人と会えなくなったからといって、必ず孤独になるわけではありません。条件で付き合う相手を選ぶような人や正当な主張を受け入れようとしない人と付き合わないでいられたら、むしろ清々するといっていいくらいです。

そのような人が目の前から消えても孤独だと思わなくてもいいのは、自分を受け入れてくれる人が他に必ずいるからです。このことは私も実感したことがあります。

癌であることがわかった作家が、「終わった人」と思われたくないので、病気であることを編集者に隠していたという話を聞いたことがあります。

私も心筋梗塞で倒れた時に、近く出版されることになっていた本の校正刷りが届いたのですが、編集者に入院の事実を明かしませんでした。今から思えば、病気で入院中なので締め切りを延ばしてほしいといえばよかったでしょうし、病気を打ち明けたとしても出版が取りやめになったはずはないのですが、私はそれを恐れたのでした。

実際、入院したために、その時教えていた学校の講師の職を解かれるということが起きたのです。次の週に出講できないのであれば、すぐに代わりの講師を探さなければならなかったからなのでしょうが、1カ月で退院できると主治医にいわれていたのですぐに復帰するつもりでいた私は、この解雇を不当だと思いました。

常勤であればこのようなことにはならなかったでしょう。私の生命よりも、次の週に休講しないことの方が大事なのかと思いますが、私自身が入院していることを伏せて校正の仕事をやり遂げようと思ったのですから、私も学校も根底にあるものは同じなのです。生命よりも仕事が大切だという考えです。

■いつでも生命より仕事が優先されているわけではない

このようなことがあった時に、一つの考え方は、仕事なのだから他の誰かが代われるのであれば、他の人が引き継ぐのが当然だということです。

一見、もっともらしい理屈ですが、病気や、先に見た力士のようにコロナウイルス等の不可抗力によって仕事を切られると、代わりはいくらでもいると、生命よりも仕事が優先されていると思うからです。このような経験をすると、この世界は殺伐とし人を信じられないと感じてしまいますが、いつもそのようなことばかり起きるわけではありません。

この時、私にとって幸いだったのは、別の学校からは、必ず復帰してほしいといわれたことでした。この言葉が励みになり、入院したのは4月でしたが、6月には教壇に立つことができました。

■道を聞く時に「教えてくれるだろうか」と考えるか

仕事でない場面では、さらに人のことを信じられず、自分を受け入れてくれる人は誰もいないと思う人がいるかもしれません。しかし、これまでの人生を振り返れば、そんなはずはないと思い当たるのではないでしょうか。

岸見一郎『孤独の哲学 「生きる勇気」を持つために』(中公新書ラクレ)
岸見一郎『孤独の哲学 「生きる勇気」を持つために』(中公新書ラクレ)

例えば、電車の中で救いを求める人がいたとしたら、事情が許す限り力になろうとするのではないでしょうか。

反対に、自分が助けを必要とする立場に置かれた時には、「はたして自分を助けてくれる人はいるだろうか」と考えるよりも前に助けを求めるでしょう。誰かから助けを求められたら、自分も助ける用意があることを知っているからです。実際、無視されることはないでしょう。

道をたずねる時も、「この人ははたして道を教えてくれるだろうか」といちいち考えません。もしも最初にたずねた人が道を知らなければ、別の人にたずねるだけのことです。中には立ち止まらないで通り過ぎる人がいるかもしれませんが、だからといって、これからは誰にも道をたずねないでおこうとは思わないでしょう。

■条件なしに会いたいと思ってくれる人は意外と多い

このような無条件の信頼に根ざした対人関係こそが本来のあり方です。コロナ禍で、他の人が自分を会うべき人、会いたい人として選ばないかもしれないという話に戻ると、現状では誰と会うかに優先順位をつけないわけにはいきません。

しかし、外的な条件でこの人は自分にとって会うのが有利かどうかを決める人が仮に存在するとしても、そのような人の方が例外であり、むしろ条件なしに会いたいと思ってくれる人の方が多いと考えていいのです。そのような人とのつながりを感じられれば、孤独になることはありません。今は真の友人を見つける好機といえます。

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岸見 一郎(きしみ・いちろう)
哲学者
1956年京都生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋古代哲学史専攻)。ミリオンセラー『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(以上、古賀史健氏との共著)をはじめ、『困った時のアドラー心理学』『人生を変える勇気』『アドラーをじっくり読む』など著書多数。

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(哲学者 岸見 一郎)

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